無頼派棋士たちの秋

将棋世界1995年11月号、中野隆義さんの第8期竜王戦挑戦者決定戦第3局〔佐藤康光前竜王-先崎学六段〕観戦記「霸への扉」より。

挑戦者決定戦第3局。将棋マガジン1995年12月号より、撮影は弦巻勝さん。

扉を開く手

 決戦の日、佐藤は和服姿で現れた。紋付き羽織ハカマの正装である。ノーネクタイが先崎の最良の戦闘服姿なら、それに対抗するにはこれしかない、という気持ちがまさに全面に押し出された出で立ちである。互いに全力を尽くすぞと宣言しあう勝負は最高だ。カメラマン弦巻さんは、「いい緊張感だったね」と朝の対局室の空気を賛美した。

 難敵佐藤に対し、ぜがひでも先番が欲しい。と先崎は思ったはずだ。しかし振り駒は無情にも佐藤の先番となった。

 とにかく主導権を持って戦わねば勝ちは望めない。先崎は後手番ながら「カニカニ銀」と呼ばれる急戦矢倉に出た。

 6図は、一匹目のカニが動き出した場面。

佐藤先崎7

 続いて△4四銀と二匹目のカニも前線に繰り出された。対する佐藤は、カニの大暴れを抑えるべく慎重に立ち回った。

(中略)

佐藤先崎8

 7図。ここから先手がどう局面を打開するかに本局の命運が掛かっているという場面である。

 ▲2四歩から角で2筋の歩を切り、▲4六角と攻防の要所に据えてから▲3六歩と銀の進軍する道を開いたのが強い手だった。▲4六角により△7三銀と戻させることで自玉頭にかかる圧力を軽減している。これが効果その1である。もう一つは、▲3七銀から▲2六銀(8図)の出足の早さが後手の狙う△5八歩を上回ったことにあった。

佐藤先崎9

 そして、これがまさに本局の行方を決定づける流れを佐藤に引き寄せることになたのである。

 敵が動いた瞬間に動き、敵の動きを断ち切る。それが高手同士の勝負の付け方である。後手が切り札△5八歩を出すのなら▲2六銀の瞬間をおいて他はない。

 しかし、△5八歩にはあくまで強く▲2五銀と出られ、以下△5九歩成では▲3四銀と摺り込む攻めのスピードに対抗できないのであった。△5九歩成のところ△3三銀と日和るのは、角交換から▲7一角~▲2六角成とされて、これは勝負を争う将棋ではなくなってしまう。

 苦吟60分。先崎は、一本8筋を突き捨て、△4六角▲同歩に△4七角と打ち込む手に運命を託した。△4七角に▲2五銀なら△2四歩▲3四銀△3六角成とする勝負手がある。

 しかし、運命を託すと言うにはあまりにも色濃い暗い予感を先崎はひしひしと感じてもいた。敵の切り札を抑えるにはこの筋に角を打つしかないのだが、すると今度は角打ちがやり過ぎになる恐れがあるのである。60分の長考は、△4七角の未来を覗こうとしたのではなく、角打ち以外の手段ではまったく駄目であることを悲しく確認した時ではなかったかと思う。

 ▲3七銀(9図)が、心憎いばかりの落ち着きである。 

佐藤先崎10

 敵の挑発に乗らず、打ち込んできた角を新たなる攻撃目標にしかと据えている。将棋はこういう手をやられるのが一番こたえるのだ。

 アヤを求める△5五歩に▲4五歩から2六に馬を作ったのがまたまた好着想。勝負事は、流れが良くなるとこうして敵が困る手が次々と出てくるのだ。

 先崎の駒は、出れば目標にされ、引けば引いたで嵩にかかってぶっ叩かれるという惨状を呈するはめに陥った。酷いことになるかもしれぬという危惧があったが、それがこれほど確かに現実になろうとは思っていなかっただろう。

 ▲3七桂と、桂得の上にこの桂まで活用されては完全にまいった。

 △5六銀(10図)と先崎は首を差し出した。もうどうやっても佐藤が勝ちである。

佐藤先崎11

 どう決めるのかとモニターを見つめていると「▲5八金と引いても勝ちだね」という声が上がった。▲5八金は勝負に血を通わせぬ冷え冷えとした一手である。

 あのねえ、そんな手、佐藤がやる訳ないでしょうが、と表だって口に出す勇気のない記者は胸の中で呟いたのだが、二度、三度にわたって▲5八金とやるんじゃないのという声を聞くうちに猛烈に腹が立ってきた。瞬時に、もし佐藤が金を引いたら、この観戦記を書くのはやめにしようと決心する。あそこで金を引くような棋士の観戦記は書けない」と正直に言えば大崎編集長もきっと勘弁してくれるだろう。

 佐藤の手が5七の金に向かって動いているのを見た時は血が凍りかけたが、駒をつかむ手つきが金を引くものではないと分かってほっとした。刹那とはいえ、信頼の心が揺らいだことを許して欲しい。

 敵の敢闘に報いる手にのみ覇への扉は開かれる。

 羽生との七番勝負は、今までに増しての激戦となることだろう。

挑戦者決定戦第3局。将棋マガジン1995年12月号より、撮影は弦巻勝さん。

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△5六銀(10図)と首を差し出した手に、先崎学六段(当時)の無念が凝縮しているように思える。

終盤の競り合いという局面でもないので、より辛さが感じられる。

10図以下は、

▲4六金△8五歩▲7七銀△7五歩▲5七歩△7六歩▲同銀△8六歩▲5六歩△8七歩成▲同銀△8六歩▲7六銀△6四銀▲4五桂△2四金▲5四桂△7五歩▲4二歩まで、101手で佐藤前竜王の勝ち。

最終盤の、詰む詰まないの局面での安全勝ちは大いにあることだし、有力な方針でもあるが、10図は、まだ中盤と言っても良いような局面で、なおかつ形勢の差がかなり開いている。

この状況下での▲5八金は、中野さんが書かれている通り「血を通わせぬ冷え冷えとした一手」ということになる。

「敵の敢闘に報いる手にのみ覇への扉は開かれる」

相手が首を差し出したならば、きちんと応じるのが武士の作法。佐藤康光前竜王(当時)は、最短かつ最善の手順で勝った。

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将棋マガジン1995年12月号、「竜王挑戦者・佐藤康光インタビュー 勢いのある将棋を指したい」より。記は木屋太二さん。

佐藤「先崎さんとは年は私のほうがひとつ上だが奨励会入りは向こうが一年先輩という関係。奨励会時代はほぼ似たようなペースで昇段しました。同年代ですが何かと見習うところの多い人です」

(中略)

―先勝の余裕は?

佐藤「全然なかった。第1局を戦って先崎さんの調子がいいことを感じてましたから」

―この敗戦は?

佐藤「残念だったが悪い手をそんなに指していない。ミスで負けたのではなく相手に途中から完璧に指された。だから悔やむことはなかった。納得のいく負け。後に残らない負けです」

(中略)

―そして決勝の第3局。この一戦を迎えた時の心境は?

佐藤「勝ちたかった。第2局以上に。前2局で相手の強さを再認識した。熱戦は確実。最後まで勝敗の分からない将棋になると思った」

(中略)

佐藤「和服は気分転換、相手に敬意を表した意味もあります。もちろん気合も入っていました」

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第3局の佐藤前竜王の和服は、挑戦権獲得へ向けての気合いと先崎六段への敬意の表れ。

挑戦者決定三番勝負が、素晴らしいドラマであったことを感じさせてくれる。

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将棋世界同じ号の河口俊彦六段(当時)の「新・対局日誌」より。

 ヴァイオリニストの岩淵龍太郎さんの演奏会が開かれる。会場は千駄ヶ谷駅前の、津田ホールである。

 大先生が千駄ヶ谷村にいらっしゃるとなれば、どうしたってご挨拶に出向かなければならぬ。そして、名演奏を堪能するために、十分準備して行くのがエチケットというものである……。と、山口瞳さんに教えられた。

 演奏会は二日にわたり、曲目は、ベートーベンの弦楽四重奏曲が合計6曲。私もクラシック音楽をすこしかじったが、減額四重奏曲はめったに聴かない。「運命」や「未完成」と違って耳になじんでない。クラシック音楽の初級者にとって聴きおぼえのないフシはなにがなんだか判らず、退屈きわまりなく、それでは演奏者に失礼であろう。

 そこで、演奏会の2、3日前から、CDをかけて、演奏曲を耳になじませようとした。ところが、これが容易でない。何べん聴いても主題すら覚えられない。要するに、私は耳がわるいのだ。聴音機能が劣っている分は、数で補うしかない。一曲を何十回も聴いたが、中に「大フーガ」という作品があり、これには途方にくれた。半日聴いても、ただ耳ざわりなだけ。家人も嫌な顔をするし、なんで音楽史上の大傑作なのか、と思った。

 しかし、将棋指しの意地で、なんとかすこしでもなっとくしたい、屈せずCDをかけて聴いているうち、宗看の「無双」でも考えているような気分になった。詰まない(詰ませられそうにない)詰将棋を眺めているときの、あの気持である。

 そのときどうすべきか。

 最善は、あきらめて考えるのをやめることである(口ぶりが先崎君に似てきた)。最悪は、半端に考えて(30分くらい)やめてしまうことだ。なんのプラスも残らない。次善は、ひたすら眺めつづける。

 私は、音楽で第三の道を選んだ。しかし、結局なにも理解できなかった。

 そして当日、津田ホールに行くと、佐藤、中村両君が来ていた。明日は決勝第3局である。変な音楽を聴いてカンが狂わないだろうか。3曲目、大フーガが始まった。鳴った音に聴きおぼえがあったのは、学習の効果であろう。実演を見ていると、演奏者の身ぶりに助けられ、すこしは理解できたし、おもしろく聴けた。

 終われば打ち上げである。二上会長、山本直純さんの顔が見えた。さすがに佐藤君はすぐ帰ったらしい。型通りの事があって、岩淵さんにお礼すると、先生は「あれは宗看の詰将棋です。詰まなくて当然ですよ」と笑った。

 ヤッタ!内心快哉を叫んだ。私のカンは当たっていたのだ。

 つづいて演奏会の二日目。私の予定は午後は将棋会館へ行き、決勝第3局を見る。7時から9時まで音楽を聴き、戻れば、ちょうどよい場面にぶつかる、であった。どうせ1分将棋になるから、終わるのは午後11時ごろ。7時からの空白は問題なし、と読んでいた。

 物事は予定通りに運ばない。私が怠け者のせいもある。誤算の第一は、前夜山本さんと六本木あたりをうろついたこと。甘い誘惑に弱いのだ。マエストロを送って自宅に着いたのは午前4時だった。必然的に翌日は早く起きられないし、二日目の音楽の予習もしなくてはならない。前日の打ち上げのとき、明日は本番だから、と言っていたのを耳にした。それは「ラズモフスキー第一番」のことだろう。だからこの名曲も耳になじませた。そうしているうちに午後4時になり、将棋会館へ寄らず、津田ホールに直行した。演奏会の休憩で、中原さんに逢ったので「竜王戦はどうですか」と訊いたら、「佐藤君の勝ち。もう引っくり返りませんね」。

 つれないお言葉だが、まだ私は楽観していた。先崎君のことだ、最後まで粘るだろう。まだ間に合うさ。将棋は駄目でも、観戦記者的なカンは自信があるのだが、この日は大外れ。演奏会を終えて会館に行くと、とっくに終わっていた。

 恥ずかしくて控え室に顔も出せない。津田ホールの打ち上げに戻りながら、つくづく駄目な男だと思いましたね。そして、先崎君に続いて森九段が敗れたと聞き、あと一歩がとどかなかったのが無頼派らしい、とも思った。

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竜王戦挑戦者決定戦第3局で先崎学六段が佐藤康光前竜王に敗れ、王座戦第3局で森雞二九段が羽生善治王座に敗れた1995年9月22日。

河口俊彦六段は、この日の記事に「無頼派の秋」とタイトルを付けている。

王座戦五番勝負も竜王戦挑戦者決定三番勝負も終わった日…

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将棋世界同じ号の大崎善生編集長(当時)の「編集部日記」より。

9月22日(金)

 竜王戦挑決で先崎六段が負けた。観戦をお願いした中野さんと三人で新宿へ繰り出す。何軒ハシゴしたろうか、店にいくたびに知り合いに出くわし、一人二人と先崎六段を囲むメンバーが増えていく。映画や麻雀の話で皆でケラケラと笑っていた。「佐藤さんは強い」と先ちゃんが時々思い出したように呟くから、「そうだね」と一言答え、またホラー映画の話が始まるのだった。

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9月22日といえば、それまでの夏らしい気候から打って変わって、本当にしみじみと秋を感じてしまう頃。

1995年に封切られたホラー映画を調べてみると、雰囲気的に一番近いところでは7月公開の「トイレの花子さん」と「学校の怪談」。

しかし、どう考えてもこの2つの映画が話題になっていたとも考えられず、もっと昔のホラー映画である可能性が高いと思う。

どちらにしても、感傷的な気持ちになる秋の夜。