寝ても起きても棋士の世界

藤沢桓夫さんの『将棋百話』(1974年)より。

内弟子

 ひろくわが国の芸能界には、古くから内弟子という制度があった。子供のころから師匠の家で起居し、半ば奉公人的な生活のなかで、芸を仕込まれ、鍛えられてゆくのだが、歌舞音曲その他、この内弟子生活から後年の名人上手が数多く出ていることは、まことに興味深い現象である。

 将棋界でも、戦前は内弟子制度が盛んで、大抵の棋士が若いころは師匠の家の米の飯を食って強くなった。ところが空襲で東京も大阪も焦土となったのを境に、住宅、経済、あれこれの悪条件から、戦後は内弟子をもつ棋士は非常に少なくなった。

 そして、二十余年。ここに注目すべきデータが生まれた。ともに名人になった升田・大山が木見金治郎九段の内弟子だったことは有名だが、最近タイトルを取った戦後派の若手棋士たちが、まるで申し合わせたように、現在では例外的なものとなっている内弟子生活の経験者ばかりという不思議な事実だ。

 即ち、十段となった加藤一二三は南口繁一八段の内弟子、中原誠四冠王は高柳敏夫八段の内弟子、棋聖・王位となった内藤國雄は藤内金吾八段の内弟子、ともに棋聖となった有吉道夫と米長邦雄は、前者が大山名人の、後者は佐瀬勇次七段の内弟子である。

 これは大いに考えさせられるデータで、内弟子を家に置く苦労を克服、彼らを大成させた師匠たちに拍手を送るべきかもしれない。

 ついでに言えば、囲碁界でも戦後は内弟子を置く師匠は少なくなった。そのなかにあって、むかし通りにたくさんの内弟子を育てて来たのが木屋実九段である。その木谷門から、現碁界をリードする若き俊英たちが輩出しているのは、これも非常に興味ある現象ではないだろうか。

木見一門

 内弟子生活の体験者がなぜ強いか。これは興味ある研究題目だと思う。

 優れた内弟子を輩出させたことで、殊に有名なのは、終戦まで大阪市北区老松町に住んでいた故木見金治郎九段だろう。大野源一八段・升田幸三九段・大山康晴永世名人・角田三男七段・山中和正七段、橋本三治六段・二見敬三六段と、まことに豪華な顔ぶれで、これだけの内弟子を立派に育て上げた木見先生は人間的によほど大物だったのだろう。

 ところが、この木見先生は内弟子たちに手を取って教えなかったことで有名だ。最兄弟子の大野八段など、約十年も先生の家で暮らし、先生が内職に一時営んでいたうどん屋の出前持までやらされたけど、先生に盤をはさんで指してもらったことは一度もなかった。ただ一度だけ、「おい、源坊、面白い将棋を教えてやろう」と先生がいうので、今日こそ指してもらえるのかと思ったら、先生が教えてくれたのは朝鮮将棋だったという笑い話さえある。升田・大山らも指してもらったことはなく、最弟弟子の二見だけが晩年の先生に指してもらったことがあるだけだ。

 木見先生は、弟子たちを大海に放り出して勝手に泳がせる。そういう大きな育て方の人だったのだろう。そして、弟子たちが強くなったのは、毎日朝から晩までプロの空気を呼吸し、お互いに稽古で鍛え合い、いじめ合い、競争し合えたのと、木見家に出入りする東西の強い先輩棋士たちにいつでも胸を貸してもらえたこと、無論それも大きかったが、それよりも、彼らが寝ても起きてもプロの世界のなかにいて、いつとはなしに、勝負師の気構え、根性、度胸、感覚といったものを、自分のヒフにしみこませてしまって、若年にして骨のズイまでプロ棋士の体質になってしまった、これが一番大きかったのではないだろうか。

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内弟子を経験せずに名人になったのは谷川浩司九段が初めて。

それは、この文章が書かれた9年後のことになる。

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昔は、東京将棋会館や関西将棋会館のような棋士や奨励会員が集まる(立ち寄る)ことができるような場所がなく、検討をするための部屋もなく、ということで、棋士の自宅がそのような場所になっていたということだろう。

羽生世代の棋士は、奨励会の頃から東京将棋会館のどこかの部屋に集まっては10秒将棋や棋譜の検討やトランプなどのゲーム(会館内では禁止されていたが)をやったりして、その中で切磋琢磨が積み重ねられていった。

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同年代の切磋琢磨が大きいという意味では、佐藤慎一五段が昨日twitterで書いていることが非常に印象的だ。

10年後、藤井聡太世代という言葉ができれば、とても素晴らしいことだと思う。

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師匠が内弟子に将棋の指導をしない理由