38手の大激戦

将棋世界1986年9月号、内藤國雄九段の「自在流 スラスラ上達塾」より。

 近頃は長編小説は初から敬遠する。

 小説を読むなら短編でピリッとしたものをという気持ちである。

 将棋に短編、長編の呼び名はないが、鑑賞する場合短手数の方が面白い。

 仮に短編将棋という呼び方をするとしたら何手までとすればいいのだろうか。

 将棋の平均手数は前回申し上げたように116手強である。100手程で終わるものは、短いとは云えるが短編と呼ぶには抵抗がある。

 といって50手や60手では内容的に問題があって鑑賞に耐えるものを探すのは至難の業となってしまう。

 中をとって80手ではどうかーーと思った。

 連盟で用いている記録用紙一枚が丁度80手であった。(現在は150手となっているが、これは経費節減のため)しかし、もう一手足して81手とするのもハッと思う。

 ”盤寿”という言葉があり、これは将棋盤の目数だけの年齢、つまり81歳を意味している。81手はこの盤寿と一致する。

 このあたり(80手前後)の一手の違いは非常に大きく、たとえば81手とすることで前々回(第43期)名人戦の第2局が短編将棋に仲間入りする。

(中略)

 いま名人戦という言葉が出てきたが、大勝負中の大勝負といっていい名人戦の手数はどうであろうか。

 一般に大勝負というものは手数が非常に長くなるか、逆に極端に短くなる傾向がある。

 第43期(谷川-中原戦)の場合、全5局のうち101手以下が3局、146手以上が2局で、平均手数は122手強となる。特に第1局は188手の長手数、最終局(第5局)は89手の短手数であったのは面白い。

 勿論、手数の長短は対局者の棋風による所が大きい。

(中略)

 故。塚田正夫名誉十段の棋風は、特に若い頃、今の谷川将棋に似た激しさがあり勝っても負けても異常に手数が短いという傾向がみられた。

 第6期名人戦の最終局では63手という超短手数で木村名人を倒し名人位を手中におさめた。次に、現在に至るまで破られていないこの名人戦最短手数記録局をみてみることにしたい。

昭和22年6月6日
第6期名人戦第7局
▲八段 塚田正夫
△名人 木村義雄

▲7六歩△3四歩▲2六歩△5四歩▲2五歩△5五歩▲2四歩△同歩▲同飛△3二金▲3四飛△5二飛▲2四飛(1図)

 この戦型は余り見かけなくなったが完全に消えてしまったわけではない。

 先手も後手も色々工夫を加えた形で、現在でも時折り登場してくる。

 この戦法は、このあとの指し方をご覧になれば分かるようにあらゆる戦法の中で最も激烈であるといえる。

 というのは大抵の場合50手或いは精々60手台で勝負がついてしまうという過去の事実がそのことを雄弁に物語っている。

 振り飛車や矢倉しか指さない向きにはこの戦型は無縁であるが、序盤からいきなり終盤に突入してしまうこういう戦法を見ておくことは頭の体操、感覚の養成にいいのではないかと思う。

 さて1図、▲2四飛では▲3六飛と引く手もありこれだと手数の長い勝負になる。

 ▲2四飛はこのまま▲2八飛と引けば歩得で指しやすくなるのは明らかである。

 ここから激戦の幕が切って落とされる。

1図以下の指し手
△5六歩▲同歩△8八角成▲同銀△3三角(2図)

 △5六歩、この一手に木村名人は4時間13分を費やしている。

 ▲同歩はこの一手だが、これに対して角交換から両取りの△3三角を放つ。

 △8八角成の手で単純に△5六同飛と走る手もある。

 これは後に△7六飛と歩を取り返しほぼ互角の展開となる。今から10年近く前に初めて指された手だが、以前からこの戦型を研究してきた私にもこの手が思い浮かばなかった。

 先入観があって、激しい方へと頭が走ってしまうのである。

2図以下の指し手
▲2一飛成△8八角成▲7七角△8九馬▲1一角成△5七桂(3図)

 何とも激しいここ数手のやりとりが、この戦法の見せ場である。

 あっという間に駒を取り合って竜や馬が出来てしまった。序盤から忽ち中終盤に突入した感じである。

 △5七桂の両取りでは△6七馬、或いは△4四桂といった手も指されている。

 特に△4四桂は私が研究した手であったが実戦では以下▲2三桂△4二銀打▲3五香△3三歩▲同香不成といった風に先手に攻め経てられ73手で敗北を喫した。

 さて3図、△5七桂も厳しい手で次に△5六飛や△6七馬という手が控えている。

 第一感、あなたなら先手、後手のいずれを選びますか。

3図以下の指し手
▲5八金左△5六飛▲6八桂△4九桂成▲同玉(4図)

 どちらを選ぶか―これが大問題。

 名人位を賭けて木村名人は後手方を選び挑戦者の塚田八段(当時)は先手方をとった。

 実はこの対局の前に、両者は全く同形の戦いをし、木村名人が勝っている。

 その時の手数が何と38手という短いものであった。

 参考3図は4図に至る指し手中先手▲6八桂とせず▲4八金直としたもの。

 金当たりを避けつつ次に桂取りをみた▲4八金直は一見好手にみえるが、これが大悪手。

 次の一手で先手の塚田陣は忽ち崩壊してしまったのである。

 参考3図、後手方の次の一手を考えていただきたい。(解答は末尾に)。

 本譜に戻って魅力的に見える▲4八金直ではなく▲6八桂と打つのが先手の最善手。

 4図、後手の飛車はどう動くか。

4図以下の指し手
△5八飛成▲同玉△6二玉▲5三歩△7二玉▲5五馬(5図)

 △5八飛成は止むを得ない。△5二飛は▲5三歩~▲5四歩から香打ちが待っている。

 これで飛桂香対金金銀の交換となった。

 この駒割りからだけでは俄に優劣はつけ難い。しかしこのままでは▲5三桂という厳しい手があり差し当たって後手はこれを防がなければならない。

 △6二玉は▲5三桂を防ぎながら玉を安全地帯へ運ぶ考え。▲5三歩は▲3二竜から▲4二飛、或いは▲5二金の早い寄せを狙っている。

 そして△7二玉に対する▲5五馬は攻防の位置に馬を据えたもの、今ならノータイムで指す手だが第一発見者は96分の考慮を払っている。この一手で、漸く先手良しの形勢が浮かび上がってきたといえる。

(中略)

 投了図以下は△8四同玉と応じても△7二玉と逃げても、簡単な王手詰めがあることを確かめていただきたい。

 かくして名人位を決する重大な一番が、序盤から終盤に一気に駆け込む激しいやりとりの後、最短の寄せという結末をみて僅か63手という短手数で終わったのであった。時に木村名人は43歳、塚田新名人は33歳であった。

 木村名人は2年後に、この同じ相手から名人位を奪回する。その時の最短手数は93手であった。

 さて、途中参考3図の後手方の次の一手は△7九馬である。▲4八金直はこの手を見落とした一手バッタリの手であった。

 参考までに38手で投了するまでの指し手をあげておく。

図以下の指し手
△7九馬▲5七金直△同馬▲4九玉△5八金▲同金△同馬▲3八玉△2六歩▲2七歩△4八銀(参考投了図) 
 まで、38手で後手の勝ち

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38手で先手の投了となった塚田正夫八段-木村義雄名人戦は、同じ年の別の棋戦での対局。

再掲3図以下、△7九馬は詰めろ。▲5七金直のところ▲5七金右は、△同馬▲同金△同飛成▲4九玉△4七竜で詰み。

参考投了図以下、▲4八同銀なら△同馬▲同玉△5九銀▲3九玉△3八金▲同玉△5二飛成で詰み。

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1図までは後手ゴキゲン中飛車の出だしに似ているが、戦前から終戦後にかけては先手の横歩取り戦法と呼ばれていた。

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63手で終わったこの第6期名人戦第7局は、長い間、名人戦最短手数記録局だったが、2015年の名人戦第1局〔行方尚史八段-羽生善治名人〕が60手で、68年ぶりに記録が塗り替えられている。

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3図から3手目の▲6八桂は、戦前、加藤治郎名誉九段が発見した手。

中学生の時に見た「全棋士会心の一手」のような付録があり、加藤治郎八段(当時)が会心の一手として挙げていたのが3図から3手目の▲6八桂。

長い間、どうして金を逃げずに▲6八桂なのだろうと思っていたが、これで長年の疑問が氷解した。