将棋世界2000年8月号、田丸昇八段(当時)の「マイ・フォト・メモリーズ わが兄弟子の西村一義九段が26年前に挙げた華燭の典」より。
私は奨励会時代、兄弟子の西村一義九段にいろいろとお世話になった。西村さんは大変に後輩思いの人で、同門の私だけでなくほかの奨励会員たちにも目を掛け、自宅へ招いて将棋を教えてくれたり手料理をご馳走してくれたことがよくあった。そんな優しい西村さんはなぜか独身時代が長く、私たち後輩はちょっとやきもきしたものだった。だが七段時代の32歳のとき、人生最良の日を迎えることになった。
昭和49年5月17日。西村さんは信子さんと華燭の典を挙げた。写真は結婚披露宴の光景で、師匠の佐瀬勇次七段(段位は当時。以下の棋士も同)ご夫妻が媒酌人を務めた。当日は多くの将棋関係者が出席したが、棋士たちのスピーチや祝電などの内容をちょっと紹介しよう。実は、ちょっぴりエッチなところが将棋指しの流儀なのだ。
「昨日は将棋連盟の総会があり、議論が紛糾して閉会したのは明け方の4時。だから欠席した西村さんを除き、私も含めてここにいる棋士たちはほとんど寝ていません。でも今夜は西村さんが徹夜する番だ(笑)」
(連盟会長の加藤治郎八段)「さきほど司会者の方が私の紹介で立ててくれましたが、今夜立てるべき人は新郎です(笑)」
(連盟副会長の原田泰夫八段)「西村さん、粘り勝ちおめでとう。将棋のように、金をうまく使え」
(大山康晴十段の祝電)(以下略)
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さすがに現代ではこのような伝統は続いてはいないと思うが、昭和の頃の本当にあった話。
きっと、このようなスピーチの起源は関根金次郎十三世名人だったのではないかと考えられる。
近代将棋の父・関根十三世名人は、若い頃は女性に相当モテたようで、その道ではかなり精力的であったと言われており、またキャラクター的にもざっくばらん。
1987年11月発行の将棋ペンクラブ会報創刊号「題名未定」で、原田泰夫九段は次のようなエピソードを書いている。
入門の頃 原田泰夫(棋士・九段)
関根金次郎十三世名人(明治元年生まれ)のお言葉。
「そうか、お前が原田か、上京したばかりじゃ弱い筈だ。「負けろ、負けろ、負けて覚えて強くなれ。今度は違う話をするから、よく覚えておけ。俺のかかーは俺の歳の半分だから、近頃俺を馬鹿にする。そこで昨日の晩は奥の手を出してやったら眼をつむりやがった。俺が言ったとおり大声で復誦してみろ。よし、お前は有望だ。そのとおり師匠の加藤治郎夫婦に報告しろ」
このような関根十三世名人だから、棋士の結婚披露宴の際にも、下ネタが含まれた祝辞をしていたとしても不思議ではない。
田丸昇八段(当時)が書かれている「実は、ちょっぴりエッチなところが将棋指しの流儀なのだ」の流儀の始祖は、あくまで私の想像だが、関根十三世名人ではないかというのが今日のところの結論だ。