「本当は抗議や非難の手紙がたくさん来た方がいいんですけどね。ボクはそれを見ると力が出るんだ」

将棋マガジン1985年4月号、川口篤さん(河口俊彦六段・当時)の「対局日誌」より。

 記者室に快勝した田中(寅)が入って来た。和服を洋服に替えて帰り支度がととのっている。大島や日浦がいるので、久し振りに焼き肉でも食べようと相談がまとまった。

 さて、田中(寅)がいれば、話はどうしても例の放言問題に向いてしまう。方々で叩かれて元気をなくしたと聞いていたが、こうして見るといつもと変わらない。もっとも勝った直後ということもあるだろうけど。

「どう、葉書はたくさん来た?」

「それがあまり来ませんね。この前の方がよっぽど来ましたよ」

 この前の方とは、1年前の「あの程度で名人か」と書いた事件のことである。あの時は、カミソリの入った封書まで送り付けられるさわぎだったそうだ。

「本当は抗議や非難の手紙がたくさん来た方がいいんですけどね。ボクはそれを見ると力が出るんだ」

 ますます変わった男、と思われるかもしれないが、実はそうでない。比較にならぬかも知れぬが、たとえば、ムハマッド・アリなどというタイプと全然ちがう。将棋も常識的で、優等生の指し方だし、生活も、日常の言動も健全そのものである。地位が上がったから、土地付一戸建住宅を買おう、という発想からして小市民的ではないか。まあ考え方が極端に自己中心的ではあるが、それは棋士全員に言えることだし、そうでなかったら将棋指しでない、というくらいのものだからこれは仕方がない。

 その男がなぜあんなことを言ったかといえば、それが将棋界のためになる、と考えたからであった。だから、私は芹沢のように非難したりはしないのである。

 ちょうといいたとえ話がある。

 焼肉屋を出てから、新宿へ行き、そこで日浦が話してくれた。

「ある時、谷川名人や室岡さんなど若手棋士数人で酒を飲んだことがあるんですが、みんなおとなしいでしょ、座が盛り上がらない。で、一つバカになってやろうと思って、ボクが次の名人でーす、などとはしゃいでみたんです。さんざんそれをやったら、最後に谷川名人が、なんだ、君は田中君と全く同じだね、ですって」

* * * * *

カミソリの入った封書というのは、封書を開ける時に怪我をさせることが目的であり、非常に悪質だ。

刃の部分にセロハンテープを張るなどして怪我をしないよう同封されている場合は、お前に危害を加える、というメッセージであるらしく、これも非常に悪質。

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昔は、将棋界に関する情報が入ってくるのが月に1回。将棋世界や近代将棋やNHK将棋講座などの将棋月刊誌、文藝春秋の将棋界欄などに限られていた。

この頃は週刊将棋が加わっているが、どちらにしても、将棋界のことが通常の新聞、スポーツ紙、一般誌に載ることはほとんどなかった。

この頃は私も将棋から全く離れていた時代ではあったが、田中寅彦八段(当時)の発言の件は報道などで知っていた。

そのような意味でも、世間から見える将棋界の姿を賑やかに盛り上げたことは確かだったと思う。

 

 

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