羽生善治四冠(当時)「街を歩いていても、名人戦のことが頭に浮かんでしまう」

将棋世界2001年1月号、毎日新聞の山村英樹さんの「羽生善治の軌跡 第1回」より。

「羽生善治五冠について、リレー形式で連載するので、その第一回を書いていただきたい」と、編集部から依頼があった。羽生の足跡を綴る企画のトップバッターとしては、10連覇している棋王戦、9連覇の王座戦、8連覇の王位戦など、他に適任者が数多いと思われるが、そういう担当者は後日ゆっくりと想を練って書かれるという意味で、記者に順番が回ってきたものと勝手に思い込み、お引き受けすることにした。

(中略)

 ちなみに、記者は名人戦・王将戦を主催する毎日新聞社の一記者。王将戦は5連覇だが、ファンの方をやきもきさせているA級順位戦の担当でもある。

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「スピードに関する記録で、羽生さんが名を残していないのは、おそらく10くらいじゃないですか」と、やけに詳しい関係者が教えてくれた。四段昇段時の年齢が史上第3位、タイトル獲得最年少記録も19歳3ヵ月で竜王を獲得した7ヵ月後に屋敷伸之が18歳6ヵ月で棋聖を獲得し、史上第2位になっている。

 しかし、その他ではほとんど羽生が記録を塗り替えたといっても過言ではない。通算記録では、当然ながら大山康晴十五世名人が残した不滅とも言える記録が数々残っているが、それを猛スピードで追いかける羽生善治が存在する時代に、将棋界に関わりを持てたことは、実にありがたいことだ。羽生の存在によって他の棋士の在り方も変わってきていることも、言うまでもない。世紀の変わり目に輝く棋士、羽生。

 その羽生にしても、順位戦ではA級に昇級するまで、初参加から7期を要している。この記録は歴代7位タイ。C級2組、C級1組、B級2組ではそれぞれ1期ずつ足踏みしたことによるが、あらかじめ対戦順、先後が決まっている順位戦では相手に応じて作戦が立てやすく、またベテランの棋士たちも対羽生となると、燃える意味があった。そうした中で平成5年、羽生はついにA級昇級を決める。

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 この年の6月に米長邦雄新名人が誕生し、将棋界の空気が変わった。7月、京王プラザホテルで行われた就位式は人であふれかえり、新名人が身動きできないほど。パーティーの最後に壇上に立った新名人はその歓声に応えながら「来期はあれが出てくる」と予言した。それがだれを指すかは100人いれば100人とも羽生を思い浮かべたに違いない。

(中略)

 第52期名人戦七番勝負は4月11日、大山十五世名人の故郷・岡山県倉敷市で始まった。予言通りの挑戦者が登場し、米長名人は気迫がみなぎっていた。羽生は、前期の米長名人誕生の瞬間をNHK衛星放送の解説者として現地で目の当たりにしている。その瞬間から自分が対局者の場所にいることをイメージしていたかどうか。実際その場に座って、表面上はふだんと変わりなかったが、内心は名人戦独特の重圧を感じたようだった。

 だが、ふたを開けると、羽生がいきなり3連勝を飾った。しかし、そこからの1勝が大変だ。当時四冠を保持していた羽生はこの時期あまり他棋戦の対局がなく、名人戦から頭が離れない。それが良い方に働けばいいが、あと1勝にこぎつけてから微妙に心理に変化があったようだ。逆に追い詰められた米長はかえって充実し、第4局、第5局で会心の連勝。羽生は「街を歩いていても、名人戦のことが頭に浮かんでしまう。将棋界史上初の3連勝4連敗になってしまうのか」とまで思ったそうだ。

(以下略)

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名人戦の季節、順位戦はまだ始まっていないし、王位戦挑戦者決定リーグ戦に出場している棋士以外はあまり対局のない時期。

それに、羽生善治四冠(当時)は王位でもあったので、王位戦挑戦者決定リーグ戦に参加できるわけもなく、名人戦以外対局がほとんどない状態。

「街を歩いていても、名人戦のことが頭に浮かんでしまう。将棋界史上初の3連勝4連敗になってしまうのか」。

羽生四冠(当時)は4勝2敗で名人位を獲得することになるが、既にタイトル戦経験が豊富だった羽生四冠でさえこのように感じるのだから、名人戦の重圧というのは物凄いものがあったのだろう。

羽生善治三冠もやっぱり人の子だったんだな、と思える微笑ましいエピソードだ。