将棋世界2001年8月号、山野美容芸術短期大学教授の中原英臣さんのエッセイ「羽生五冠、丸山名人との不思議な御縁」より。
私は将棋には詳しくないのですが、自分でも不思議だと思うくらい将棋の世界とは御縁があるようです。私は羽生五冠の就位式には殆ど出席しています。皆勤賞は無理としても精勤賞くらいはいただけそうです。
羽生五冠との御縁についてお話するには、時計の針を1990年まで戻さなくてはなりません。当時『クオーク』という科学雑誌で対談を連載していた私の前に対談相手として颯爽と現れたのが、その前年に19歳で竜王になったばかりの羽生五冠でした。羽生五冠の印象を私は「天才は一つの世界を変える。碁と違い先手後手の差がなかった将棋に、羽生竜王が先手有利の革命を起こしつつある。将棋はゲームだと笑う若き天才の笑顔に日本人に欠けている国際的センスを感じ、心が晴れました」と書いています。
その後の羽生五冠の活躍は素晴らしいものがあります。就位式の祝辞をお願いされたのに、どうしても都合がつかなくて「今回は無理なので、次の機会にお引き受けさせてください」と申し上げたところ、わずか1ヵ月で「次の機会」がきたこともありました。いまでも時折お話を伺うことがありますが、羽生五冠のすごいところは、いくら強くなりタイトルが増えても、初めてお会いした時の素晴らしい笑顔が少しも変わらないことでしょう。
もう一つの御縁についてお話するには、時計の針を1992年に合わせなくてはなりません。当時(今でもそうなのですが)、早稲田大学で楽勝科目の聞こえも高い「生活の衛生学」という講義を持っていた私は学生たちから「仏の中原」と呼ばれていました。その楽勝科目の進級試験が来週に迫っていたある日のこと、私は試験のテーマを学生たちに知らせていました。普段は欠席がちの学生たちも、この日ばかりは私の言葉を一言一句といえども聞き逃さないという真剣な様子で講義を受けています。テーマを与えた後に、いつものように「就職試験などでどうしても試験を受けられない学生はレポートを提出すればいいですから、講義が終わったら申し出てください」と言いました。
講義が終わると、毎回かならず講義に出て一番前の席で真剣にノートを取っていた真面目な学生が「私はレポートにしていただきたいのですが」と申し出てきました。いくら「仏の中原」でも、試験を受けられない理由くらい聞かなくてはなりません。以下は真面目な学生と私の会話です。
「試験に出席できない理由は?」「実は将棋の対局があるんです」「えっ、いくらなんでも将棋部の試合じゃ駄目だよ」「実は、私、プロなんです」「プロって将棋のプロのこと」「そうなんです。来週はプロの対局があるのですが」「そうなの、それならいいでしょう。ところで対局相手は誰なの」「羽生さんです」「えっ、それじゃ君、勝てっこないじゃない」「……」
これが丸山忠久名人との出会いでした。その日、家に帰ってから羽生五冠に電話をして「私の講義を受けている丸山君という学生が羽生さんと対局するようですね」と言うと、即座に返ってきたのは「丸山さんはとても強いんです」という声でした。後日、レポートを持ってきた丸山名人に「君は強いんだってね。羽生さんがそう言ってましたよ」と言うと「それほどではありません」と照れていた姿がいまも目に浮かびます。この時の羽生五冠の御墨付きは、丸山名人が誕生した瞬間に証明されました。
レポートは見事なまでに論理的で「仏の中原」でなくても「優」を与えたと思います。いま手元にある丸山名人のレポートには「授業で先生はエイズの治療薬が私達が枯れる頃までできないだろうと予想していたが、何か画期的な新薬ができるのではないかという希望的観測をもっている」と書かれていますが、私の予想は外れて丸山名人の観測が当たりました。名人の読みにはかなわなくて当然かもしれません。
その他にも森下卓八段とも仲良くさせていただいており、奥様の声楽のリサイタルにもご招待いただいたこともあります。卒業後は一度もお会いしていなかった丸山名人との再開をセットしてくれたのは、顔の広い森下八段でした。時計の針を戻すだけでは能がなさすぎるので、ここで一気に針を10年先に進めてみますと、進化論を研究している私の目には、将棋界を進化させている3人の姿がはっきりと見えます。
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”就位式の祝辞をお願いされたのに、どうしても都合がつかなくて「今回は無理なので、次の機会にお引き受けさせてください」と申し上げたところ、わずか1ヵ月で「次の機会」がきたこともありました” は物凄い迫力。
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私大での進級試験ということは、1月下旬から2月上旬にかけて行われる試験。
そういうことから、「もう一つの御縁についてお話するには、時計の針を1992年に合わせなくてはなりません」の1992年は、1992年1月の中~下旬のことだと思われる。
この頃に行われた羽生-丸山戦はNHK杯戦準決勝で、羽生善治五冠(当時)が勝っている。
丸山忠久九段は四段の時。(この年の3月に順位戦でC級1組への昇級を決め五段に昇段している)
棋士2年目でNHK杯戦準決勝に進み、勝率も7割を超えているのだから、どう見ても凄い四段だ。
羽生五冠が「丸山さんはとても強いんです」と言ったのも、中原英臣さんへの社交辞令抜きの、全くの感じたままの言葉であったことが分かる。
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それにしても、丸山九段は本当に真面目な学生であったことが示されている。
私など、必修科目以外の一般教養科目は最初の授業に出ただけで後はそれっきり、それで試験を受けて単位を取った科目も多かった。
丸山九段の真面目な大学生度を100%とすると、私は30%くらいのものだったと思う。
何しろ、大学にはキャンパスがなく、たくさんの喫茶店、雀荘、居酒屋などが超至近距離にある絶妙な環境だった。