将棋世界1981年3月号、能智映さんの「恐るべき雀士たち」より。
勝負師が麻雀に強いのは当然のようだが、同じ勝負師でも囲碁界の雀豪・山部俊郎九段は、若い棋士たちに「将棋の連中とだけは手合わせするなよ」といましめている。
もう30年以上も前の話を今も持ち出すところをみると、相当にこたえているらしい。
当時、社会は復興途上にあった。まだみな貧しく、碁打ちもその例外ではなかった。
「ヒマもあるので、碁打ちだか麻雀打ちだかわからぬ生活をしていた」と山部は苦笑する。タイガースの花形・藤村富美男選手や競輪選手らをなで切りにしていただけに自信満々でもあった。
そんな時、大山と丸田から誘いがあった。山部がこれを受けぬわけがない。同僚の故塩入逸造五段に声をかけ、勇躍熱海の旅館へ乗り込んだ。
さあ、囲碁と将棋の対決である。 旅館の女中が牌を運んでくる。ところが、それを見た丸田が「それはだめだよ」と新しい牌を要求する。「えっ?」と山部、「いや、これじゃあ、あんたたちに気の毒だよ」と丸田。何か訳があるらしいが、山部たちにも「一流の雀士」としての意地がある。「いえ、それでけっこうです!」
場が決まり、牌が並んだ。
すると丸田、「悪いけど、あんたの右端の牌は一筒でしょ、隣は東、次は四萬……」と次々に当てていく。
さすがの山部らも「いや、恐れ入りました」と頭を下げ、新しい牌と取り替えてもらったが、実は丸田たちは使い慣れた牌なので、竹の目の模様Iやキズでほとんどの牌を覚えていたというのだ。
山部は、自らの職業を忘れたか、「やっぱし棋士はからい」と脱帽し、以来若い碁打ちたちには「麻雀を強くなろうと思えば、まず牌を覚えること」だと教えているという。
機会があって、その話を丸田にすると、両切りピースを口の端にくわえ、平然とこういったものだ。
「古い話だねェ。ホームグランドで使いなれた道具を使えば、そうなるの当たり前じゃない。大体、4、5回やれば、4、50枚の牌は覚えられるんじゃないの。でも、山部さんたちも相当に強情だったよ」
(以下略)
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このような人たちと麻雀をやっては絶対にいけない。