「勉強量が十分かどうかは駒を動かす指先の人指し指の爪を見ればすぐ分かった」

将棋世界2003年1月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 自分のことで云えば、30歳代の後半から中盤のポカ、見落としで中押し負けが俄然増えてきた。原因は将棋盤に接する時間の減少に相関しているのではないかと思われた。

 棋譜並べ等に費やす時間が十分であった頃は、中盤見落としがあっても致命傷には至らずに済むケースが多くあった。頭の中に盤が常備されていて無自覚的にとんでもない手は排除されていたようである。その頃はパソコンなどないから棋譜調べは棋譜のコピーを見ながら盤と駒を使用する。

 勉強量が十分かどうかは駒を動かす指先の人指し指の爪を見ればすぐ分かった。その爪だけつるつるに光っているのだ。駒を持つと必ず駒は人指し指の上を滑り自然に爪を磨いてしまうのである。そして駒を動かす指先の感触が私には良い脳への刺激になっているように思われた。棋譜がスーッと脳内に組み込まれる感じがあった。

 ところが随分前からパソコンを利用して棋譜を見るようになってからは、内容が走馬灯のように通り過ぎてしまい残ってくれないのだ。パソコンに罪を被せるつもりは毛頭なく、横着な方法に頼り不断の努力を怠っている自分にバチが当たっているに過ぎない。多少のミスはあってもそれが命取りにならない勉強法は、緻密な序盤研究とは質が違うものではないか。要領の良い方法など思いつかない。コツコツと続けるよりないのだろう。

 そういった努力を省エネし始めた頃から私はポカを頻出するようになった。

 それにしても不思議なのは羽生竜王の勝負強さである。彼とてうっかりはやらかしているのだが、それが致命傷とはなっていない。決定的なミスの直前に危険を嗅ぎ分けている。あれほど多忙でありながら、いったいどういう勉強をしているのであろう。その秘密に至らねば打倒羽生は見えてこない。

(以下略)

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ワープロが一般的になっていた時代だから1980年代後半だったと思う。

作家の阿刀田高さんが、「ワープロを使うと自由な発想が出づらくなる。だから小説は原稿用紙に書き続ける」というようなことを書いていたと記憶している。

2005年の話なので今は違うかもしれないが、先崎学九段は、普通の文書はパソコンで作っているものの、原稿は手書きにしていると話していた。

手の感覚とコンピュータの感覚、この二つの問題は永遠のテーマなのかもしれない。

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それにしても、棋士の駒を持つ手の人指し指の爪。

なるほど、そういう見方もあるのかと感心してしまった。