「もしかしたら先生は優勝するつもりで来られたのですか」

将棋マガジン1984年3月号、日本将棋連盟囲碁部幹事の大野八一雄四段(当時)の「年の瀬は駒持つ指で石を打ち」より。

 12月23日、東京・市ヶ谷の日本棋院で「日本将棋連盟囲碁部忘年囲碁大会」という長くて舌を噛みそうな会(参加資格は連盟関係者に限るという条件)が行われた。ここに当日の様子と特に目立った人物を紹介してみよう。

 12時、幹事が開始時間より30分も早めに行くと、なんと佐藤(義)六段はじめ3人の記者の人達が碁を打っているではないか。いつもだと開始時間を30分過ぎてもやっと人が来るかどうかというのに、これはいったいどうしたことなのであろうか。これから、雪でも降らねばよいのだが……。

 12時30分、人数もかなり集まったようなので、幹事より大会規定を発表(本当は途中で規定など変わってしまうのだから、どうでもいいことなのだが、一応は例会らしく形は整える)。成績の決め方は1勝を3点とし、ジゴは2点、負けは1点で点数の多い者を優勝とすると説明したところ、すかさず佐藤(義)六段が猛反対。氏はたまにはきちんと成績で(勝ち星だけ)決めるべきだと一歩も譲らぬ構え。そこで、幹事がセット区の一言。「もしかしたら先生は優勝するつもりで来られたのですか」に皆大爆笑。結局あやふやのまま開始となる。

 12時40分、大半の人達が用意されていたお弁当をつまみにウイスキーをぐいぐいやりだした。ここで、酒グセのすばらしい能智記者に登場していただこう。氏の実力は免状二段実力X級。それがこともあろうに連盟の実力者二上九段と加藤(治)九段を呼び寄せ「二面指しで教えてやるからかかって来い」と言い出した。そして、両先生を前に座らせると当然のような顔をして白石を持ち(但し石を置いている)気持ちよさそうにいい音をたて打ち始めたのである。これには一同ア然。年の若い幹事などは、どうなることやらと恐る恐るのぞき込んでいたが、酒の勢いもあってか増々まくしたてご機嫌。しかし、碁にはさせてもらえず、2局とも白の大石を取られボロボロになってしまい、ガックリした様子。すると、部屋の片隅に行き座布団をまくらに寝てしまった。

 2時頃、今度は桜井七段がご機嫌になり、後輩の小生を呼びつけ「教えてやるから座れ」と言い出した。先輩の命令とあっては仕方がないのでシブシブ打ち始めた。碁は小生優勢となるのだが、力がないせいか終盤で大石をことごとくめし取られてしまう。桜井七段曰く、「弱いのと打つと大石が死ぬので楽しい」と扇子をはばたかせ、ビールの入ったコップを片手に高々鳴る笑い声。小生熱くなりもう一番といどんだが同じパターンで負け。

 それを横で見ていた囲碁ライターの青山おねえさんとバトンタッチ。美人の和服姿に見とれてか、形勢を仕損じ桜井七段苦戦。結局、扇子も高笑いも出ず投了。小生すかさず猫じゃれ声で「シエンシエイドウシタノカニャー」に無言。

 すると先輩の仇と真部七段、桜井七段とバトンタッチ。この方、連盟では五本の指に入ると言われている実力者(本人は自分が最強だと思っているふしがある)で、またの名を「若手の芽を摘む鬼」と呼ばれ恐れられている。どうしてかというと、碁に興味を持ちかけた若手棋士を無理やり盤の前に座らせ、木っ端微塵にして負かすのである。碁を打つ棋士の間では、氏に教わった若手棋士がその後石をにぎった姿を見たことがない、と言い伝えられている。青山さんとの碁も、三子も置かせ粉砕してしまった。女性にもきびしいところが真部流である。改めて鬼と呼ばせていただこう。

 ここで、早打ち三人衆を紹介しておこう。大内八段と森(雞)八段と加藤(博)八段である。

 大内流は、一局打つのに30分とかからない。そして、よく打ちよく負ける。しかも帰られたのも3時とはさすがであった。

 森流は、同じ早さでも大内流の”誰でも来い”とは異なり、慎重に自分よりも弱そうな相手を捜しては早くかたづけているのである。しかし、氏は調子に乗って昼過ぎに敗着を打ってしまった。なんと優勝宣言をしたのである。当然強者に狙われ、オシャカとなってしまった。

 加藤八段は、前述の二人とは違う実力者なのだが、酒の量を間違えてしまったのと、皆の嘘の段級の申告のため連戦連敗となってしまわれた。しかし、負けども負けどもご機嫌で、後輩や記者の方々を呼び寄せ説教をしながら打っていたのは貫禄の現れであった。

 4時30分、読売の山田記者、共同の高井記者、観戦記者の高林氏などが勝ち星をどんどん増やしていっている。そんな中で寝ている獅子こと能智記者が突然起き上がり、「将棋を指そう」と叫び出す。餌食になったのは、氏の囲碁の弟子・高林氏で、なんとかなだめ囲碁を打ち始める。そんなわけで高林氏は師匠に捕まってしまい、優勝戦線から残念ながら脱落。高井氏も幹事の手伝いをしすぎて盤数足りず脱落。結局、ライバルを他力で倒した山田記者が堂々と優勝をさらってしまった。

 6時、熱戦も無事に終わり、表彰式が始まる。順位を読み上げた後(優勝以外は多数決で決めた)、賞品が授与された。普通こうした大会だと順位の悪い者には賞品は与えないのが決まりだが、各新聞社、報道関係よりたくさんの賞品を寄付していただいたので、全員に品をくばっても余る始末。故に、順位には関係なく好きな物を持って帰っていかれたのだから、なんのために勝敗などつけたのか、いつもながら結末に呆れてしまう。

 6時30分。以上のような具合で会は無事に終えることができた。

(以下略)

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この動物園のような雰囲気が、たまらなくいい。

きっと、酒が入っていなくても、ほぼ同じような展開になったと思う。

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「若手の芽を摘む鬼」という言葉が絶妙だ。

「若手棋士囲碁初心者の芽を摘む鬼」の意味になるが、この逆をやれば、将棋の場合でも棋道奨励となる。

有名人の駒落ち七番勝負や十番勝負が雑誌で企画された時に、いつも負けていたのが大山康晴十五世名人と二上達也九段だった。

 

 

摂生、養生と無縁の棋士

将棋マガジン1984年4月号、川口篤さん(河口俊彦五段・当時)の「対局日誌」より。

 将棋関係の記事に、バカな理事とか、クソったれ奴とか、くだらん理事どもめが、といった過激な活字がおどり、水面下にもさまざまな不満がうずまいて、なにやら物情騒然としてきた。

(中略)

 昼休みになると芹沢が来て、「話があるから」という。で、田辺と三人寒空のもとへ出た。

 不戦敗のことがあるから案じていたが、先を歩く後ろ姿には、よほど消耗している気配が見てとれる。身体にピッタリ合わせて仕立てられたはずの背広の後衿に大きな横じわがあらわれているが、姿勢がひどく悪いのか、あるいは身体つきが変わってしまったのだろうか。

 会館からちょっとはなれたレストランの席につくや「理事が詫び状を書けって云うんだ。こんな無礼な目には初めてあった」とまくしたてる。重くたれさがった目は涙ぐんでいた。

 事情は本人が「週刊サンケイ」に書いているから、あらためて記さない。真相はどうなのかも知らない。しかしいずれにせよちょっとした行きちがいである。それだけを見れば、そう肚を立てなくても、と思えるが、根につもりつもった不満があることはたしかだろう。

 田辺と二人、「肚を立てたってしょうがないよ、寿命を縮めるだけ損だよ」となだめたが、それにしても摂生、養生を知らぬ男だと思ったことだった。

(以下略)

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昨日の記事の後日談。

芹沢博文八段(当時)の不戦敗は、理事会との感情的なもつれが直接的な原因であったことがわかる。

当時の週刊サンケイの記事は探しようもないが、大山康晴会長時代の理事会の運営や方針に対して強く批判するようなことを芹沢八段がそれまでの活字媒体に書いていたのだろう。

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芹沢八段はこの年の名人戦の観戦記を将棋世界1984年6月号に書いている。

上記の出来事の1~2ヵ月後のこと。

芹沢博文八段(当時)の観戦記(前編)

芹沢博文八段(当時)の観戦記(中編)

芹沢博文八段(当時)の観戦記(後編)

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ところが……

将棋マガジン1984年7月号、川口篤さん(河口俊彦五段・当時)の「対局日誌」より。

 では棋士の側からものを書くとどうなるか、という例が将棋世界誌の「いずれにしても名人は神戸」と題する芹沢の観戦記である。

 ずばずばと云いたいことをぶちまけた、将棋に関する文章としては破格のものであるが、これも最初の部分では、肝心の、だれが、なにをしたか、の部分が校正で削られたために、いったいなにを、どうして怒っているのか判りにくい。それに芹沢自身も口ごもっているところがあって、将棋は判らぬと言った後、

「その将棋を、外者の物書きが判ったと書く。どうして判ったのだろう。その人達は本業の文筆のことも総て判ったのだろうか」

 と書いているが、これはうっかりすると大変な誤解を招きそうである。外者の物書きを全部斬ったごとくに読みとれるが、真意はそうでなく、ごく少数の人を批判したにすぎない。そもそも執筆の動機がそこにあったのだから、はっきり書けばよかったのに。まあ、芹沢ほどの人でも、はっきり書けぬ部分がある。それが将棋界というものである。

(以下略)

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細かいことはわからない。

個人的には、はっきり書けず結果的に誤解を生むようなことは、はじめから書くべきではないと思う。

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将棋世界1985年1月号の「放筆御免」の第1回目で芹沢九段は次のように書いている。

 将棋について思ったことを書けと言う、随分と思い切ったことを言う編集部である。

 筆者は長い間。本誌から依頼がなかった。久し振りに名人戦第1局を書いたら、出だし”手”を入れられ、意が取り難い文になり、そして編集長が変わった。我が一文だけで編集長が変わったとも思わぬが、引き金にはなったようである。何が”権力者”を怒らしたか、お気に召さぬか、我が方に通告がないので定かではないが、喜んでの動きではなかったようである。

 将棋界の”力関係”は幾らかは知っているが、本稿は編集長更迭について述べるものではない。しかし、再度そのことの起きる可能性があるので、我が身を守ることでなく、元原稿は手元に置くことにした。

(以下略)

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本当のことはわからないが、もはや「覆水盆に返らず」状態に突入している。

良い意味でも悪い意味でも、芹沢九段は生き急いでいたような感じがする。

 

 

「森さんは死ねっ!死ねッ!ていっていたけど負けたら、死んだ!死んだ!とわめいていました」

将棋マガジン1984年4月号、川口篤さん(河口俊彦五段・当時)の「対局日誌」より。

 神谷が婚約したと聞いていたので、たしかめたら「本当です」という。それじゃお祝いをしようと大島と三人で会館を出た。

(中略)

 まず近くの焼肉屋から始まり、そこを出ると、大島が「今度は私が案内します」というので、渋谷のいま流行のカフェバーみたいな所へ行き、そこで話がはずんで、気がついたら電車がない時間になっていた。三人ニヤニヤしながら、しょうがないね、なんていって新宿へ。

 寒い中を二丁目のバーまでたどりついて一息いれていると、筑摩書房の編集者氏と、桐朋音大の教授氏が入ってきた。私達が将棋指しだと知ると教授氏が「演奏家の世界は死屍累々でしてね。一人の小澤征爾を生むために、何千何万の人が犠牲になるんです。将棋界も同じでしょうな」と話しかけてきた。

「そうです。一人の名人を生むためにね」

 酔眼で神谷を見つめていた教授氏は「あんたいくつ?エッ22。うちの学生とは全然ちがうな」

「どうちがうんです」

「落ち着いて、しっかりしてるわ。いい面構えだな。この人は大成するよ」

 神谷はテレているが、まんざらお世辞でもなさそうだ。一流人に褒められては私だっていい気持ちになる。そこまではよかったが、それまで急ピッチでグラスを開けていた大島のろれつがおかしくなったと思った瞬間、どさりと床に崩れ落ちた。

 なよなよしている大島も、意外に腹が出ていて重い。こうなると、教授、編集者、棋士なんていう人種はお手上げである。それでも4人がかりでなんとか持ち上げ、ようやくタクシーに放り込んだ。

 それをしおに解散し、私は近くのホテルに泊まったが、なんのことはない、順位戦を取材するよりよほど疲れてしまった。

 そして今日である。

午前11時30分

 昼休みのちょっと前に会館に着いて、さっそく大広間に行くと、手前の間の北村(昌)-前田戦のとなりが空席になっている。芹沢-関根戦だが、芹沢が来てないのだ。この時間になっても来ないのでは不戦敗だろう。

 となりの北村はおもしろくなさそうな顔。

 第2対局室へ行くと、鈴木(輝)が佐伯と対戦している。

「芹沢さんはまだ来ませんか」

「うん」

「一つ対局の順番がちがったばっかしにえらく損するもんだな。ボクとやった時は、残り5分まで頑張られましたよ。しかも悪い将棋をネ。交通費では理事にいじわるをされるし、まったくいつもひどい目ばかりにあう」

 ミジメ君はそういってなさけない顔をしてみせる。佐伯はわれ関せず。

 そうしているうちに12時となり、不戦敗が確定した。記者室にいると加藤(博)が入って来て星取表を眺め「とうとう全敗はボクだけになったか」

 棋士が用事とか遊びとかで顔を出すのはこの頃からである。

 中原が紙袋をかかえてあらわれ、盤を出して将棋を並べはじめた。2日前の名人戦リーグ、加藤(一)-森(雞)戦である。ざっと見て次は米長-森安戦。いつの間にか若手棋士が数人集まっている。中原は紙袋から菓子パンと牛乳を出して食べはじめた。そして土佐に「すまないけど、もう一度並べてくださいよ」

 並べていると、いろいろ情報を提供する人が出てくる。「この局面で加藤さんは10数分しかないんですよ」とか「森さんは死ねっ!死ねッ!ていっていたけど負けたら、死んだ!死んだ!とわめいていました」など。

 この将棋、森は好局を落としたようである。それにしても、中盤で時間がなくなり、形勢は不利。それからの加藤の粘りはみんなを驚嘆させた。

「加藤さんは、長考した時はなにも読んでないけど、1分になるとものすごく読んでるんだ」そう中原が呟いた。

 私が食事に出そびれたのを知った大島は、「昨日はご迷惑をかけました」といって寿司の折り詰めを差し入れてくれた。そしてみんなにお茶をくばる。パンをほうばっていた中原は私を見て、なんとなしに笑った。こういう所が「自然流」なのである。部屋中が明るくなる。

 余談になるが、これが米長だったら、将棋に辛辣な寸評を二言三言加えて「じゃあ私の碁を見てください」とかいいながら、みんなにうな丼をふるまうところ。彼はここ10数年、そんな風に気を遣いつづけて来たのである。

(以下略)

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”二丁目のバー”は新宿二丁目にあった「あり」。

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順位戦での不戦勝、やはり、戦績が苦しい時は、本音としては嬉しい場合もあると思う。

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「死ねっ!死ねッ!」と言いながら指して、負けたら「死んだ!死んだ!」、いかにも森雞二九段らしい。

中原誠十段・王座(当時)の「加藤さんは、長考した時はなにも読んでないけど、1分になるとものすごく読んでるんだ」も凄い。

数々の戦いを重ねての実感だったのだろう。

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笑顔の中原誠十段・王座がまさしく「自然流」なら、皆にうな丼をふるまう米長邦雄王将(当時)はケレン味溢れる「非自然流」というところか。どちらが良いというのではなく棋風(気風)の違い。

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カフェバー、30年振りに聞くような言葉だから今では死語になっているのだろう。

カフェバーに行くよりも、カフェはカフェ、バーはバー、それぞれ別個に行ったほうが良いに決まっているじゃないか、と思っていた私は一度もカフェバーには行ったことがなかった。

生ハムメロンを、生ハムは生ハム、メロンはメロンとして別個に食べる私だから無理もない。

 

 

棋士たちの天動説

将棋マガジン1984年4月号、川口篤さん(河口俊彦五段・当時)の「対局日誌」より。

 ところで、この日は事件が起こった。大内-小林戦で、大内が不戦敗となったのである。なんでも、大内は対局場が大阪なのに、東京と勘違いして、こちらへ来てしまったらしい。これも大事な一番で小林は安全圏に逃げ、大内は、残る2局のうち、1局は勝たないと危ないという事態になってしまった。当人の不注意にはちがいないが、気の毒でいうべき言葉もない。

 さて、大広間の中央は真部-福崎戦。奥の間は丸田-有吉戦と二上-石田戦。こう全体を見渡して気がついたが、この1組の人々は、将棋指しの、あらゆる面での水準を表しているように思われる。だから、中の一人の物の考え方を語れば、棋士はだいたい同じように考えているともいえるわけだ。

 たとえばこんな話がある。

 ある日、真部は知人の家を訪問した。すでに何回か訪れていたのだが、この時は降りる駅を間違えてしまった。駅前に出た彼は周囲を見回していわく「半年の間に景色が全部変わってしまったな」

 このように、棋士という人種は、自分が誤ったとは、決して思わないのである。

「才能のある人は違う」と感心した人もいるが、見方が自己中心的だともいえよう。棋士全員に、地球が回っているか、太陽が回っているか、と問えば、90パーセントは、天が回っているに決まっている、と答えるだろう。

(以下略)

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棋士が、普通のサラリーマンと同じような行動パターンだったり思考方法だったとしたら、これは本当につまらない。

天動説を信じているかどうかは別として、やはり棋士は、ユニークなキャラクターでいてほしい。

* * * * *

昨日、電車に乗っていて外を見ていると、並行している国道で渋滞が起きていた。

車が止まったまま。しかし、車間は結構あいている。

不思議な渋滞だな、と思いながら見ていると、電車と車がほとんど同じスピードで走っているからそのように見えているということにようやく気がついた。

国道は全く渋滞はしていなかったのだ。

天動説を笑ってはいられない。

 

 

2018年2月将棋関連新刊書籍

2018年2月の将棋関連新刊書籍。

〔3月以降の新刊〕