「うおおおおおー!!初めてプロ棋士を見たぜ!!」

将棋世界2005年10月号、飯塚祐紀六段(当時)の「矢倉で強くなろう!」より。

 将棋会館の2階の道場で子供教室の打ち合わせで職員の方と話し込んでいたところ、少年に声をかけられました。

「うおおおおおー!!初めてプロ棋士を見たぜ!!すごく感激した!!」

「あぁ、いえいえ」(いきなりだったのでちょっと照れる)

「すみません、深浦プロですよねっ!!」

「………………」

 少年の夢を壊すのは実に切なくて心苦しいものがありました。

* * * * *

飯塚祐紀七段と深浦康市九段は、二人ともメガネをかけているものの、決して似ているというわけでもない。

* * * * *

初めて将棋連盟の道場へ行った日、この日は土曜日で二日酔いだったことと家が比較的遠くなかったということから、タクシーで将棋会館に向かった。

千駄ヶ谷に到着して料金を支払う時、運転手さんに「お客さん、将棋の先生ですか?」と聞かれた。

「いえいえそんな、バチが当たります」とわけのわからないことを言って降りた記憶がある。

* * * * *

渋谷か新宿から「鳩森神社の隣の将棋会館へ」と言いながらタクシーに乗って、降りるまでに「お客さん、将棋の先生ですか?」と聞かれるかどうかを試してみるのも、趣のあることだと思う。

 

大山康晴十五世名人「この人の癖は全部分かる」

将棋世界2005年10月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 特別編 丸田祐三九段~その3~」より。聞き書きは木屋太二さん。

 大山さんは升田さんのことを知り尽くしていた。なにしろ子どもの頃から木見金治郎(九段)門下で朝昼晩と一緒に食事をして暮らしているから、「この人の癖は全部分かる」と大山さんは言っていた。大山さんは升田さんが、ああこの将棋は諦めたなと思うと考えない。さっさとやると向こうもさっさと応じて投げる。このへんの呼吸は、よく心得ていた。

 升田さんは木村義雄(十四世名人)だけ見て生きてきた。大山さんは升田さんしか見ていない。その差ですよ。升田さんは大山さんのことなど眼中にない。そもそも敵じゃなかった。数に入っていなかった。大山さんが木見先生に6級で入門した時、升田さんは、すでに初段か二段だった。

 升田さんは時間があると「平手で稽古をつけてやろう」と言って、大山さんの駒をみんな取ってしまう。攻めないで遊んでいる。ゲラゲラ笑いながら指す。大山さんはひどい目に遭うのだが、それで将棋というものは攻めるものではなく受けて勝つものだと思ったそうだ。大山さんは升田さんに鍛えられた。

 そのことである本に、升田さんが「大山、くにへ帰れ」と言ったと書いてあるが、大山さんによるとそれは新聞記者の創作で、実際にはそういうことはなかったらしい。

 升田さんは大山さんの師匠のような存在だった。稽古をつけたのは大山さんを強くしてやろうと思ったからではなく、暇つぶしの遊びだった。大山さんは升田さんに遊ばれていた訳だが、その遊ばれた人に、すっかり芸を盗まれたとは升田さんも知らなかった。だから後年、ずいぶん升田-大山戦があったけど、升田さんはかなわなかった。盗まれたのは将棋の芸だけではなく、一喜一憂、升田さんの全部です。

 これも大山さんから聞いた話だが、大山さんの父親が学校の先生に「息子は将棋の日本一になるかもしれない」と言ったと伝えられているが、これも、いいかげんらしい。

「そんなこと、言う訳ないじゃないの。日本一を狙うなら東京へ出て行く。親が大阪に置いたということは、将棋で飯が食えればいいと思ったに違いない」、そう大山さんは話していた。だから、大山さんは升田さんと同門でなかったら、一生勝てなかったかもしれない。その意味で、大山さんを作ったのは升田さんと言えるだろう。

(以下略)

* * * * *

「大山、くにへ帰れ」を書いた新聞記者とは、戦前から戦後にかけて関西の棋士を公私にわたって可愛がっていた、大阪毎日の将棋担当記者、樋口金信氏である可能性が高い。

大野・升田・大山兄弟弟子(後編)

大山康晴十五世名人も、自分に関することについて事実と多少違っていても、面白くてファンが喜ぶのなら、そのままにしておく主義だったのだと思う。

* * * * *

内弟子時代の大野源一九段が升田幸三少年に「升田、もう田舎へ帰れ。将棋やめて百姓したほうが身のためや」と言った話は、これは本当にあったこと。

* * * * *

「ずいぶん升田-大山戦があったけど、升田さんはかなわなかった。盗まれたのは将棋の芸だけではなく、一喜一憂、升田さんの全部です」

もともと喜怒哀楽が表情に出る升田実力制第四代名人だから、たまったものではない。

* * * * *

丸田祐三九段と大山康晴十五世名人は、二人で一緒に旅行へ行くほど仲が良かった。

棋風の違い

 

大野源一八段(当時)「大山、お前は今日から振り飛車をやれ」

将棋世界2005年8月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 特別編 丸田祐三九段~その2~」より。聞き書きは木屋太二さん。

 それまで居飛車党だった大山康晴さん(十五世名人)が、突然、振り飛車を指し始めた。このことについて、少し話しておこう。

 中野の将棋連盟は普通の家で、応接間を事務所にしていた。大阪から大野八段が来て泊まった。朝、事務所で大山さんに会った。

「大山、お前顔色悪いな。どうしたんだ」

「升田さんにタイトルを全部取られたら対局が多くて、くたびれちゃったのよ」

 升田さんは昭和32年、名人、王将、九段の三冠王になった。この時、大山さんは無冠だった。大野さんは関西の木見金治郎八段(九段)の高弟で、升田さんと大山さんは弟弟子だった。大野さんが言った。

「大山、くたびれるのは矢倉みたいな辛気くさい将棋を指しているからや。将棋ってのはな、振り飛車をやるんや。振り飛車は角道を止めて、飛車を好きなところに持っていって王様を囲ってな、それまでは顔を上げんでいい。顔を上げると相手が攻めてくるから、それをこなすのは大山、わしよりお前の方がうまいだろう。大山、お前は今日から振り飛車をやれ」と大野さんが言うと、大山さんは「はい」と大きな声で答えた。

 大野さんは”振り飛車名人”と呼ばれるほどの振り飛車の使い手だった。その大野さんも戦前の将棋を見ると、結構居飛車をやっている。振り飛車が東京で通用すると思ったのかもしれない。塚田さんが名人になった年の挑戦者決定戦に、10勝3敗で塚田、萩原淳(九段)、大野と並んだことがあった。それだけ振り飛車で星を稼いだということです。

 驚いたのは大野さんにアドバイスを受けたその日に、大山さんが振り飛車を指したことだ。向かい飛車だった。当時の定跡で、居飛車の先手は▲4六歩と突いてから▲6八玉と上がる。急戦時代だから、その前に▲3六歩と▲5六歩も指している。

 大山さんは隙ありとにらんでポーンと△4五歩と突いた。▲同歩と取れば角交換をして△4六角が王手飛車取りになる。この将棋は大山さんの快勝だった。

 それで復調したのか、大山さんは升田さんから次々にタイトルを取り返し、以後、将棋界に不動の大山時代を築いた。

 大山さんは先手なら矢倉、後手なら振り飛車というパターンをしばらく続けた。二上達也さん(九段)が挑戦者で出てきた頃から矢倉で苦戦するようになった。二上さん用に作戦を振り飛車に切り替えた。やがて表芸の矢倉が減り、裏芸の振り飛車専門になった。大山さんに振り飛車をすすめたのは兄弟子の大野さんという話です。

 その大野さんは強情な将棋だった。ある時、銀損をして飛車が成った。

「飛車だけ成れればいいってもんじゃないよ」と私が言うと大野さんは、「わしの将棋は飛車を成れば指せる」と胸を張って言った。負けん気が強かった。「東京の棋士は振り飛車がへた」だそうだ。私らの時代は東京に木村名人がいて相掛かり全盛だった。飛車はこのままで使えるんだよ居飛車で、と教えられた。振り飛車は一手損をして指す。”横歩取り三年の患い”と言っていた頃だから、特に手損はうるさかった。そういう影響があった。

 秒読みになるとあわてるのは花村元司さん(九段)。この人は早指しで、時間があるうちはスイスイ指してくる。ところが時間がなくなると、そわそわしだす。花村さんが秒読みになると、いや秒を読まないうちから、この将棋は大丈夫だと思ったものです。花村さんは持ち時間のある早指し。逆に持ち時間を使い切ってから強いのは加藤一二三さん(九段)。時間のない将棋を、これまで一番多く指した人です。

 早指しは関東では花村さん、関西では灘さんが有名だった。常勝の大山さんは灘さんによく負けた。テレビ対局のNHK杯戦で、二人が対戦した。中盤で大山さんが優勢になる。局面は大差。そうすると大山さんは時間が気になりだす。将棋番組には時間の枠がある。ファンも見ている。早く対局が終わったら困る。

 大山さんは気配りの達人だから、何とか将棋を長引かせようとする。引っ張って、お守りをしているうちに形勢がおかしくなる。流れが相手に行ってしまう。こうなると、さすがの大山さんでも駄目で、「あいつは本当にしょうがないやつだ。あんな無神経、俺はかなわない」と、こぼすことになる。勝った灘さんは喜んでいる。長い間には、いろいろな人がいて、いろいろなことがありました。

* * * * *

非常に日常的な出来事ではあったけれども、将棋界の歴史を変えるきっかけとなった、ものすごい朝。

* * * * *

「くたびれるのは矢倉みたいな辛気くさい将棋を指しているからや。将棋ってのはな、振り飛車をやるんや。振り飛車は角道を止めて、飛車を好きなところに持っていって王様を囲ってな、それまでは顔を上げんでいい」

これぞ振り飛車の醍醐味。振り飛車党の方から見たら非常に痛快な言葉だ。

* * * * *

「わしの将棋は飛車を成れば指せる」

これが大野源一九段の振り飛車の魅力であり、その神業の捌きも、原則的には飛車を成ることを目的としたものであったから、飛車好きの人にとっては見ていて心が踊るものだった。

銀損、角損しても飛車を成っていいんだ、と知った時は、世の中が急に明るくなったような気持ちになったものだった。

* * * * *

たとえば、下の図は、1966年順位戦の五十嵐豊一八段(先)-大野源一八段戦。

photo

ここから大野八段は△3五角!

以下▲同銀△4九飛成。この対局は大野八段が勝っている。

 

第59期王位戦第5局対局場「渭水苑」

菅井竜也王位に豊島将之棋聖が挑戦する王位戦、第5局は徳島市の「渭水苑」で行われる。

中継
AbemaTV将棋チャンネル
ニコニコ生放送

渭水苑」は結婚式場のある料亭で、当初は1977年に16億円の費用で建てられた邸宅だった。

[渭水苑のランチメニュー]

渭水苑の料理は本格懐石料理。

1日限定10食・2日前までに要予約のランチメニューは、「城山」(2,800円(税・サービス料込)で、色々な種類の料理(全18品)が一口サイズで出てくる。

国産黒毛和牛ミニッツステーキ
鳴門鯛のお刺身
揚げしんじょう など
季節の炊き込みご飯
そば米汁
お漬物
デザート

[渭水苑の昼食実績]

渭水苑での昼食実績は次の通り。(将棋棋士の食事とおやつによる)

2017年王位戦
羽生善治王位 ●
一日目 鉄火丼
二日目 松花堂弁当
菅井竜也七段 ○
一日目 天ぷらうどん
二日目 天ぷらうどん

2016年王位戦
羽生善治王位 ●
一日目 阿波尾鶏の親子丼
二日目 松花堂弁当
木村一基八段 ○
一日目 鉄火丼
二日目 阿波尾鶏の親子丼

2015年王位戦
羽生善治王位 ◯
一日目 阿波尾鶏の親子丼
二日目 松花堂弁当
広瀬章人八段 ●
一日目 阿波尾鶏の親子丼
二日目 ざるうどん

2014年王位戦
羽生善治王位 ◯
一日目 冷やしうどん
二日目 松花堂弁当
木村一基八段 ●
一日目 親子丼
二日目 松花堂弁当

2013年王位戦
羽生善治王位 ◯
一日目 松花堂弁当
二日目 親子丼
行方尚史八段 ●
一日目 親子丼
二日目 親子丼

2012年王位戦
羽生善治王位 ◯
一日目 冷やしうどん
二日目 松花堂弁当
藤井猛九段 ●
一日目 冷やしうどん大盛り
二日目 冷やしうどん・鯛めし

2011年王位戦
広瀬章人王位 ◯
一日目 親子丼
二日目 刺身御膳
羽生善治二冠 ●
一日目 親子丼
二日目 松花堂弁当

2010年王位戦
深浦康市王位 ●
一日目 松花堂弁当
二日目 冷やしうどん、おにぎり(梅)
広瀬章人六段 ◯
一日目 天ぷらうどん、おにぎり3個
二日目 親子丼

 [昼食予想]

菅井竜也王位、豊島将之棋聖とも、引き続きご飯系と見たい。

予想は次の通り。

菅井竜也王位
一日目 鉄火丼
二日目 阿波尾鶏の親子丼

豊島将之棋聖
一日目 阿波尾鶏の親子丼
二日目 松花堂弁当

 

対局時の食事が支給されていた時代

将棋世界2005年8月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 特別編 丸田祐三九段~その2~」より。聞き書きは木屋太二さん。

 昭和24年、A級2年目で理事になった。私は対局に専念したかったが、渡辺会長に「将棋連盟、将棋界のために丸田さん、お願いします」と頼まれた。何度も言うので断り切れなかった。

 規則の不備なところを直し、新しくアイデアを考え提案した。今風に言えば構造改革だ。

 持ち時間も見直した。戦前は四段が一日指し切り制で各7時間。五段、六段は二日制で各9時間。七段、八段は二日制で各11時間。特別なのは各13時間というのもあった。秒読みは1分。ストップウォッチで時間を計るのは昔からだった。

 上の先生から「順位戦で二日も満員電車にもまれては、からだが持たない。もう一日で指す時代ではないか」という発言があり、特に反対する意見もなかったので全クラスを一律一日指し切り制、持ち時間各7時間に改めた。7時間としたのは、それが限度と考えたからだ。いまと違ってホテルに泊まるとか、車を拾って帰る時代ではない。

(中略)

 対局開始は、昔から午前10時だった。これはラッシュアワーを避ける意味がある。終戦後は都心に家がなく、皆、郊外に住んだ。空襲で焼けたためです。順位戦が全て一日指し切り制になったのは、このこととも関係がある。

 昼食休憩を午後12時10分から1時までの50分間、夕食休憩を午後6時10分から7時までの50分間とした。1時間でも良かったが、50分で済むなら、そのぶん対局が早く終わるので、そうしようということになった。タイトル戦の場合は1時間と決めた。

 休憩の差は昼と夜を併せて20分になる。事務所関係にとっては、この時間が大きい。対局者に会って仕事の打ち合わせなど、話をすることができた。昭和20年代は外へ出掛けず、ほとんど出前を取っていた。だからなおさら、時間が短くても平気だった。

 食事と言えば、戦前は対局者に連盟持ちで支給していた。記録係は支給されない。こういうことがあった。指し手が早く進み、対局が終わりそうになった。夕食を頼む時間が近づいた。手番の対局者は一生懸命考えている。いや、考えているふりをした。どうして指さないのかな?と思って見ていると、突然「親子丼!」と注文した。その対局者は「もう注文したからいいんだよな」と言って投了した。そして、親子丼を食べて帰った。夕食を頼む時刻に対局が終わっていると注文できない。これなどは生活の知恵です。戦後は自分でお金を払いました。

 おやつも、ずいぶん続いた。外からの差し入れもあった。覚えている中で一番贅沢なのは新聞三社連合が持ってきたものだ。岡山さんといったかな、その人が上等なウイスキーを持参して、「塚田先生、どうぞ、おあがりくださいませ」と言う。塚田正夫さん(名誉十段)と大野源一さん(九段)が対局していた時です。どうやら大野さんが酒を飲めないと錯覚したらしい。そのあとが面白かった。将棋が終わったら大野さん、「おい塚田、そのウイスキーを出せ」と目をギョロリと向けた。きっと二人で仲良く飲んだのでしょう。

(以下略)

* * * * *

終戦直後にいろいろと決めなければならなかったという事情から、現在の対局にかかわる諸々のことは、丸田祐三九段が骨格を作ったということがわかる。

* * * * *

戦前の対局時の食事支給。

さるそばを食べたい気分でも、ついつい値段の高いものを注文した棋士もいたかもしれない。

福利厚生的な意味合いがあったのかどうかはわからない。