対局時の食事が支給されていた時代

将棋世界2005年8月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 特別編 丸田祐三九段~その2~」より。聞き書きは木屋太二さん。

 昭和24年、A級2年目で理事になった。私は対局に専念したかったが、渡辺会長に「将棋連盟、将棋界のために丸田さん、お願いします」と頼まれた。何度も言うので断り切れなかった。

 規則の不備なところを直し、新しくアイデアを考え提案した。今風に言えば構造改革だ。

 持ち時間も見直した。戦前は四段が一日指し切り制で各7時間。五段、六段は二日制で各9時間。七段、八段は二日制で各11時間。特別なのは各13時間というのもあった。秒読みは1分。ストップウォッチで時間を計るのは昔からだった。

 上の先生から「順位戦で二日も満員電車にもまれては、からだが持たない。もう一日で指す時代ではないか」という発言があり、特に反対する意見もなかったので全クラスを一律一日指し切り制、持ち時間各7時間に改めた。7時間としたのは、それが限度と考えたからだ。いまと違ってホテルに泊まるとか、車を拾って帰る時代ではない。

(中略)

 対局開始は、昔から午前10時だった。これはラッシュアワーを避ける意味がある。終戦後は都心に家がなく、皆、郊外に住んだ。空襲で焼けたためです。順位戦が全て一日指し切り制になったのは、このこととも関係がある。

 昼食休憩を午後12時10分から1時までの50分間、夕食休憩を午後6時10分から7時までの50分間とした。1時間でも良かったが、50分で済むなら、そのぶん対局が早く終わるので、そうしようということになった。タイトル戦の場合は1時間と決めた。

 休憩の差は昼と夜を併せて20分になる。事務所関係にとっては、この時間が大きい。対局者に会って仕事の打ち合わせなど、話をすることができた。昭和20年代は外へ出掛けず、ほとんど出前を取っていた。だからなおさら、時間が短くても平気だった。

 食事と言えば、戦前は対局者に連盟持ちで支給していた。記録係は支給されない。こういうことがあった。指し手が早く進み、対局が終わりそうになった。夕食を頼む時間が近づいた。手番の対局者は一生懸命考えている。いや、考えているふりをした。どうして指さないのかな?と思って見ていると、突然「親子丼!」と注文した。その対局者は「もう注文したからいいんだよな」と言って投了した。そして、親子丼を食べて帰った。夕食を頼む時刻に対局が終わっていると注文できない。これなどは生活の知恵です。戦後は自分でお金を払いました。

 おやつも、ずいぶん続いた。外からの差し入れもあった。覚えている中で一番贅沢なのは新聞三社連合が持ってきたものだ。岡山さんといったかな、その人が上等なウイスキーを持参して、「塚田先生、どうぞ、おあがりくださいませ」と言う。塚田正夫さん(名誉十段)と大野源一さん(九段)が対局していた時です。どうやら大野さんが酒を飲めないと錯覚したらしい。そのあとが面白かった。将棋が終わったら大野さん、「おい塚田、そのウイスキーを出せ」と目をギョロリと向けた。きっと二人で仲良く飲んだのでしょう。

(以下略)

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終戦直後にいろいろと決めなければならなかったという事情から、現在の対局にかかわる諸々のことは、丸田祐三九段が骨格を作ったということがわかる。

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戦前の対局時の食事支給。

さるそばを食べたい気分でも、ついつい値段の高いものを注文した棋士もいたかもしれない。

福利厚生的な意味合いがあったのかどうかはわからない。