大山康晴十五世名人「この人の癖は全部分かる」

将棋世界2005年10月号、「時代を語る・昭和将棋紀行 特別編 丸田祐三九段~その3~」より。聞き書きは木屋太二さん。

 大山さんは升田さんのことを知り尽くしていた。なにしろ子どもの頃から木見金治郎(九段)門下で朝昼晩と一緒に食事をして暮らしているから、「この人の癖は全部分かる」と大山さんは言っていた。大山さんは升田さんが、ああこの将棋は諦めたなと思うと考えない。さっさとやると向こうもさっさと応じて投げる。このへんの呼吸は、よく心得ていた。

 升田さんは木村義雄(十四世名人)だけ見て生きてきた。大山さんは升田さんしか見ていない。その差ですよ。升田さんは大山さんのことなど眼中にない。そもそも敵じゃなかった。数に入っていなかった。大山さんが木見先生に6級で入門した時、升田さんは、すでに初段か二段だった。

 升田さんは時間があると「平手で稽古をつけてやろう」と言って、大山さんの駒をみんな取ってしまう。攻めないで遊んでいる。ゲラゲラ笑いながら指す。大山さんはひどい目に遭うのだが、それで将棋というものは攻めるものではなく受けて勝つものだと思ったそうだ。大山さんは升田さんに鍛えられた。

 そのことである本に、升田さんが「大山、くにへ帰れ」と言ったと書いてあるが、大山さんによるとそれは新聞記者の創作で、実際にはそういうことはなかったらしい。

 升田さんは大山さんの師匠のような存在だった。稽古をつけたのは大山さんを強くしてやろうと思ったからではなく、暇つぶしの遊びだった。大山さんは升田さんに遊ばれていた訳だが、その遊ばれた人に、すっかり芸を盗まれたとは升田さんも知らなかった。だから後年、ずいぶん升田-大山戦があったけど、升田さんはかなわなかった。盗まれたのは将棋の芸だけではなく、一喜一憂、升田さんの全部です。

 これも大山さんから聞いた話だが、大山さんの父親が学校の先生に「息子は将棋の日本一になるかもしれない」と言ったと伝えられているが、これも、いいかげんらしい。

「そんなこと、言う訳ないじゃないの。日本一を狙うなら東京へ出て行く。親が大阪に置いたということは、将棋で飯が食えればいいと思ったに違いない」、そう大山さんは話していた。だから、大山さんは升田さんと同門でなかったら、一生勝てなかったかもしれない。その意味で、大山さんを作ったのは升田さんと言えるだろう。

(以下略)

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「大山、くにへ帰れ」を書いた新聞記者とは、戦前から戦後にかけて関西の棋士を公私にわたって可愛がっていた、大阪毎日の将棋担当記者、樋口金信氏である可能性が高い。

大野・升田・大山兄弟弟子(後編)

大山康晴十五世名人も、自分に関することについて事実と多少違っていても、面白くてファンが喜ぶのなら、そのままにしておく主義だったのだと思う。

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内弟子時代の大野源一九段が升田幸三少年に「升田、もう田舎へ帰れ。将棋やめて百姓したほうが身のためや」と言った話は、これは本当にあったこと。

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「ずいぶん升田-大山戦があったけど、升田さんはかなわなかった。盗まれたのは将棋の芸だけではなく、一喜一憂、升田さんの全部です」

もともと喜怒哀楽が表情に出る升田実力制第四代名人だから、たまったものではない。

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丸田祐三九段と大山康晴十五世名人は、二人で一緒に旅行へ行くほど仲が良かった。

棋風の違い