藤井猛九段「三浦君の寄せの強さは底知れない」

将棋世界2005年4月号、河口俊彦七段(当時)の「新・対局日誌」より。

 A級順位戦の8回戦の日である。俗にラス前の日、などと言われ、ここからは全5局、同じ日に戦われる。

(中略)

 私の注目の一局、というより気になる一戦は、谷川棋王対三浦八段戦。これだけは大阪で戦われている。

 そこで早く経過を知りたいから、毎日の山村記者に指し手を聞いたりしていると、勝又君に「老師はそちらの方に眼が行くんですね」と笑われた。

 そりゃそうだろう。もし三浦八段が負けたりすれば、今日降級者が二人決まってしまうかもしれない。別に三浦八段を応援するわけではないが、決まっては最終戦も味けないものになってしまう。去年のような展開にはなってもらいたくない。それに挑戦者争いは、最終戦か同率決戦まで決着が持ち越されるだろう。これは先の楽しみというものだ。

 その谷川対三浦戦は、おかしな進行となっている。といっても最近の三浦八段にはいつものことらしいが、序盤の30数手までほとんどノータイムなのである。そうして戦いがはじまると、大長考の連続となる。

 考慮時間を見ると、35手目に戦いが始まるのだが、それが1図。三浦将棋はこの形ばかりで、だから考えずにすむということか。

 1図まで谷川棋王97分。三浦八段はたったの1分。この後、三浦八段は11分考えて△6四角と打つのだが、その後の数手もほとんど考えてないから、実戦と研究で知り尽くした形というわけ。谷川棋王も、自分ばかり時間を使わされていい気持ちではなかっただろう。

(中略)

 時刻はいつの間にか、深夜の12時近くになっていた。いつも思うのだが、夜の7時からは時のたつのが早い。

 大広間では、まず佐藤対深浦戦が終わって、佐藤棋聖勝ち。これで残留が確定。中央の間の高橋対鈴木戦が大詰めとなっていて、高橋玉に詰みがあるやなしやだが、研究では詰みがなく高橋勝ちの結論が出ていた。

 盤側に座ると、鈴木八段が投げた。高橋九段は返礼して、にっこり笑った。こんな嬉しそうな顔は滅多にない、というくらいのものだった。

 鈴木八段の背中では、丸山対藤井戦がこちらも終了直前だ。丸山九段に何か計算違いがあったような形で、はっきり一手負けになっている。それでも残り1分まで粘り、完全な必至をかけられるまで投げなかった。最後はあぐらだったが正座に直り、礼儀正しく頭をさげた。

 こうして残ったのは、大阪と東京で一局ずつとなった。

 問題の谷川対三浦戦は、昼間から三浦優勢となり、やがて三浦勝勢となっていた。そして深夜のドラマが起こった。

 5図は、最後のお願いとばかり、谷川棋王が▲6四桂と打った場面。勝ったと思っている三浦八段は、いちばん嫌な手を指されたわけだ。

5図以下の指し手
△6四同角▲7七銀引△3六飛成▲4四飛△8八香成▲同金△5五角(6図)

 怖いが、5図で△4二玉と逃げれば後手が勝ちらしい。▲4五飛には△4三金と受ける。

 気楽な見物側はそう言うが、首のかかった当人は、そんな指し方はできない。▲7七銀引△同角成と、銀1枚補充できるとあってはなおさらだ。△6四同角と取ったのはやむをえなかった。

 しかし角の利きがそれ、▲7七銀引と取ってヨリが戻った。

 さらに▲4四飛が谷川らしい、よさそうな手で、俄に逆転ムードである。

6図以下の指し手
▲4一銀△6一玉▲3二銀不成△4四角▲4三銀成△7九金(6-1図)▲同玉△5九飛(7図)

 ▲4一銀と攻められ、以下▲4三銀成で後手玉に一手すきがかかった。一見先手玉に詰みがなさそうだ。

 便利な時代になったもので、大阪の模様もネットによって、同時中継で見られる。三浦八段はすこし考え、△7九金と打った。

 これは▲同玉の一手。▲9八玉は△8九銀、△8七銀どちらでも詰む。

 こちらの控え室では、みんなこの場面を見つめている。金を捨てた意味を、瞬間わからないでいると、先崎八段が「あっ!いい手順があるねえ」と会心の笑みをもらした。

「△5九飛と打つよね。▲6九金と合い駒して、△6八銀▲同玉△7七角成▲同玉△8六銀▲7八玉△7六竜▲7七歩(変化図)となる。

そのとき、いったん△8七銀成がうまい手順なんだよ。▲同金にそこで△6九飛成▲同玉△6七竜だ」

 さすがによく手が見える。一同感嘆した。蛇足を加えれば、右の手順の後、▲6八歩△7八金で詰む。先に△8七銀成としてあるから△7八金が打てる。

7図以下の指し手
▲6九香△6八銀▲同玉△7六桂(投了図)まで、三浦八段の勝ち。

 谷川棋王は、▲6九香とやさしい受け方をし、簡単に詰まされた。こういうところがプロ将棋の見所の一つである。

 ▲6九金と難しい受けを指さなかったのは、先の△8七銀成が見えていたからである。つまり、そんな好手を指させるのはしゃく、というわけ。ここにもタイトル保持者のプライドみたいなものがあらわれている。

(中略)

 そこへ藤井九段が入って来て、他の結果を聞き、羽生対久保戦の棋譜を取って並べはじめた。機嫌がわるかろうはずがない。

(中略)

 羽生対久保戦を終え、谷川対三浦戦になった。それが5図の場面になると、藤井九段は「やっぱり△6四同角と取るよ」というと、横から「ここで関西の控え室は喜んだだろうね」の声が出た。

 最後の△8七銀成の変化には、藤井九段も感心したが、そのとき私は、三浦八段は△6四同角と取るとき、そこまで読み切っていた、と思った。常々藤井九段が「三浦君の寄せの強さは底知れない」と言っているのを思い出したから。そして序盤で時間を節約したのが、最後に物を言ったわけだ。

(以下略)

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この一局を負ければ降級という一戦。三浦弘行八段(当時)のあまりにも鋭い手順。

もし今のようにリアルタイムで中継されていたなら、三浦ファンの方々は△7九金(6-1図)が指された時に、意味がすぐにはわからなくても、鳥肌が立つような、すぐには言葉にできないような感動を味わえていたことだろう。

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「三浦君の寄せの強さは底知れない」

三浦九段は、2001年の木村一基五段(当時)の結婚披露宴の最中にずっと詰将棋を解いていたほど。

もともとの才能とたゆまぬ努力が、△7九金や実戦には現れなかったものの△8七銀成のような手を生み出している。