小池重明氏「すべてを告白します」(前編2)

将棋ジャーナル1985年10月号、小池重明氏の「すべてを告白します(1)」より。

青春の入り口

 高校を二年で中退した私は、弱冠十七歳の身で悪友に紹介されてナベ屋の番頭になった。

 ナべ屋とは、ある種の旅館である。ただ普通の旅館と異なるのは、奥の部屋に常時女を五、六人待機させている点である。もちろん、女は客の求めに応じて酒席に侍り、あるいは春をひさぐ。いわゆるアイマイ宿である。

 私の勤めた旅館に、広美という女がいた。

 二十一歳という若さで、ポチャポチャとした色白で丸顔の、笑うと大きなえくぼができる、とても愛くるしい顔立ちをしていた。広美は私を弟のように可愛がり、そして私を一人前の男に仕立てた。

 はじめての体験に私は夢中になり、のぼせ上がって広美を追っかけ回した。本当は広美も内心迷惑していたのだろうが、私にはそんなふうには見えず、いずれは二人で世帯を持ちたいとまで夢見た。

 破局は意外に早く訪れた。

 昼間から広美のアパートにしけ込んでいると、あにはからんやコワーイその筋の、広美の旦那がやってきたのである。なにしろ世間様のことは西も東もわからない坊やである。

「広美さんを愛しています。広美さんをボクにください」

 真正面から堂々と切り込んで行ったものである。旦那は信じられないといった顔で、一瞬ぼんやりしていたが、たちまち顔面紅潮すると、私に向かって凄い剣幕でつかみかかってきた。私は旦那の猛烈なパンチを右左にかいくぐって、やっとの思いでアパートの戸外に転がり出た。そして、なおも喚き声をあげるアパートを背に一目散に逃げ出した。もちろんナベ屋の方もそれっきりになってしまった。

 次の就職先は、大須のヅカ喫茶店。バーテン見習いとして、中京競馬場の出店へ派遣されたりした後に、今池の本店へ回された。

 この喫茶店は、同じ会社が経営しているホテルの中にあり、躾もきびしかった。従業員は五階級位にランクづけされ、私は頑張ってようやく真中辺まで進むことができた。ところが、そこで事件が起きた。

 というのは、その頃喫茶店に勤めるかたわら、夜はアルバイトでバーで働いていた。

 このバーは韓国人の夫妻が経営していたが、親切な人たちでよく御馳走してくれた。いまでも真赤になるほど唐辛子をまぶしたホーレン草が目に浮かぶ。このバーにB子という女がいた。美人というほどではないが、とてもよく気が合い、いつしか淡い恋心を抱くようになった。そうこうしているうちにB子から借金の申し込みを受け、汗水たらして貯めた金をほぼそっくり貸してしまった。

 ところが、B子はそれっきり店に出て来なくなってしまったのである。あちこちに借金をこしらえ、男と逃げたという噂が飛び交った。傷心した私は、がっかりしてバーをやめ、やがて喫茶店もやめてしまった。

 その後名古屋市内の喫茶店、バーなどを転々とし、気がついたときには尾張一宮まで流れてきていた。

 紹介する人があってスナック風の店で働くことになり、では明日からということで、その晩は店のママと酒を飲み、店で借りているアパートに泊めてもらった。その時、ママに店の女の子にだけは手を出さないように、と固く念を押されたのだが―。

 しかし、その晩泊った部屋とふすま一枚へだてて、隣の部屋には何と店の若い子が寝ているではないか。言わず語らずのうちに健康な二つの身体は一つになることを求めたのも、また必然の成り行きだった。

 どういう仕組みか、これはただちに店にバレ、翌朝待ったなしでクビを言い渡された。文無しで放り出されたのだから、これにはまいった。かくして私はトボトボと春日井まで徒歩で帰って行った。

 この頃父は歳葬関係の仕事が軌道に乗り、春日井に念願の建売住宅を買うまでになっていた。母もきっぱりと夜の商売から足を洗い、親子三人水入らずの生活が始まった。

 道楽息子の私も約二年間にわたる彷徨生活に終止符を打ち、父の頼みを入れて父の勤め先である葬祭会社に就職し、平凡なサラリーマンになった。風雨きびしかった我が家にも漸く人並みな平和な暮らしが訪れようとしていた。時に十九歳。

 会社は互助会組織のハシリである葬祭会社で、月掛で会費を納めると、いざ不幸が起きたときに無料もしくは格安の費用で葬儀一切がまかなえる。従来にない新しいシステムとして好評で、会社は順調に好成績をあげていた。

 私の仕事はお客様のところへ行き、葬式費用の見積り、湯かん、祭壇飾り付、出棺手配など実際の最前線業務だった。私は体力には恵まれている方だったので、少し馴れてくると、水商売よりはかえって仕事がラクだった。一応身分が安定してくると、二年ばかりやめていた将棋の虫がまたぞろ頭を擡げてきた。週一回の休みの日が待ち遠しく、その日は朝から浮き浮きしていた。

 名古屋駅前に古くから有名な長谷川旅館があった。長男が後を継ぎ、次男は駐車場経営などをしていたが、そのうち駐車場を半分つぶして将棋クラブを作った。たまたま西田さんの太閤クラブの常連だった人に出会い、新しく出来た道場が面白そうだから行ってみようと誘われ、それがキッカケで長谷川さんの道場に通うようになった。

初のアマ名人戦 

 昭和四十三年、アマ名人戦の愛知県予選に初めて出場し、優勝、代表になった。二十歳だった。

 東地区大会は二勝で予選通過の規定だった。静岡代表の中村常誠さんに負け、東京代表の吉田直躬さんに勝ち、同じく東京代表の三上博さん(昭和五十年アマ名人)には千日手の末、何とか勝つことができた。

 いよいよ本選トーナメントである。

 クジ運によってかなり成績が左右されると言われるが、一回戦の相手は誰あろう、大本命の関則可さんだった。

 関さんは当時すでに全国的に名前の売れた強豪で、連続三回東地区大会で優勝し、東西決戦では惜しくも敗れてアマ名人の称号を逸しているものの、実力的には歴代アマ名人に伍して何らの遜色がなかった。もちろん今大会での優勝候補の筆頭だった。関さん自身もこの年は雪辱の意気に燃えて、事実アマ名人の栄冠に輝いたのだから、これは不運以外のなにものでもない。全国的規模の大会に初出場の私には荷が重すぎた。軽く一蹴されてしまった。

 関さんにはこの時はじめてお目にかかったのだが、それから後しばしばお逢いする機会に恵まれ、次第にその人柄と将棋に対する激しい情熱に傾倒していくようになった。

 アマ名人戦出場を機会に、私の将棋に対する視野はかなり広がり、全国のアマ強豪の存在をおぼろげながら意識するようになった。

 そんな折、何かの全国大会が愛知県蒲郡で開かれ、準決勝に関さん、神奈川の伊藤秀一さん、地元の坪井定一先生(第一期アマ名人)、同じく湯川寿香さんが進出し、長谷川さんの道場で対局することになった。雑誌「近代将棋」の森敏宏さん(現編集長)が立会人だった。(後で調べたところによると「稲垣九十九追善将棋大会」であったようだ)

 私はかつて太閤クラブ時代、坪井先生に一番だけ角落を指して頂いたことがあり、そのせいもあって内心ひそかに坪井先生に声援を送っていた。ふたをあけてみると、関対湯川は関の勝ち、伊藤対坪井は坪井の勝ち、関対坪井の決勝戦は坪井の勝ちで、私はうれしかったが、同時にますます関さんの存在を意識するようになった。近将の森さんと徹夜で戦ったのも懐しい想い出である。一局千円で胸を借りるつもりでぶつかっていったが、結果はきれいに指し分け、後にさわやかな気分が残った。

 またこの頃、相前後して東海地区の大会が催された。大阪から加賀敬治(アマ名人)、大田学(朝日名人)などの超ど級が参加したが、これらの強豪をなぎ倒して東海王将の称号を頂戴し、大いに自信を深めたのである。真剣勝負について記すと、太閤クラブで四段になった頃から指しはじめ、ほとんど地元の棋客が相手だったから、まずお金を取られたことがなかった。

 私の真剣事始めはこうである。

 太閤クラブに行商を商売にしている、面白い二段の小父さんがいた。ある日、私を近所の喫茶店に誘い出して、こう言うのである。

「あんさん、私と真剣をやっとくんなはれ。これは儲りまっせ。もちろん、談合やがな」

 つまり四段の私と二段の小父さんとでは実力が違いすぎるから、誰が見ても私が勝つに決まっている。そこで賭金の乗り手を募集すると、みな争って私の方に乗るであろう。そこで実際の勝負は、私が手加減して小父Aさんに勝たせるのである。そうすると、小父さんのところへは賭金がどっさり入る。これを何回かくり返すと、相当の額になる。後でそれを二人で山分けしようという計画である。

 私は小父さんの巧妙な話術にフラフラと乗せられ、いつのまにかその話を引き受けていた。さて、結果の方はというと―一回戦は五、六人の客が一せいに私に乗った。ところがあまり簡単に私が負けてしまうので、二回戦は乗り手が二人になってしまった。これもアッサリ私が負けると、次からは誰も乗らなくなってしまった。

 おまけに乗ってソンをしたお客からは恨みがましい目付きでニラま身のすくむ思いがした。一見美味しそうな話でも、ウッカリ軽率に同調すると後で取り返しのつかないことになる。乗りつぶしなどという悪どいことは、決して二度とやってはいけないと心から思ったものだった。

(つづく)

* * * * *

曖昧宿とは、表向きは茶屋や料理屋を装い、娼婦を置いて客をとらせる店。

個人的に始めて聞く言葉だが、昔からあった用語のようだ。

* * * * *

昔のヤクザは、自分の情婦(あるいは妻)を、このような場所で働かせていることが多かった。

このような場所で働いている女性を見初めて恋人あるいは妻にしたという展開ではなく、恋人あるいは妻をこのような場所で働かせるという流れ。

ヒモの場合もあったろうし、上納金を納めるためにやむを得ず、というパターンもあったのだろう。

家田荘子さんの『極道の妻たち』には、ヤクザの妻になったがトルコ風呂(当時)で働かされ、DVも酷いので男の元から命からがら逃げたものの、次に惚れた男もヤクザで、今度は優しい人だと思ったけれども、やはりトルコ風呂で働かされてしまった、という事例が書かれている。

* * * * *

花村元司九段がアマチュア時代だった戦前の頃は、真剣(賭け将棋)は対局者同士の一対一の賭けよりも、金主がどちらが勝つかに賭ける賭場方式の方が大きくお金が動いたし、真剣師にとっても、そちらの方が収入が大きかった(金主の儲けの何割かが真剣師に入った)。

小池重明青年が持ちかけられた真剣の仕組みはよくわからないが、どちらにしても、真剣師道および真剣師としての仁義に外れたことであることは間違いない。