小池重明氏「すべてを告白します」(中編1)

将棋ジャーナル1985年11月号、小池重明氏の「すべてを告白します(2)」より。

夢を追って

 将棋が少しずつ強くなって、アマ棋界の強豪との付き合いがあれこれとふえてくるにつれて、私の将棋に対する夢と憧れはにわかにふくらんできた。

 仕事(葬祭互助会)に対する不満はほとんどなく、私なりに一所懸命に働いていたのだが、いったん思いつめると馬車馬のように前方しか見えなくなるのが、いつでも私の欠点。カーッとのぼせて走り出してしまうのだ。この時もそうである。無闇やたらに将棋が指したくなって(道場でふだん指しているような気楽な相手とではなく名の知れた強敵と)、大した準備もないままに昭和四十四年秋、上京した。私は二十一歳になっていた。

 東京では顔見知りの関則可さんだけが頼みの綱だった。

 当時関さんは将棋中心の生活で、ライターとして生活費を稼いでは将棋に打ち込んでいた。前年には宿願のアマ名人をとり、実力的にも全盛時代で、アマ棋界の星として輝やかしい存在だった。ちょうど現在の奥さんと大恋愛中で、公私共に多忙だったにもかかわらず、名古屋からポッと出の私を、実の弟のように実によく面倒をみてくれた。

 まず、六畳一間の国分寺のアパートに居候させてくれたのを手始めに、プロ棋士の卵やアマ強豪との対局を次つぎにセットしてくれた。思うに関さんは、かつて自分が少年の折茨城県の日立市から笈を負うて上京し、奨励会に通った頃の心細さと張りつめた気持を思い出し、私の姿にかつての自分の心情を投影したのかも知れなかった。

 ツノ銀中飛車で有名な松田茂行八段(現在は松田茂役九段)を紹介してくれたのも関さんだった。松田先生は酒が好きで、物事にこだわらない鷹揚な性格のお人だった。御自宅にお邪魔して御馳走になりながら、振飛車の真髄を教えて頂いた。番数にすれば通算数十局にもなるであろうか、何の個人的利益にもつながらない私に対して、終始熱心にまた厳しく指導して下さるのだった。そして、もし奨励会にでも入るようなことかあったら、私が師匠として後見役になってやるとまで言われた。

 後年、私のプロ入り騒動の際に先生はその時の約束を守って、仲間のプロ棋士から孤立してまでも私を庇ってくださったのである。しかし私の不徳のいたすところ、結果として、先生には大のご迷惑をおかけしてしまった、まここに汗顔の至りである。

 ほどなく、やはり関さんの口利きで上野将棋センターに手合孫として就職することができた。これで一応経済的な面での不安も解消して、ますます夢のふくらむ毎日だった。菊池常夫五段(当時奨励会で二、三段)と通算二百番近く対局したのも懐しい想い出である。対戦成績はほぼ互角に近かったように思う。その気になれば強い相手は次つぎに見つかり、そういった意味で東京は人材の宝庫である、地方と違って対戦相手に困ることはなく、改ためて東京に出て来てよかったと、強く思ったものである。

 東京の将棋クラブのお客さんが多いのにも驚いた。
 上野将棋センターというのは、日本一入場者数の多い新宿将棋センターと同じ系統の道場で、矢島浩昌氏が責任者をしていた。ふだんのお客も結構多いが(一日平均百人以上)正月三ヵ日の賑わいぶりには全く目をみはらされた。文字通り立錐の余地がないくらい場内は混み合っていた。私は道場に寝泊りし、将棋三昧の生活を送り、貧しくとも充実した気持の毎日だった。

 ところが好事魔多し、とはこのことだろうか。またまた思わぬ女難に出逢ってしまい、私の人生の軌道は大きく狂ってしまうのだった。

 ある日のこと、道場の仕事が終って外へ出てくると、電柱に何にやらビラ(名刺)が貼ってある。電話をすると、女性が付き合ってくれる、という例のやつだ。私はちょうど酒が入ってホロ酔い機嫌になっており、ついフラフラと無警戒にその気になってしまった。 

 電話をかけて喫茶店で彼女と待ち合わせをした。といっても淡い期待外れで、怪し気なことは何にも起るムードではなく、十数分間世間話をしただけである。ところが彼女はそれだけでン万円を支払えという。持ち合わせが足りないというと、何時の間にか恐いお兄さんが傍にすり寄ってきていた。いわゆる美人局(つつもたせ)というやつだ。

 現在の私なら、この程度の者は適当にあしらって追い返してしまうのだが、当時は田舎から出て来たばかりで、大都会の西も東も分らない純情(?)な二十一歳の青年だった。とてものこと太刀打ちできる相手ではなかった。家はどこか……、店はどこだ……と執拗に責め立てられ、とうとう足りない分を店の売上金で払わされる破目になってしまった。

 私は酔いも醒めはて、後に残ったのは苦い後悔と自責の念ばかりである。そして、明日どう言い訳をしたらよいかと思いまどい、暗いイヤーな気分に襲われていた。男らしく正直にワケを話して、今度の給料分で売上金に手をつけた分を精算させてもらえばよいのだが、頭ではそれは分っていても、とてもそんな気にはなれなかった。せっかく信頼してくれ、道場の鍵まで預けてくれている矢島さんに、一体どんな顔をして話せばよいのか……何時の間にか、私の足は名古屋に向かっていた。

 名古屋に帰った私は、また父の仕事を手伝うことになった。父はちょうど新しく出来た互助会の責任者として迎えられ、大いに張り切っている最中だった。両親は私が帰ってきた理由を何にも知らないながら、単純に喜んで温かく歓迎してくれた。私も互助会の仕事にはかなり馴れていたから、働くことは嫌ではなかった。車の免許を取ったのも、この頃。私の生活の中で、当時が最も落ち着いていたような気がする。車で仲間と三重県松阪まで肉を食べに行ったり、母の実家があった和歌山まで家族とドライブしたりした。もっとも束の間の平安だったといえばいえたが……。そして、私は十六歳の可憐な女性Tと同棲生活に入っていた。現在考えると、子供のママごとのように他愛ないものだったが、それはそれで結構楽しかった。結局Tとは半年位で別れたが、Tはその後結婚して二児の母となり幸せに暮らしているようだ。罪深い私にとって、せめてもの慰さめとなっている。

 というようなことで、私は表面上はおおかたの青年たちと同じように、一応は平穏無事な生活を送っているようにみえた。しかし、一皮むけば将棋に対する未練が、ブスブスと鬼火のように体の中で燃えくすぶっていた。だが、あんな恰好で東京を逃げ出してきている以上、これから先将棋に対してどういう姿勢で立ち向かったらよいか私の頭は混沌としてわけがわからなくなっていた。とうとう思い余って、板谷進八段のもとへ相談に行った。板谷先生は「一刻も早く前(上野の件)のことを清算しなさい。そしてスッキリしてから出直せばよいのです」と諒々とさとされた。

 暗黒の中に一筋の光明を見出した私は、早速上京し、勇気をふるって関係者の方々とお会いし、何とか許してもらうことができた。「これでまた将棋が指せる、大会にも出場出来る……」と私は小踊りせんばかりに喜んで、名古屋へ帰ってきた。実際将棋を本格的に指すようになるのは、これからまだ二、三年後になるのだが、とにかくこれで精神の安定を得ることができて、私は幸せな気分に浸ることができた。

 最初に名古屋に帰った頃、私は大阪へ遊びに行き、約一ヵ月間位あっちの道場、こっちのクラブと経めぐって武者修業したことがあった。

 ジャンジャン横町の将棋クラブでのことだった。真剣界の長老大田学氏と勝負(一局三百円)していると、側で見ていた大きな男が「ニイちゃん、よう指すやんけえ」と口を出した。見るからにイカツい顔をしており、将棋も腕っ節も強そうだった。鬼加賀と異名を奉られていた故加賀敬治氏だった。お二人とも東海名人戦のとき対戦していた筈だったが、きれいさっぱり顔を忘れていた。

 大田さんとは一番勝っただけで、やめた。

 いかに物に無頓着な私とはいえ、大田さんの尋常ならざる指し回しと周りの人たちの口吻から、これがかの高名な真剣師であると分ったから、相手に敬意を表してサッサと降りてしまったのである。

(つづく)

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関則可さんは、1970年代前後、ゴーストライターとして数々の棋書を書いていたと言われている。

1977年、日本アマチュア将棋連盟を設立し初代理事長となっている。

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喫茶店で会話をしただけで恐い男が出てくる美人局は、かなり珍しい。

テレビドラマなどでの美人局は、戦国時代の鉄砲隊の射撃のようにもっと引きつけておいてから恐い男が出てくるのが一般的であり、このケースはかなり短兵急な手口だ。

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小池重明氏への板谷進八段(当時)のアドバイス。板谷進九段が「東海の若大将」と呼ばれていた理由が更に実感できる事例だ。

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大田学さんは最後の真剣師と呼ばれ、性格は温厚で誰からも好かれていた。2007年に92歳で亡くなっている。

1996年度のNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』の「銀じい」は大田さんがモデル。