将棋ジャーナル1985年12月号、小池重明氏の「すべてを告白します(最終回)」より。
逃避行
私が東京から脱出したのは、五十八年九月のことだった。逃げるようにして将棋界から姿を消して行った。
直接の動機となったのは「将棋世界」五十八年十一月号に載った記事のためである。満天下の愛棋家に私の醜態を暴露されてしまった。言い訳する気も起らなかったし、開き直ることも出来なかった。後になって何時も思うことだが、どうしてあのとき踏ん張って残らなかったのか、過去の誤ちは誤ちとして謝罪し、誠心誠意を尽して、その悔悟のしるしを何故キチンと態度でもって示さなかったのか。反省することばかりだが、私の弱さでその時どうしてもそれが出来なかった。
おまけに一時古沢氏に救われて、その義侠心にすがることになったのだが同氏に対して口に出せないような背信行為をしてしまった。同氏には過去ずいぶんお世話になり、それこそ筆舌に尽しがたい恩義を蒙っているのに、それを後足で砂をかけるようにして旅に出てしまった。まことに私という人間は、軽率で軟弱で厚顔な小悪党である。
流れていく確かなあては、どこにもない。
名古屋の実家に暫く身を寄せるが、母が死んだ後、父は後妻をめとっており、何かと居辛い。サラ金からの電話攻勢で実家の電話番号は変っており、父の私に対する信用もゼロに近くなっていた。
家を出ると、無けなしの金を持って競馬場に行った。どうした運命のいたずらか、その日ズバリと大穴を当て、たちまち懐が暖かくなった。しかし、それもわずかの間、不浄の金はアッという間に羽が生えて飛んで行ってしまった。残るはわずか二百十五円。何でもいいから仕事を見つけねばならない。
私は拾ったスポーツ新聞の求人欄に血走った目を走らせた。
土工、一日七千円、寮完備の文字が目に入った。これだ、これならすぐにでも金になる。私は一時間も歩いたろうか、やっとの思いで目的の会社(?)に辿り着いた。家(会社)の構えを見て、一瞬躊躇した。前を通り越して、近くの公園へ。すぐそばに中日球場が見えた。しかし、いくら考えても同じことだ。いい考えが浮かぶはずがない。思い切って面接を受けに行った。荷物は何に一つなく、身につけたヨレヨレの背広、これが全財産だった。
賃金は一日七千円。食事代と寮費を差し引かれると、後は全部酒代に化ける。寮の仲間は全員実によく飲んだ。もっとも酒でも飲まないと、侘び住いの生活はとてもやり切れない。私も皆なと付き合って、酒を飲んだ。来る日も来る日も、働いては酒を飲み、また働いては酒を飲む。これを繰り返しているうちに歳月はどんどん過ぎて行き、さすがにこの生活も嫌になってきた。
休日のある日、テレビを見ていると、偶然将棋対局の時間だった。私は食い入るように画面を見ていたが、いつしかポロポロと涙を流していた。私にとって将棋とは何であったか、また現在何であるのか、私にはよく分らない。しかし、こんな生活を送るようになって、かつてのような充実感、満足感を一度も味わっていないことは確かである。何にかを愛するとか、燃えるとかといった感情を忘れて久しかった。
こんな生活は、生活ではない。
たとえ苦しくても、自分の存在を確認できるような暮らし、自分と向き合い対決することによって喜びを味わえるような仕事、そんな濃密な時間がほしくなった。また、今年六歳になっている筈の娘のことが、しきりに思われた。乳飲児の時に別れて以来逢っていなかったが、娘のことを思うと、ジンと胸に響いてくるものがあった。並みの親らしいことは何にもしてやれなかった自分本位の父だが、決して忘れていた訳ではない。いつも心の奥深く疼いているものがあったのである。
そんな思いが募ったある日、私は一路東京を目指していた。二度と東京の土を踏むこともあるまい、と思ってから二年近くの月日が流れていた。上京してもどこにも顔を出せた義理ではない。辛うじて娘には会えたが「小父さん、小父さん」と可愛い声で言われて、思わず目がつぶれる思いがした。
暫くは誰にも会わないようにしていたが、それでは上京してきた意味がない。思い切って、旧友の宮崎国夫さん(三桂クラブ席主)を訪ね、真情を吐露し、再起への足がかりをお願いした。宮崎さんは快く引き受けて、いろいろと細かく面倒を見てくれた。また、アマ連の関さん、弁護士の谷口亮二先生はじめ、沢山の人たちにお世話になった。とりわけ㈱大志の清水源治社長には温かくも厳しい御指導、御援助を賜った。
私は、私の不祥事にもかかわらず、今一度立ち直るチャンスを与えて下さった、これらの方々の信頼に応え、また多大なご迷惑をおかけした方々への感謝とお詫びのためにも、今後精一杯頑張るつもりである。
そして、その決意のほどを披瀝し、これまでの悪行のお詫びをするために七月初め、債権者の方々へお手紙を差し上げた。早急には借財を整理出来るような情勢にないが、一日も早くキチンと精算してきれいな身体になりたいと、固く心に誓っている毎日である。
将棋界へ復帰できる日(皆さんからお赦しを頂ける日)を夢見ながら、東京の一角でコツコツと地道な努力を積み上げていきたい、そのためには少々の苦しさにへこたれず、一所懸命頑張っていく所存です。
終りに、私如き者のために、貴重な誌面を提供して下さった「将棋ジャーナル」編集部と、長文の駄文を辛抱強く読んで頂いた読者の皆様に感謝しつつ、この稿を終らせて頂きます。
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この将棋ジャーナルの3号にわたる手記は、将棋ジャーナル誌上の読者欄では非難の声も目立ったが、編集部によると同情票と批判票の割合は3対1ぐらいであったという。つまり同情票が75%。
私も同情票に1票だ。
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小池氏が将棋をはじめた時期が遅かったにもかかわらず、なおかついろいろなことがあって若い頃に集中して将棋に打ち込む時間が十分にとれなかったにもかかわらず、このように強かったということは、やはり天才だったのだと思う。
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小池氏がもっと女性にモテなかったら、ここまで大変なことにはならなかったような感じがするが、モテなかったらここまで将棋が強くならなかったかもしれないので、人生は難しい。
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将棋ジャーナルの翌号では小池重明-田中保(GC、アマ名人)戦が企画され、小池重明氏が自戦記を書いている(小池氏の敗戦)。
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団鬼六さんが小池重明氏を支援しはじめるのはこの数年後のこと。