屋敷伸之四段(当時)「将棋の棋譜は書きたくない。けれど何かが書きたかった」

将棋世界1989年11月号、屋敷伸之四段(当時)の第1回富士通杯アマプロトーナメント戦〔対 田尻隆司アマ〕自戦記「完敗のショック」より。

将棋世界同じ号のグラビアより。撮影は炬口勝弘さん。

 書きたくないけど、書く気になってしまった。

 将棋の棋譜は書きたくない。けれど何かが書きたかった。

 みなさんもグラビア等でご存知の通り、この将棋は田尻さんの圧勝、僕の完敗だった。

 やはりショックだった。

 それは9月3日の13時から、16時12分までの短い出来事だったが。

(中略)

変則的な出だし

 何となく変則的な出だしだが、まあ一局だろう。ただ最後の△3三銀では、△3二金で飛先を切らせる順を選ぶべきだった。

 この将棋は9月3日の日曜日にやったもので、結果は✕。

 結局この日に負けて、その週は全く将棋が勝てなかった。全てボロ負けであった。

 次の週は対局がなかった。こんなこと棋士として思ってはいけないのかもしれないけど、対局がなくて良かった。

 指せばまた負けるような気がしたからだ。ただそんな気がしただけ。

(中略)

優秀な右玉

 やはり出たと思った。3手目▲6六歩でこんな展開になると思った。まだ飛車を振ったほうが良かった。

 ここらへんではもう負けるような気がしていた。

 右玉はなかなか優秀だ。右に玉を囲うのは振り飛車か、ひねり飛車だけという規律でも作ったらどうか。

 それにくらべてこちらの変な形。

 日曜日だったし、よっぽど投げてどこかに行ったほうが良かったかもしれない。

 結局負けたのだから。

(中略)

勘とにおいの一手

 将棋の手ではほとんど書くことがない、なぜならこの次の手でほとんど終わってしまったからだ(少なくとも僕はそう思った)。

 結局はその次の手で将棋が決まってしまったのだった。

 田尻さんとの初めての出会いは大船将棋センターだったと思う。今から約1年半ぐらい前だったと思う。

 もちろんその前からいろいろな雑誌を見ていたので知っていた。超有名アマ強豪と会えると緊張もしたし、楽しみでもあった。

 実際は緊張するほどのことはなく、謙虚で柔らかな人だなあという印象を持った。そのあとも、月例会、リコー合宿などでご一緒させてもらった。

 最近のラジオで川村かおりが、「人との出あいは勘とにおいが大切なんだよ」とそんなことを言っていたような気がする。なるほどと思った。

 田尻さんと出あい接しながら、いろいろと勉強になったところが多い。

 その田尻さんに勘とにおいの一手を指されてしまった。

3図以下の指し手
▲5五歩(4図)

しびれた

 軽やかにひょいと突かれしびれてしまった。

 田尻さんらしい一手だった。

 僕はこの手を少し軽く見ていた。けれども、あまりにも厳しいのでいやになった。

 たぶんここで田尻さんはうまそうにたばこを吸っていたにちがいない。

 たばこってこういう時に吸うのがいちばんうまいかもね。

4図以下の指し手
△7五歩▲5四歩△同金▲4八金△5五歩▲5九飛△5一飛▲6五歩(5図)

やめてくれ

 またも手筋、田尻流をくらってしまった。

 やめてくれ、やめてくれと叫んでも、田尻さんには聞こえなかった。

 ここらへんで厳しいですよとチャチャを入れるのが最善だった。

 こちらとしては、金銀2枚が4段目に上ずっているのが最低である。

 美味しくないのである。

 しょうがないので避難訓練じゃないけど避難しておいた。

5図以下の指し手
△3一玉▲5六歩△同歩▲同銀左△6五歩▲5五歩△6四金▲6七金(6図)

明るい家庭

 向こうの金銀は自然に玉に近づき、こちらの金銀は自然に遠ざかり、明るい家庭を築いている田尻さんと、単なる子どもの僕との差が出たかっこうである。

 その差を強引に縮める(むろん金銀の差)勝負手があったのだが……。

6図以下の指し手
△7六歩(7図)

勝負手があった

 ここでは△8五銀と出るのが勝負手だった。狙いは△7六銀のみ。

 これしかなかった。

 本譜△7六歩は相当意味がなくひどかった。 

 悪いうえに意味のない手をやっていてはどうしようもない。

 ここからの田尻さんの3手(僕の手も入っているが)が素晴らしかった。

7図以下の指し手
▲2四歩△同歩▲2三歩(8図)

火の車

 歩をうまく使われて参った。

 まさにこの歩の使い方こそ、さすがは歴代アマ名人七段という感じだ。

 またもここでうまそうにたばこを吸われたと思う。

 こっちの台所は火の車である。

 熱くて熱くてたまらないのである。

8図以下の指し手
△7五金▲5四歩△5二歩▲5五角(9図)

終わってしまった

 香取りが受からない。

 終わってしまった。

 何なんだこの陣形の差は。先手陣の雄大な陣形にくらべて、後手のペシャンコな陣形、加えて金銀のくさり具合は卒倒というほかないだろう。

 以下は粘っただけだし、図面のスペースもないので、指し手だけを記す。

(中略)

敗因etc.

 途中図で最初で最後の王手をかけて、以下は順当に手厚く大差でやられてしまった。

 このあと何枚か余ってしまった。

 何も考えないで書いていくパターンの中で最悪のパターンになってしまった。

 棋譜も最後には駆け足になってしまった。もっとも棋譜はあんまり書きたくなかったので自分はそれでいいが、読者のみなさんには申し訳なかったです。

 この将棋の敗因をいくつか挙げるとすれば山ほど積もるかもしれない。

 単なる言い分けに過ぎないという意見もある(それしかない)。

 まず第一に、特別対局室の上座に座ったこと。一応、実力のない形だけのプロとして、田尻さんに失礼して上座に着いた。しかし50分くらいまえに、将棋会館にいたので早く対局室に入って、いつも通り下座を占めるべきだった。

 上座に着くとき、駒箱を開けるとき、王将を持つとき、それぞれに妙な違和感があった。それが言い分け1。

 他にも気力の充実や勝利への執着心、思いこみ、などなど。

 まあ過ぎてしまったことはしょうがない。

 ところで、どうすれば雑誌の将棋が勝てるようになるのでしょうか。

 今回の富士通杯や、大山先生の指導対局や、近将で言えばアマプロ戦、若獅子戦、どれもこれも全て負け。

 もうこうなったら見せる将棋を研究するしかないのか。ああ、でも無理か…。

 やっとこさっとこ終わりも近づいて来ました。書きたくないような、書きたいような…。

 でも何か書いて反省せねばと思った。

 しかし、題材がない、困ったとなった。

 田尻さんにはいろいろと失礼なことを書いてしまったかもしれませんが、この将棋を勝ったということで許して下さい。

 田尻さん、もし富士通杯で優勝したら何かごちそうして下さい。

 お願いします。

 それにしても僕にとって富士通杯とはなんだったんだろう。

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田尻隆司アマの、それまでの屋敷伸之四段(当時)との対戦成績は田尻さんの2勝8敗だったという。

屋敷四段が田尻アマに初めて敗れたわけではないのだけれども、やはり将棋の内容が屋敷四段にとって非常に不本意で、それもショックにつながっているのだろう。

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この頃の屋敷四段は、感想戦などでとても無口だった。

周囲は年上の棋士ばかりなので、遠慮の気持ちがあって、あまり自分を出していなかったという。

将棋世界1989年11月号、青島たつひこ(鈴木宏彦)さんの「駒ゴマスクランブル」より。

 同じ少年棋士といっても、屋敷は羽生とは違って、おとなしくて外見上は全く目立たない少年である。鋭いとか、天才的とかいうイメージとは、およそ程遠いタイプ。その17歳が竜王を相手に軽く勝ってしまうのだから、かえって恐ろしくもなる。

 感想戦、屋敷はあの高橋八段が負けたときと同じか、それ以上に何を話さないから、必然的にしゃべるのは島一人ということになる。約50分の独演会を終えた島、「屋敷君、何も本当のことを教えてくれないんだから……疲れました」

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そのような屋敷四段がこのような文章を書いたのだから、当時は結構驚かれたのではないだろうか。

心情を赤裸々に吐露している。

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「最近のラジオで川村かおりが、『人との出あいは勘とにおいが大切なんだよ』とそんなことを言っていたような気がする。なるほどと思った」

川村かおり(1998年に川村カオリに改名、2009年に亡くなっている)さんはロック歌手。

1989年4月から1991年6月の間、オールナイトニッポン土曜2部のパーソナリティーを務めていた。

2部なので、午前3時から午前5時までの番組だ。

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屋敷九段が10代、20代の頃に書いた自戦記、エッセイは、ユニークで面白いものばかり。

自戦記は棋譜があまり出てこないのが特徴のうちのひとつ。

屋敷伸之七段(当時)の奇想天外自戦記

屋敷伸之五段(当時)が「笑っていいとも!」を見ているうちに思いついた一手

屋敷伸之六段(当時)の同窓会

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橋本崇載五段(当時)の、天野高志アマに敗れた時の自戦記が、2006年に将棋ペンクラブ大賞一般部門佳作(現在の優秀賞)を受賞している。

アマ強豪に負けた時の棋士の自戦記は、印象的な作品になる傾向がありそうだ。

橋本崇載五段(当時)の将棋ペンクラブ大賞受賞作(前編)

橋本崇載五段(当時)の将棋ペンクラブ大賞受賞作(後編)