行方尚史四段(当時)「思わず唾を飲み込みそうになったのは、すぐそばにあの郷田さんの名があったからなのだ」

近代将棋1995年1月号、行方尚史四段(当時)の自戦記「四段昇段後、初の大一番」より。

近代将棋1993年11月号より。

 待ち望んでいた竜王戦のトーナメント表が僕の手元にやって来たのは、昨年の11月のことだった。なにげなく僕は、自分の名前を見つけ、そして全体を見回したんだけど、思わず唾を飲み込みそうになったのは、すぐそばにあの郷田さんの名があったからなのだ。ああ、僕はこれから郷田さんあたりと戦っていくのだなあと、四段になった実感を噛みしめたのと同時に、前途の多難さも感じとった。10月デビューの新四段は、竜王戦くらいしか楽しみがないから、いくら僕が弱くたって6組優勝はしなくちゃなあと思っていたのに、そんな簡単にはいかないようだ。全く言わなくてもいいことなのに、僕は会う人ごとに、優勝候補同士がベスト8で当たるとは何たる抽選だと、不平を垂れたりしたのだが、もちろん誰も相手にしてくれなかった。

とにかく指したい

 羽生竜王VS佐藤(康)七段における別世界のような、第6期竜王戦七番勝負がクライマックスに差しかかったところで、僕の竜王戦は静かに始まった。1年後には、はるか彼方になんとか、そんな野望じみたことも考えなかったわけでもないけど、とにかくベスト8までは負けたくなかった。郷田さんと戦い、上の人の将棋を、じかに感じとることによって、僕の内面にどんな変化が生まれるか、とても楽しみだったのだ。冷水をかけられることになってもかまわないと、考えていた。

 2回戦の沼五段戦は、ひどい内容で投了寸前まで追い込まれたが、血の気が引きながら粘り続け大逆転勝ち。なんとかベスト8まで漕ぎつけた。

 2回戦が終わってから約2ヵ月間、間隔が空き、他棋戦の対局も少なかったので、僕は楽しみにしていた引っ越しを実行することにした。とはいえ、元手の不足分を友人に借金して間に合わせるという、情けないやり方ではあったが、月収が両手で足りてしまうほど少なかったのでは仕方ない。とにかく、早くどこかに行きたかった。滅茶苦茶ひどいところに住んでいた。小田急線新百合ヶ丘駅下車徒歩45分、または柿生駅下車25分。トラックの轟音と立ち上る砂埃とまとわりつく蜘蛛の巣と共に暮らしていた。すさんだ空気が漂っていて、たまらなく部屋に帰るのが嫌だった。2月の大雪の日に、抜け出て、汚いながらも落ち着いた今の部屋の風呂につかったりしているうちに、新たに確かな力が湧いてきたような気がする。ただ、あの大雪の中、手伝いにきてくれた勝又環君、荷物と僕を運んでくれた小河さんはもう奨励会にはいないのだ。こたつのない部屋で震えながら、ただただ僕は月日の流れを感じ、目を閉じる。

3月4日 対局当日

 例によって僕は、定刻の10時ギリギリに対局室に入った。郷田さんは、すでに着座していて、窓からこぼれる朝のやさしい光の中、瞑想していた。そのキリリと引き締まった姿に、僕も背筋が伸びる思いだった。振り駒で僕が先手番になる。5分考えて、▲7六歩と突いた。気を鎮めていたのか、郷田さんも2手目をなかなか下さなかった。▲6八銀で僕は矢倉の意志表示をした。

 僕は矢倉という戦法が完璧だとは全く思わないが、着なれたシャツという感覚でとりあえず肌に合うのだ。いずれ好みも変わってゆくのだろうけど。

 郷田さんの先手矢倉対策は、急戦が多い。「郷田流」とも言える。

(中略)

昼食時のささいな出来事

 作戦負けは免れそうだし、いい気分でやはり対局中の藤井猛四段(当時)と食事に出掛けたのだが、その際入った店で散々な目にあった。ランチを注文したのだが、30分以上待っても来ず何度か催促しても「今作ってます」と店員は無愛想に返事するばかりでラチがあかず、こちらはイライラするばかり。しまいには、「お客さん、そんなもん注文されてましたっけ?」と高飛車な態度で言い放たれ、僕も空腹も手伝って頭が切れそうになってしまったんだけど、対局中だしここは抑えようと思い我慢した。こうゆう時に、バンとテーブルをひっくり返せるような男にも、僕はあこがれるのだが。ただ、勘定だけはしっかり取られてしまったのでさすがの僕も「こんな店、二度と来るか!」くらいは、弱々しくも吐き捨てたかも知れない。

 再開後も郷田さんは44分考え、昼休前と合わせて76分の長考で、△5五歩と突いてきた。郷田さんらしい独創的な一着だ。僕も長考のお返しをして、▲5五同歩と取った。このあたりは様々な変化が考えられ、どれも難しい。

(中略)

 △6三金とあらかじめ攻めを緩和したところで夕食休憩。郷田さんは、もう残り41分しかない。僕の次の手は、ノータイムでも指せたが、夕休をはさんで完璧に読み切ってやろうと思った。

勝手読み

 今度は気分良く食事をとった。若干あった憂いも解決し、再開後すぐに▲7五歩(1図)と突っかけた。この将棋は、郷田さんの攻め駒を逆にこちらから責めたてる、というのが一つのポイントになっている。

 郷田さんは予期していたのか、残り40分の声を聞くとすぐに、△5四金と打ってきた。驚いた。読み筋をすかされた。僕は△8六歩▲同歩△5四金▲7四歩△8五桂の筋ばかり読んでいたのだ(この変化は先手良し)。

 △5四金打は、▲2五飛と浮いて簡単に受かると思っているから、軽視していたのだ。ところがよく考えてみると以下△8六歩▲同歩△5六歩▲7四歩△同金▲6三銀△7六歩で、▲2五飛がボケてしまうし全然駄目だ。何て甘い読みだったのだろうと、1時間以上悶々としているうちに残り1時間が告げられ、見通しが立たないのに困ったものだと思った。改めて冷静に局面を眺めてみても、やはり大変な局面である。大局観が誤っていたのか、どうしても勢いを重視して判断してしまうからだと、思いながら読み直して▲2四歩と合わせた。

(中略)

 一時は100分近く離れていた消費時間もいつのまにか逆転してしまい、流れは悪いが夜の闇の中で白熱した終盤が戦えて、なんだか気分は悪くなかった。

現在の僕との関連

 △5六歩(2図)が緩かった。△8八歩を効かされると困っていた。

 ▲8八同銀ならそこで△5六歩、▲8八同金は△5六金とすりこまれてしまう。ここが最大の山場だった。

 本譜は▲7九玉と寄る余裕が出来て、面白くなったと思った。

(中略)

 一歩が明暗を分けることなど、プロ間では当たり前のことなので、とりたてて強調する程でもないが、その度に将棋の難しさを痛感するのだ。

 本譜の△7五角は意表の勝負手だったが、△4八角成とされても、先手玉は一手スキにならないので、▲6四歩から▲7三歩成で落ち着いて大きな拠点を作り、狙いすました▲6六桂(3図)できれいに決まった。

 この一局のみで僕の評価が定まるものでもないし、内容的にも、粗さが気になる点がありそんなに満足はしていない。

 ただ、大きな存在と向かい合い、その時の自分をきちんと表現して、勝利を得たという意味においては、今の自分の礎となった一局だったと思っている。

将棋世界1993年11月号より、撮影は炬口勝弘さん。

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「自分の名前を見つけ、そして全体を見回したんだけど、思わず唾を飲み込みそうになったのは、すぐそばにあの郷田さんの名があったからなのだ」

竜王戦6組。行方尚史四段(当時)は2回勝てば、郷田真隆五段(当時)と当たるトーナメント表だった。

それほど郷田五段が光り輝いていたということになる。

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「いくら僕が弱くたって6組優勝はしなくちゃなあと思っていたのに、そんな簡単にはいかないようだ。全く言わなくてもいいことなのに、僕は会う人ごとに、優勝候補同士がベスト8で当たるとは何たる抽選だと、不平を垂れたりしたのだが、もちろん誰も相手にしてくれなかった」

この期、行方四段は6組で優勝して、更には決勝トーナメントでも勝ち進み、羽生善治五冠(当時)との挑戦者決定三番勝負まで進む。

有言実行を絵に描いたような展開だ。

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「とにかく、早くどこかに行きたかった。滅茶苦茶ひどいところに住んでいた」

行方四段は、川崎市麻生区から東京23区内へ引っ越している。

「ただ、あの大雪の中、手伝いにきてくれた勝又環君、荷物と僕を運んでくれた小河さんはもう奨励会にはいないのだ」と「こたつのない部屋で震えながら、ただただ僕は月日の流れを感じ、目を閉じる」は、酔っ払った時に読んだら、涙が自然と流れてきそう。

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「僕は矢倉という戦法が完璧だとは全く思わないが、着なれたシャツという感覚でとりあえず肌に合うのだ。いずれ好みも変わってゆくのだろうけど」

このような言葉の時に最も似合うのが矢倉だと思う。

振り飛車党ならもっと盲目的な愛の表現になるのではないだろうか。

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「作戦負けは免れそうだし、いい気分でやはり対局中の藤井猛四段(当時)と食事に出掛けたのだが、その際入った店で散々な目にあった」

この店は、今はなくなっているようだ。

行方九段と藤井猛九段は仲が良く、若い頃は、対局日が同じ日になると、一緒に昼食に行く機会も多かった。

仲の良い二人

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「郷田さんと戦い、上の人の将棋を、じかに感じとることによって、僕の内面にどんな変化が生まれるか、とても楽しみだったのだ。冷水をかけられることになってもかまわないと、考えていた」

「一時は100分近く離れていた消費時間もいつのまにか逆転してしまい、流れは悪いが夜の闇の中で白熱した終盤が戦えて、なんだか気分は悪くなかった」

行方四段の将棋に対する真摯な姿勢が表れている。

とても清々しい気持ちにさせてくれる。

郷田-行方戦は、この後も、お互いの良さを引き出し合うような戦いが続いている。

行方尚史五段(当時)「郷田将棋の真っ直ぐさが僕のいいところを引き出してくれたのだろう」