将棋世界1989年12月号、炬口勝弘さんの「棋士の女房・お袋さん 加藤冨美さん(加藤治郎名誉九段夫人)」より。
「生まれ変わっても、加藤の妻がいい」と言う。「たとえ将棋指しでなくっても、加藤の妻になりたい」と言う。
加藤治郎名誉九段の冨美夫人―。九段とは幼なじみで、20歳のとき、相思相愛で結ばれた。それから50余年。幸せいっぱい、人もうらやむ仲睦まじさである。東京は神宮前の自宅を訪ねて話を伺った。
「二人とも芝生まれで、赤坂、渋谷と、一度も山手線の外に出たことがないんですよ。ここも、引っ越してきた当時は閑静なものでしたが、今は婦人服メーカーなんかがやたら増えて、車もひっきりなしに入ってくるようになったんです」
と治郎先生。
現在79歳。来年には自ら命名した盤寿(将棋盤の81の枡目にちなんだ年祝い)を迎えるというのに、頭も体もカクシャクとして衰えを知らない。
6歳年下の夫人も、また負けず劣らずカクシャクとしている。明るく朗らかである。天真爛漫、笑い声が絶えない。ご両人とも人が好き、話が好きときて、当方はただ耳を傾けるだけで半日もお邪魔してしまった。
幼なじみ
「小さいころから、主人とは同じ小学校、芝の飯倉小でしたし、主人の二人の姪とはお友達だったので、毎日のように行ったり来たりしてたんです。兄妹みたいでした。6つ違い。勉強がわからないとよく教えて貰いました。小学校のときは算数、女学校時代は英語なんかを。母は主人を人間的に見込んでいて、最初から私を加藤の嫁にと決めていたみたい。大学も出ているし、将棋が駄目になっても、なんとか食べて行けるんじゃないか、母はそう思ったんでしょうね」
女学校卒業後は、仕立屋で2,3年働いた。夫となる人が着物を着る商売だから、羽織や袴が縫えるように、という母の考えに従って。花嫁修業であった。
結婚式は、昭和11年の暮れ。芝浦の料亭でだった。新郎にプロ入りを薦めた棋界の後援者・中島富治氏をはじめ、関根・木村の両名人、花田長太郎九段、師匠の山本樟郎八段らそうそうたる列席者の下で挙げられた。
学士棋士第一号の新郎(26歳)は、順調に昇段して当時五段。期待の新進棋士であった。新婚生活のスタートは、しかし順風満帆とはいかなかった。その年の五段の成績は、惨憺たるものだった。2勝10敗。全棋士中、どん底に近かった。負ければ対局がない。棋戦が少なく、給料も安い時代だった。八段になれば300円貰えるが、八段ははるか彼方。五段では45円だった。家賃を払えば、ほとんど給料が消えてしまう。
「あの時はやはりつらかったですね。主人が勝ったかどうか、それは帰ってくる下駄の音で分かるんです。主人の母親代わりだった義姉(治郎九段は、父親は生後21日目に亡くし、母親は出産後、婚家を出され、10年後死去している)には、<ウチにいるときは強くって勝ってたのに、お前と一緒になってから負けるようになった>となじられるし。どうして勝たせるか、ったって私には何もできない。美味しいものを食べさせるとか、そういうことじゃないですからね。よく涙を流しながら実家へ帰りました」
結婚して2年目の晩秋、第一子の長女が生まれた。しかし夫人は産後の肥立ちが悪く、翌年の早春には、精神的な悩みも加わり完全な神経衰弱に罹ってついに入院するハメになってしまった。
ところが不思議なことに、その頃から主人は勝ち始め、長かったスランプを抜けて、六段に昇段した。負けて帰っても、夫人の悲しそうな顔を見なくても済むという気楽さがいい方に作用したのであった。
「嬉しかったですね。昇段ではいちばん嬉しかったわ。八段になったときは終戦まぎわのドサクサで、それどころではなかったけれど……」
生活は相変わらず貧しかった。明日食べる米の心配が絶えなかった。あてにしていた稽古先の月謝が入らず困り果てたこともあった。その代わり、思わぬ好意に大感激することも……。
「私は生来のんびりしてて、どっか抜けてるのね。今の若い人のように計算づくというのはなかった。私、自分の両親だって、二人が亡くなった後まで、主人に教えてもらうまで、本当の親だと思ってたぐらいだから。ノンキなんです。でも、やはりその頃は、お友達に道で会いそうになると、よく途中で隠れたものでした。私のお友達のご主人は、みんなお勤めで、わりあい良い所にお嫁に行ってるから、やはり恥ずかしかったんですね。女学校のクラス会なんかも当時は出なかったんです」
戦中戦後の苦労話も聞いた。昭和20年3月の東京大空襲では、一家は新潟に疎開した。後輩の清野静男八段(故人)の家を頼って―。そして5月、加藤八段にも召集令状がきた。横須賀海兵団に入団。秋に東京に戻るまでは夫人と長女は弟子の原田九段の実家にお世話になった。
「田舎では、ずいぶん着物を、何十枚も米と取り換えました。錦紗とか銘仙とか……。終戦直後も、やはり食べるものがないから、長男の手を引いて、着物を売って歩きました。上野の闇市へ行って、結婚したとき持ってきたツヅレの帯とかコートか、いいものばかり売って食糧に換えたものでした」
将棋稽古所
焦土と化した東京では、みんながなりふりかまわず、生きていくだけで精一杯だった。加藤家も例外ではなかった。
ただ、幸いなことに住まいだけは恵まれた。夫人の実家の家作で焼け残った三田に居を定めることができたのだったから。対局はまだ始まらなかった。連盟復興以前―。玄関先に〔将棋稽古所〕と書いた看板を出したのもその頃だった。棋士になって初めてという。
「そうそう、私が子供をオンブしてね、三田の慶応大学の前のね、電柱なんかに貼り紙して歩いたんです。そしたら慶応の学生や先生、それに大学前の寿司屋の旦那さんとかが来てくれて……」
あちこちから盤を一面二面と借りてきての道場開きだったが、結構繁盛した。みんな貧しくても娯楽に飢えていて、活字に飢えていた時代。編集長をしていた「将棋世界」誌も積み重ねて売った。
「でも三人目の子の象三が死んでしまって。生後40幾日でした。まだペニシリンもなく、無熱肺炎でね。ミカン箱に入れて葬りました。中にちっちゃいビリケンちゃん(セルロイドの人形)とお芋で作った菓子を入れて。ふかした芋を布巾で絞って作るんです。ところが物がない時代ですから、上の子が欲しがって盗みにくるんです」
ちなみに、主人のペンネーム・三象子は、死んだ子の名をひっくり返してつけたもの。昭和23年、末っ子は、すぐまた産声をあげる。ところが母体が弱っていたせいで、夫人は病に倒れ再び入院してしまった。
「あのときほど保険がうらやましかったことなかったです。大部屋にいても入院費が高くついてしまって。今は棋士も恵まれて年金がおりるようになりましたが、当時は大変でした。昔は棋士寿命も40に入ると下り坂、勝てなくなる。収入は減る。ところが、その頃が子育てなどでいちばん支出が多い。主人が連盟の会長時代には、いろんな人の出入りがありました。夫婦喧嘩で血だらけになってくる奥さんがいたり、逆に風呂敷包みを下げ、子供を連れてきて養子にしてやってくれ、よろしくなんて棋士がきたり。そんなことから私、棋士夫人の集いを持とうとしたことがあって、出欠の葉書を出すまでになったんですが、反対があってダメになりまして……。スター棋士は、他の棋士を食べさせてやっているという意識が強く、そんな感情が自ずと夫人の方にもあってね……」
すっかり出しゃばり女に思われてしまった。主人が自ら言うように永遠の書生っぽなら、夫人は明朗活発な永遠の女学生。そしてともにさっぱりとした江戸っ子。スマートな都会人だ。
ところが会長時代、玄関先のポストに悪口を書いた手紙がいっぱい放り込まれたことがあったという。また朝日新聞の観戦記を書いていたときには、シットやネタミから、ひどい投書が新聞社に届き、夫人も悔し涙を流したこともあった。
昭和24年、主人は現役を引退した。早すぎる引退だったが、以後40年、「将棋は歩から」の上梓をはじめとして著述、観戦記にと健筆をふるい、また連盟会長を務めるなど、普及面で大いに活躍してきた。その面ではいまだ現役だ。
二人で船旅
3年前、昭和61年には金婚式を迎え、夫妻は出雲大社にお礼参りに立ち寄り、沖縄往復の旅も楽しんだ。
4人の子育ても終わって、今は9人の孫にも恵まれ(うち二人はアメリカ在住)、長男夫妻と一つ屋根の下に暮らしている。
後進の育成も終わった。最初の内弟子・原田泰夫九段以下、ひ孫弟子の中田宏樹五段まで、加藤一門は、合わせて七十何段という大部屋を誇る。
貧しさの中で、しかし精一杯人の世話をしてきた夫妻。学生将棋をはじめとして、面倒を見てきた(ライスカレーを20人前つくったり、布団がないので、蚊帳や掛け軸を夜具代わりに何十人も泊めたこともあった……)人たちが、今、そうそうたる社会人になっている。
悠々自適―目下老春を謳歌中の二人。今春には豪華客船、ふじ丸の処女航海で、香港、台湾に遊んだ。
世話好き、話し好きの冨美夫人も忙しい。町内会の集い、小学校、女学校の同窓会、小学校5年から始めている長唄、そしておトーキュウ(陶宮。天源学から出た開運の修行。江戸時代から商人の間に広まる。女優の富司純子さんも信者とか)の会。
「やさしくって純粋。年とってる割には進歩的でフェミニストなんです、お父さんは」
生まれ変わっても―というセリフ。納得できた。
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「生まれ変わっても、加藤の妻がいい。たとえ将棋指しでなくっても、加藤の妻になりたい」
これは冥利に尽きる言葉。
金婚式を過ぎてからの言葉だから、より一層、重みがある。
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「八段になれば300円貰えるが、八段ははるか彼方。五段では45円だった」
昭和10年の大卒初任給(銀行)が73円というデータがあり、一概に比較はできないが、現在の大卒初任給が約20万円なので、昭和10年前後の45円は現在の約12万円という計算になる。(300円は現在の約82万円)
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「主人が連盟の会長時代には、いろんな人の出入りがありました。夫婦喧嘩で血だらけになってくる奥さんがいたり、逆に風呂敷包みを下げ、子供を連れてきて養子にしてやってくれ、よろしくなんて棋士がきたり」
加藤治郎名誉九段が連盟会長を務めていたのは、 1957年3月~1961年5月と1973年5月~1974年7月。
このようなことがあったのは、1957年~1961年なのだろうが、痛ましい話だ。
将棋界が楽ではなかった時代のこと。
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ペンネーム・三象子の話も切ない。
「中にちっちゃいビリケンちゃん(セルロイドの人形)とお芋で作った菓子を入れて」
おもちゃで遊んだりお菓子を食べたりすることなく亡くなったのだから、考えただけでも辛くなる。
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ビリケンは通天閣で有名だが、発祥の地はアメリカ。
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このインタビューの少し後の頃から、戌年生まれの棋士による「戌年の会」が始まっている。
年に一度、渋谷区のうなぎ屋に集まる会で、羽生世代の棋士も参加していた。
実質的には加藤治郎名誉九段を囲む会で、若手棋士からも加藤治郎名誉九段は慕われていた。
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加藤治郎名誉九段は、1996年、86歳で亡くなっている。