髪の毛をツンツンと触られた丸山忠久四段(当時)

将棋世界1991年9月号、鹿野圭生女流1級(当時)の第3回富士通オープン将棋トーナメント観戦記「今年もアマプロ戦が面白い」より。

 勝った丸山プロはいつもと変わらず、ひょうひょうとした態度。終局後、しばらくして、散髪したてのモンチッチみたいな髪を、林葉直子姫と二人で、ツンツンと触ると、初めて笑ってくれた。「かわいいー」と言うとまた照れくさそうに笑っている。これがさっきまでの対局中と同じ顔とは思えないぐらいの変わり方だった。(笑うと八重歯がかわいいんだ。これが)。

(以下略)

将棋世界同じ号、当日の丸山忠久四段(当時)。撮影は河井邦彦さん。

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モンチッチの写真をあらためて見てみると、たしかにこの時の丸山忠久四段(当時)の髪型にはそのような雰囲気があるかもしれない。

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それにしても、突然、二人から同時に髪の毛に触れられては、丸山四段もかなりビックリしたことだろう。

うらやましい状況ではあるが。

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1999年にも、碓井(現・千葉)涼子女流初段(当時)と矢内理絵子女流三段(当時)が丸山九段を絶賛している。

やはり、うらやましい状況だ。

丸山忠久五段(当時)「◯◯さん1年分」

 

先崎学五段(当時)「とにかく、森下の視線は、不自然なほど、盤上に釘づけになっていた。いい物を見た、と思った」

将棋世界1991年5月号、先崎学五段(当時)のC級1組最終局レポート「森下、最難関を突破!!」より。

ラス前が終わった段階で、昇級の可能性があるのは、森下卓六段(3位)、神谷広志六段(5位)、所司和晴五段(8位)で、ともに8勝1敗の戦績。


 3月の15日、つまり最終局の4日前に僕は佐藤大五郎八段と棋王戦を戦った。神谷さん曰く、「君の棋王戦と俺の順位戦じゃ100倍以上価値が違う。俺は居飛車穴熊をやるから君は穴熊にしないでくれ」―というわけで男の約束ができていた。ああ、我忘却を恥とする。盤の前に座ると約束を忘れて穴熊にしてしまった。▲9九玉と入った後に気づいたが、まさか入った玉を出るわけにはいかない。

 この時期、どうしたって将棋会館はナーバスになる。囁き声が多くなる。「誰々先生の3勝は……」

 9回戦の日のこと。夜、神谷、室岡の両氏と焼き肉をつついた。話は必然的に星勘定になる。「1敗が3人か―まあ神谷さんは勝つとして―」ここまで喋ったところで、物凄いいきおいで神谷さんのグローブのような手が伸びてきた。室岡さんが黙って指をさす。その先には安恵、剱持の両先生と一緒にビールを飲む佐藤(大)八段の姿が。ああ、我軽率を恥とする。気まずい沈黙が流れる。

(中略)

 朝の対局室は人の存在感が希薄である。空気がつめたいが、唯一『特別対局室』だけは前日の棋王戦第4局の熱い空気がたたずんでいるように感じられた。

 ぞくぞくと今日の主役たちが入ってくる。神谷「お主穴熊をやったな」知るかい何とでも言ってくれ。森下さんはいつも通り明るく「あっ先崎さん」「どうも」、普段ならばこの後に二、三言会話が成立するがさっと対局室に入った。所司は無言。これはいつも通り。

 昼休前は雑談に花がさく。佐藤大「こういう一番はやりにくいね。ところで君NHK優勝したんだってね。君の賞金と僕が3年かかってためた定期預金の額が同じだよ。月に15,000円の利子がついてね、それで味噌と醤油を買って生活しているんだ」(もちろん嘘)これに河口が「宮沢賢治みたいだ」とまぜっ返し大笑いになった。

(中略)

 3時25分 神谷-佐藤大戦が終わった。54歳の佐藤にいじめてやろうという気はなかったようである。1図は終局直前の局面。神谷は席を外していた。記録が指したことを告げに行っている。席につくと神谷はすぐに▲4三銀。決め手だ。佐藤はノータイム(10秒くらい)で△4七歩と打つ。これに神谷が一瞥をくれて▲3八飛と返したところで突然佐藤の大声が対局室の空気を変えた。「うまく寄せられたね。振り飛車をやるんだった。矢倉にしたのが敗因だったね。これで来年はB2か。おめでとう。本当におめでとう」神谷は黙ってうつむいている。

 僕は森下を見ていた。森下は佐藤-神谷戦を見据える位置で指している。さすれば、その瞬間、表情に、しぐさに、何かの変化があらわれるはずである。

 だが森下の視線は上を向くことがなかった。わざと、意地でそうしているかのようだった。僕は強い情念を感じた。もちろん気にならないはずがない。しかしちょっとでも気にするそぶりを見せることは明らかに不利だろう。僕は森下の無視は、彼一流の計算と強い意志の力だと認識している。とにかく、森下の視線は、不自然なほど、盤上に釘づけになっていた。いい物を見た、と思った。

 その森下-伊藤果戦は2図、3時27分、伊藤が千日手模様から決然と仕掛けた。はっきりいってこの局面は後手がいい。というか勝ちやすい。プロなら誰でもそう思う。が、だからといって勝ち切るのは容易ではない。本局の森下は強かった。伊藤にチャンスらしいチャンスを一度も与えることなく、その冷静、ときとして非情ともいえる指し口には、みなぎる自信と明確な技術が感じられた。

(中略)

 6時10分 夕食休憩に入った。戦士は、記者室で出前のそばや寿司を食べる(外に出る人もいる)。森下は山菜そばを食べながら「先崎さんもつつがなきや……」???意味不明のことをいい出す。軽い興奮状態にあるようだ。

 皆、黙って食べて黙って出て行く。森下は、最近の棋譜を見ながら食べている。強くなる人はちがう。

(中略)

 6時40分 森下は4階入り口にあるカウンターの所で『少年ジャンプ』を読んでいる。僕の方を向いてニッコリ笑い、「日出ずる所の天子日沈む所の天子に申す。つつがなきや。わかります?」そんなこといわれても困ります。どうもこの頃鈴木輝彦さんのようになってきた。付け焼刃ははげやすいデスゾ。

 そのとなりでは森下と仲の良い日浦が「あと10連勝で竜王か。たいしたことないな」などといっている。そうこうしているうちに7時。これより夜戦。

 7時00分 2階の道場に行くと、入り口のそばにあるソファーに屋敷がちょこんと座っている。とても棋の聖にはみえない。はっきりいって、存在感ゼロ。

 所司が苦戦という評判である。どうも室岡の研究範囲にすっぽり嵌ったようで、「佐藤康光君と詰みまで研究してあるんじゃないか」などという無責任な声も聞こえる。

(中略)

10時20分 森下が勝ち昇級を決めた。森下も伊藤もいつも通り淡々と感想をすすめる。まるで消化試合のようだった。本局には順位戦特有の陰鬱とした脂っ濃い空気が感じられなかった。最初の第一手から事後確認をしているようで、これは森下の寝業に強みを発揮する特異な棋風によるところが大きいが、やはり森下の充実と地力ばかりが目立った。

 伊藤-森下戦の感想戦を見ながら、僕は去年のことを想い出していた。森下は、1年前の3月、親友の羽生に敗れ、昇級をのがした。羽生は9連勝を決めており、全くの消化試合にもかかわらず、非情に森下を負かした。感想戦での沈みつづける森下の肩が忘れられない。土佐-室岡戦の結果をたしかめたときの「そうかそうか」という大声も。3日後、森下と二人で、東中野の『さくら亭』で酒を飲んだ。酒を変えそして店を変え、延々5時間余、二人で話した。たいがいは森下が一人で喋りまくっていた。

 ……負けたことは仕方がない。これは仕方がないんです。でも彼は3手目に▲5六歩を突いてきた。振り飛車できたんだ。矢倉で来てほしかった……。負かすならば矢倉か角換わりで正々堂々と負かしてほしかった。負けてくれるとは思っていなかったし勝てると思っていたよ。でも飛車を振ってくるとは夢にも思わなかった。なめています。矢倉できてほしかった……。

 森下は、羽生に振り飛車で負かされたのが相当にショックのようであった。▲5六歩と突いてくるんですよ―この単語を何度くり返しただろう。僕は森下と親しく付き合って8年、はじめて狂気を感じた。なにか、底知れぬ強い意志の源流を持っているなと思った。

 決して森下は盤に向かってさえも純粋無垢の好青年ではない。強い意志と情念が造り上げた、人間味溢れる将棋指しそのものである。そして我々後輩に対しては面倒見の良い兄ィである。森下は、最近は女の子の話をよくするようになった。なにかがふっきれたようだ。さらなる飛躍を期待してやまない。

(以下略)

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森下卓六段(当時)。将棋マガジン1991年2月号、撮影は中野英伴さん。

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順位戦、2月から3月にかけては、このような胃が痛むような対局室の光景が増えてくる。

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「うまく寄せられたね。振り飛車をやるんだった。矢倉にしたのが敗因だったね。これで来年はB2か。おめでとう。本当におめでとう」

コテコテの個性派の佐藤大五郎九段だが、このような爽やかな温かさも兼ね備えていた。

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「伊藤-森下戦の感想戦を見ながら、僕は去年のことを想い出していた。森下は、1年前の3月、親友の羽生に敗れ、昇級をのがした。羽生は9連勝を決めており、全くの消化試合にもかかわらず、非情に森下を負かした。感想戦での沈みつづける森下の肩が忘れられない」

この時の様子も、先崎学五段(当時)が書いている。

血涙の一局

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「日出ずる所の天子日沈む所の天子に申す。つつがなきや。わかります?」

聖徳太子が書いた文章が出てくる理由は、本当にわからない。

『少年ジャンプ』との関連性もわからない。

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「2階の道場に行くと、入り口のそばにあるソファーに屋敷がちょこんと座っている。とても棋の聖にはみえない。はっきりいって、存在感ゼロ」

忍者流と呼ばれていた屋敷伸之棋聖(当時)。

まさに忍者のごとく気配を消していたと考えることもできる。

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先崎五段は森下卓六段(当時)に、この3ヵ月ほど前にインタビューをしている。

この内容も面白い。

先崎学五段(当時)「好青年の仮面を剥ぐ」

 

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 佐藤康光五段の巻」

将棋世界1991年7月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 佐藤康光五段の巻」

将棋世界同じ号より。

―将棋を始めたのはいつ頃からでしょうか。

「小学校の1年生の時でした。クラスで5、6人将棋を指す友達がいたので、おそらくその友達に教えてもらったのだと思います。夏がくる頃にはいつの間にか一緒に指していました」

―学校でいうと、休み時間に指していたんですね。

「いえ、休み時間は外で遊んでましたから(笑)」

―と、いうことは、まさか授業中ですか。

「はい、実はそうなんです」

―若手棋士の皆さんは総じて礼儀正しいし、中でも佐藤五段はその筆頭という評判ですから、これには驚きですね。ところで、授業中に将棋を指すといっても、将棋盤はけっこう大きいですし、木の盤駒では音も立ちますよね。そのあたりはどうやってクリアしたのでしょうか。

「木の盤駒は一切使わず、ノートにボールペンで将棋盤を書いて、駒は鉛筆で書いては消すというやり方です」

―なるほど、それなら目立たないし音も立ちません。ただ、この手筋は本誌の読者にまねしてもらっては困りますね。

「勿論です(笑)」

―将棋の本は読んだりしましたか。

「まだ、その頃は本を読むということはなかったですね」

―では、定跡などは知らずに指していたのですか。

「はい、1年生の頃、流行していた戦法は、まず▲5八飛と飛車を真ん中に持って行って、そこから▲4八銀~▲6八銀と両側の銀を上がるんです。みんなその形が一番固いと思っていて、後手の方も全く同じように組んで(1図参照)将棋はここから始まるという感じでした」

―なるほど、その形なら王様の回りには金銀が密集していて固そうですね。なにしろ王手がかかりにくいですものね。しかも、真ん中の歩を突いていけば攻撃力もありそうです。ただ、これも、先ほどのボールペンの将棋盤ではありませんが、読者の皆さんはあまりまねをなさらない方が良さそうですね。

「そうですね(笑)。まだこの頃は、本を読んで定跡を覚えるというレベルではなかったですね。そういうことを知るようになったのは、2年生から3年生にかけての頃からです」

―覚え立ての頃、お父さんとは将棋を指したりしましたか。

「はい、初めの頃は日曜日とかにときどき指していました。父の棋力は今から思うと5級くらいだったと思います。ですからそんなに強くないというか全然弱いんですけど最初はなかなか勝てませんでした」

―やっつけられてばかりだと、いやになりませんでしたか。

「それが、たまに緩めてくれていたみたいで……(笑)。なんかわざと勝たせてくれているみたいだなというのが子ども心にもわかりましたから」

―それは、本当に良いお父さんでしたね。そのご努力がなかったら、今の佐藤五段はなかったかもしれませんものね。

「本当に勝てるようになったのはだいぶ後で、3年生くらいになった頃からでした」

―将棋の道場などには行きませんでしたか。

「2年生の頃からだったと思いますが、近所に将棋の支部の同好会があって、そこに行っていました。その少し前に、父に公民館でやっていた将棋スクールに連れて行ってもらいまして、そこで将棋の支部道場のことを知りました」

―道場にはどれくらい行きましたか。

「そこは月2回しか開いていませんでしたので、それ以上は行けませんでした。そこの支部長の小牧先生に駒落ちで教えてもらっていました。小牧先生は四、五段の実力者でした」

―初めは何級からでしたか。

「それが、どうもその頃の記憶はあやふやなんです。たしか9級からだったと思います。師匠の道場に行きだしてからのことは比較的よく覚えているんですが」

―師匠というと田中魁秀八段ですね。佐藤さんは今は東京に住んでますけど、その頃は京都にいたんでしたね。

「はい。師匠の所に行くようになったのは4年生の頃からです。そこにはボクと同じくらいの歳の子どもが何人も来ていて、みんなでワイワイ言いながら道場に通っていました」

―同年代のライバルがたくさんいるというのは良い刺激になったでしょう。

「特に意識はしてなかったと思いますが、やっぱり競争意識というのはあるでしょうから励みにはなったでしょうね。ただその頃は一緒に将棋を指す仲間がいるということの方が嬉しかったんじゃないかと思います」

―その頃の棋力は?

「当時、道場では、指した将棋の棋譜をつけるのがはやってまして、今でもそれが手元に残っていましたので見てみたら4級でやってましたね。師匠と指した二枚落ちの寄付もあります」

―4級で師匠と二枚落ちでは、下手が相当に辛そうな手合いですね。

「ええ、全然かないませんでした(笑)。勝てるようになったのは初段になる頃からでした」

―4級の頃はどんな将棋を指していましたか。

「原田先生の小学館から出た本で、子ども用の入門書があるんですが、それを読んで中にあった石田流の形が好きになりましてよく指しました」

―石田流というと急戦のものではなくて石田流本組と呼ばれているあの形ですね。(2図参照)

「そうです。ですから、その形に組むために振り飛車をよく指してましたね」

―石田流本組は、攻めの飛角銀桂と守りの金銀3枚のバランスがとれた、一つの理想形と言われている駒組ですね。

「それと、ひねり飛車もよくやりました。あれも石田流の形に導けますから」

―なるほど、出だしは相掛かりの居飛車調ですが、浮き飛車の構えから飛車をひねって、石田流の形になります。

「それでヒドイことやった記憶があるんですよ。一度▲9六歩を突かずに先に▲7七桂と跳ねちゃいまして……(3図参照)。もちろん△8七歩で角が死んじゃいます。思わず待ったをさせてもらいました(笑)」

―ああ、それならひねり飛車をやった人ならたいてい身に覚えがあるんじゃないでしょうか。かかく言う私も全く同じことをしでかした記憶があります(笑)。読者の皆さんには気を付けていただかないといけませんね。

「まだあるんですよ。今度はひねり飛車とは反対側の方を持った時、相手が▲7七桂を跳ねずに▲9七角(4図参照)とやって来てくれたことがあるんです」

―なるほど、△8九飛成で桂をいただきながら飛車が成り込めますね。

「ところが▲9七角に対しては△8九飛成と成ってはだめ、という先入観があって、その時はたしか成らずにそのまま普通に指してしまいました(笑)。▲7七桂と跳ねてある形なら△8九飛成と成るのは、▲8八角と蓋されてまずいのですが、4図のようにただで桂が取れるのなら断然後手よしなのは言うまでもありません。具体的には4図以下、△8九飛成▲8八角には△3二金と角をぶつけられるくらいで先手は収拾が困難です」

―佐藤五段でも初級者のころは、とんでもないことをしていたんですね(笑)。

(中略)

―昇級のペースはどうでしたか。

「道場で、約半年間に1期の割でリーグ戦をやっていまして、そのリーグ戦での成績が良いものが昇級というルールでした。4年生の4月から49月にかけてのリーグ戦で2位になって3級に上がり、翌年の1月に3位で2級、5年生の初め頃に優勝して初段になりました」

―リーグ戦は全部で何人くらい入っていましたか。

「ボク達、級位者のリーグは25人くらいでした」

―ずいぶん多人数ですね。その中で常に上位を占めていたというのは流石ですね。

「いえ、全員が全試合消化するわけではありませんでしたから。勝率よりも勝ち星数がものを言うので、よく出てくる者が有利ということもありました」

―そのころ得意にしていた戦法は何でしたか。

「やはり石田流が好きということで、振り飛車が多かったです。相居飛車や相振り飛車はほとんど指さずに、相手が振り飛車でくればこちらは居飛車というやり方でした」

―大山システムですね。居飛車一辺倒の現在とは全く違うというのが面白いですね。

(中略)

―詰将棋はよくやりましたか。

「易しいやつを少しやったという程度で、詰将棋はあまりやった覚えがないですね。テレビの詰将棋を毎週考えていたようですけど、あんまり解いたという記憶はありません(笑)」

―では、特に終盤とか寄せの勉強はしなかったですか。

「終盤に限らず、中盤の指し方でも、本を読んだりして勉強するというのはほとんどなかったですね」

―本をあまり読まなかったというと強くなるためのエキスは実戦から吸収したわけですね。

「はい、もうほとんど実戦だけといってもいいと思います。実戦と感想戦の繰り返しでした」

―感想戦というのは、将棋が終わった後に行う、お互いの反省会のようなものですね。

「はい。道場でやっている時は、師匠が感想戦を覗いてくれていろいろ意見を言ってくれました」

―それは素晴らしいですね。今、自分が指したばかりの将棋に対して、プロの考え方が直に聞けるんですから……。

「そうですね。毎週土日ですから、今考えると師匠も大変でしたね。生徒はボクだけじゃありませんでしたからね」

―師匠には、稽古もつけてもらっていましたか。

「週1回は教えてもらっていました。4年生の時に初めて教えてもらって1年間くらいはずっと二枚落ちでした。ここでも実戦とその後の手直しが基本で、駒落ちの本はあまり読まなかったです」

―初段になる頃から、勝てるようになったとのことですが、どんなところが良くなったからなんでしょうか。

「将棋が終わってから、ここではこういうふうに指すのが良いとか、いろいろ教えてもらうわけですけど、将棋はちょっとした駒の配置の違いで、ある局面ではすごく良くても、似たようなある局面では悪いということがありますよね。まだ弱い頃は、教えてもらったことは覚えられるんです。ここでは良いと言われれば、なるほどと思い、こういう場合は悪いと言われれば、それもなるほどと思えるんです。でも、それは自分の力で分かってるんじゃなくて、教えられたことを鵜呑みにしている状態に近い状態ですよね。局面によって違う、手の善し悪しの区別が自分なりの考えで分かるようになった頃、初段になれたみたいでした」

将棋世界同じ号より。

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1図の形は、羽生善治九段も将棋を覚えたての頃によく指していたという。

羽生名人が語るカニカニ銀

「この型はルールを覚えて間もない人がよく指しているのを見かけるが、何故、多くの人がこの型を指すのか、一度、心理学者の人に調べてほしいものだ」と羽生九段が書いているように、本当に心理学の一つのテーマになっても良いと思う。

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佐藤康光少年の得意戦法の石田流。

そのような意味では、18年前頃によく指された佐藤康光九段の変形振り飛車、2007年に初めて佐藤康光九段によって指されたダイレクト向かい飛車など、そのルーツは子供の頃の棋風によるものなのかもしれない。

佐藤康光王将の子供の頃の得意戦法

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東京・渋谷駅。

ハチ公口から山手線に乗る(改札は1階、ホームは2階)のと、階段で2階に上って2階の改札から山手線に乗るという関係が、三間飛車から石田流とひねり飛車から石田流の関係に似ている。

しかし、最近の渋谷駅の変貌ぶりはものすごく、どこがどうなっているのかわからなくなってきており、現在だと何とも言い難い。

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「原田先生の小学館から出た本で、子ども用の入門書があるんですが、それを読んで中にあった石田流の形が好きになりましてよく指しました」

この原田泰夫九段著の入門書は、『将棋初段への道 (小学館入門百科シリーズ 118)』。

羽生善治少年が表紙で、羽生少年の棋譜が2局分載っている。

当然のことだが、この少年と将来、激戦を繰り広げることになるとは、佐藤少年は想像もしていなかったこと。

奨励会に入る1年前の羽生善治少年の写真

 

木村義雄十四世名人「大山君は勝って嬉しいだろうが、まだ若いし、今言葉に現せないだろうから、私が代わって言いましょう。よき後継者を得た」

1952年、第11期名人戦、大山康晴九段が木村義雄名人を破って、初の名人位を獲得した日のこと。

将棋世界1990年12月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。

 7月14日、運命の第5局が始まった。同率決戦で最終的に升田を破った「羽衣荘」である。昔日の面影はないが、当時は白砂青松、大阪南郊の風光明媚の地にあった。

 先手大山は銀矢倉の堅陣から3時間9分の大長考で猛攻を浴びせた。名人に精彩なく、ついに2日目、15日午後11時52分、投了した。

 倉島竹二郎氏は実名小説「名人への道」でその様子を記している。一部の抜き書きである。

 次の瞬間、ふりそそぐフラッシュとライトの雨を浴びながら、康晴は記者達に取り囲まれていた。

「大山新名人のご感想は?」

「別段なにもいうことはありません」と、康晴はうつ向き気味で答えた。

「それじゃ、私が代わって―」木村が引き取ると、

「私は常々自分がそう老いぼれないうちに自分より強い立派な棋士をつくることが自分に課せられた責任だと考えていましたが、このたび大山さんのようなよい後継者を得て、責務の一端をはたし得たと満足に思っております。大山さんは将棋も人間も実に立派になられました。ここまで育成された木見先生も、さぞかし草葉の陰でお喜びのことでしょう」と少しも悪びれたようすを見せず、淡々として感想を述べた。

 周囲でははなをすする音が聞こえた。以下略。

 勝った大山は一言も発しなかったので木村名人が「それでは私が」と引き取ったというのが定説になっている。倉島氏の文は小説なので説明風になっているのかもしれない。

(中略)

 それはさておき、大山の回顧談。

「私が勝つ状態になったとき、皆が入ってきたので戸惑った。そんなことはかつてなかったことなので一番印象に残っている。終局後、私が黙っていると、名人が”大山君は勝って嬉しいだろうが、まだ若いし、今言葉に現せないだろうから、私が代わって言いましょう。よき後継者を得た”と言われた。

(中略)

証言 第11期名人戦に理事として立ち会った 丸田祐三九段

 木村名人が負ければ引退するかもしれないという噂が流れたため、羽衣荘の対局には、菅谷北斗星、倉島竹二郎ら観戦記者をはじめ、将棋記者多数が詰めかけた。50人を越えていたかもしれない。

 2日目の夜になって、終盤ではないが、プロから見れば大山必勝の局面になった。当時は対局中は非公開だったが、私は皆さんに対局を見せたほうがよいと思った。見ずに、あとあと木村名人のことを勝手に書かれては困るし、大名人の最後の対局は見てもらったほうがよいだろうと考えた。

 午後10時頃だった。私は立会人ではなかったが、両対局者に断らず、独断で彼らを控えの間に入れ、観戦してもらった。

 私はその一番後ろに立ち、対局者が何か言えば直ぐ謝って出そうと身構えていた。しかし、対局者は何も言わなかった。

 大山九段が勝ち、沈黙が流れた。記者がラジオのマイクを大山に向けて、しつこく感想を聞いたが、何も答えなかった。たまりかねたのか、木村名人が「それでは私が代わって」と有名な感想を述べた。

 残念、かつ不思議なのは、その後、誰もこの劇的シーンを書かなかったことだ。危ない橋を渡って記者諸君に観戦してもらったのに、情けない。

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1949年、皇居済寧館での一戦、対局終了直後。木村義雄前名人は塚田正夫名人を破り名人位に返り咲いた。写真左から升田幸三八段、大山康晴八段、木村義雄名人、坂口安吾氏、塚田正夫前名人。 近代将棋1973年1月号より。

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木村義雄十四世名人が大山康晴八段(当時)に敗れて名人位を失ったときの「よき後継者を得た」は有名な言葉だが、詳細はここで書かれているような展開から生まれた言葉だった。

木村十四世名人の江戸っ子らしい気風の良さが感動的だ。

 

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 丸山忠久四段の巻」

将棋世界1991年6月号、「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 丸山忠久四段の巻」より。

将棋世界同じ号より。

―プロ棋士になった人は、皆かなり小さい時から将棋を始めたようです。丸山さんの場合はどうだったのでしょうか。

「小学校4年の秋頃、クラスの友達と一緒に木更津支部の将棋道場に行ってからですから、それほど早いほうではないと思います」

―クラスの友達というと、将棋を指す好敵手がたくさんいたわけですね。

「ええ、その頃、クラスで将棋が流行りまして。先生の方で、休み時間ならやっても良いということで、みんなとよく指しました」

―それは羨ましい話ですね。一時、将棋が今ほど理解を受けていない頃は、休み時間でも学校で将棋を指すのは禁止というところが結構ありましたからね。かく言う私も、昼休みに将棋を指しているのが見つかって、将棋の盤駒をよく先生に取り上げられたものでした。

「でも、ボクのとことも少ししたら禁止になっちゃいました。そのうちみんなが熱中しだしてきて授業中にもやりだすようになってしまったんで(笑)」

―丸山さんが学業優秀と聞き及んでいますから、まさか授業中に……なんてことはなかったですよね。

「えっ、そういうことはしなかったと思います。よく覚えていませんよ(笑)」

―せっかくの流行にストップがかかってしまったのは残念でしたね。学校でできなくなったので、道場に行くようになったのですか。

「いえ、そういう訳ではなくて、クラスの中に強い子がいたんです。その子から強さの秘密を聞き出したという記憶があります」

―なるほど、どうして強いのかを探っているうちに木更津支部の道場が近所にあるのを知ったということですね。

「そうです、それで普段からよく遊んでいる仲間と一緒に6、7人で行ったという記憶があります」

―独自の調査でせっかく強い人の秘密を探り出したのに、友達みんなに教えてあげちゃうというのは気前がいいですね。もったいない、独り占めしちゃえとは思いませんでしたか。

「秘密といっても、それほどたいしたことではありませんし、子供でしたからそういうセコイことは考えないですよ(笑)。友達みんなで行った方が楽しいですしね」

(中略)

―お父さんから手ほどきを受けてからクラスの友達と指していた頃は、どんな戦法をやっていましたか。

「戦法といっても、その頃は戦法に関して知識も全くありませんし、なにしろ金と銀の動きを間違っちゃうというくらいのレベルでしたからね。そういえば、銀の動きかなんかでもめちゃって、友達とケンカになっちゃったなんてことがありました(笑)」

―将棋の本はまだ読んでいなかったのですね。

「本を読むようになったのは道場に行き出してからです。それ以前は、適当に指していました。居飛車と振り飛車の概念なんかも全くなくって、初手でいきなり真ん中に飛車を振ったり、もうなんでもありっていう感じで指していましたね」」

―将棋の本はどういうものを読みましたか。

「それほど本を読んだという記憶はないんですけど、自分の興味を持った戦法について書いてあるものだけを読んでいたという感じでしたね」

―というと読んでいた本は定跡書ということですね。棋書の中でも定跡の本は指し手の解説が中心ですから息を抜くところがなくって、初心の頃の人にとってなかなか難しいと思いますが……。

「その戦法について調べたいからというか、読みたいから読んだという感じでしたから、難しいとかはあまり思わなかったですね」

―詰将棋の本などはどうでしたか。

「詰将棋の本を読んだことは少なかったですね。やると頭痛くなっちゃってたんで(笑)。分からないとすぐ答えを見ちゃうほうでしたからね。でも、詰将棋にちょっと興味を持った時期もあって、詰将棋を作ろうとしたこともありました」

―では、将棋雑誌などに投稿したことも……。

「いえ、とてもそんなレベルじゃなかったです。なにかの本を見ていて、はっとさせられた手があって、ああ、こうやって詰むのかって感動して。それで、その筋で詰将棋を作ろうとしたんですけど、どんな図面だったか記憶にないところをみると完成しなかったんでしょうね」

―道場での稽古ぶりを教えてください。

「木更津支部支部長の鈴木三郎という方によく教えていただきました。最初は六枚落ちからスタートしました」

―級位は何級からでしたか。

「8級からでした。この道場に来て、初めて将棋のきちんとしたルールを覚えたというか……。それまでは、駒の動かし方とか、かなりいい加減なルールでやってました。ですから、ボクにとって、将棋を本格的に始めたのは、道場に行き出した時からという感じですね」

―駒落ちの定跡は教わりましたか。

「ええ、初めに六枚落ちの定跡を教えてもらって、その通りに指していました」

―道場での将棋は駒落ちオンリーだったのですか。

「友達と指す時は平手でしたし、少し強くなってからは大人のお客さんとも平手で指しましたから」

―六枚落ちからというと、駒落ちの基本から教わったということになると思いますが、それは今、ご自身から見て上達する上でためになったといいますか、良かったと思いますか。

「今思えば、例えば、六枚落ちの定跡は、端に兵力を集めるという数の攻めを、飛車落ちの定跡は、お互いの主力が正面衝突した後の一手を争う寄せ合いを、と、それぞれ上達のためには必要な基本技の大切さを教えてくれているわけで、大変ためになったに違いないですよね。でも、子供の頃は、そんなことには気付かないで、相手の駒がどんどん増えていくのがなによりの楽しみで指し手ましたね。手合いが上がれば相手の駒が増えるわけですから、自分が上達したというのが一目瞭然で分かるというのが、良かったというか、何よりの励みでしたね」

―道場には毎日行ったのでしょうか。

「道場が開いているのは、土曜と日曜だけでしたので、週2日でした」

―それでは、普段の日は友達と指したりしていたんでしょうか。

「将棋を指してたこともあったでしょうけど、それ以外のことでみんなと遊んでいることの方が多かったですね。将棋も好きでしたけど、それ以外は自分でいうのも変ですけど全く普通の子供という感じでしたね」

―昇級ペースはどうだったでしょう。

「5年生になった頃に1級になりました。道場に行き始めたのが4年制の9月頃だと思いますから……」

(中略)

―それにしても、流石に驚くべき早さですね。1級から初段までもすぐでしたか」

「1級から初段になるのは半年くらいかかりました」

―それまでのハイペースからみると、ちょっと一息という感じですが、その頃何か苦労したというような思い出はありませんか。

「うーん。苦労したとか、上がれないということで苦しんだりとか、そういうことは思ってなかったんじゃないかな。そりゃ上がれれば嬉しいとは思っていましたけど、アマチュアで、ましてや子供ですから、何段になろうなんていうビジョンもありませんでしたし……。ただ将棋を指すのがおもしろいからやってたみたいなとこでしたかね」

―道場に一緒に行った友達も丸山さんのようにどんどん強くなっていたのですか。

「それが、友達は途中でみんなやめちゃいました。一番長くいた子で半年くらいでしたかね」

―引き止めたりはしませんでしたか。

「将棋の他にも、いろいろ楽しいことありますから(笑)。そちらに興味がいったのを無理に将棋をやらせてもしょうがないでしょうから、そういうことはしませんでしたね」

―丸山さんだけ将棋に興味を持ち続けたのはどうしてだったのでしょう。

「ボクは、熱中しやすいけどまた冷めやすかったんですけど、将棋だけは冷めなかったんです。子供ですから、楽しくなければすぐやめるわけで、そういうことがなかったのは、ずっと将棋が楽しかったっていうことだったんでしょうかね」

(中略)

―初段を目指している読者の皆さんのために、丸山さんから上達のアドバイスを聞かせてください。

「そうですね。やっぱり、自分で常に工夫してみるってことでしょうかね。工夫することによって新しい興味が湧いてきてマンネリ化するのを防いでもくれますしね」

―工夫するといいますと、具体的にはどういうことをするのでしょうか。

「例えば、定跡なんかでも、それを自分なりにもっと良い手はないかと考えてみたり、ちょっと改良してみたりとか、そういったことですね。ただ、実際は、定跡というのは、当然のことですが、かなり優れたものですから、もっと良い手なんていうのはめったにあるものではないんですけど、それでも自分なりに考えてみるってことですね」

将棋世界同じ号より。

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決して早いとはいえない小学校4年生の頃に将棋を覚え、プロになり、名人位を獲得することになる丸山忠久四段(当時)。

丸山少年が将棋を覚えた以前の年齢である小学校低学年の有段者はかなりいると思うが、皆が皆、丸山九段のようになれるとは限らないし、そもそもプロになれるかどうかもわからない。

やはり元々ある才能というものがあるのだと思う。(さらに、それに運の要素も加わる)

とはいえ、強くなるための方法は参考になる。

やはり、将棋を強くなるために最も大切なものは、将棋を好きであること、に尽きると思う。

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「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 羽生善治棋王の巻」

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 森内俊之五段の巻」

「若手棋士に聞く ボクが初段になるまで 郷田真隆四段の巻」