先崎学五段(当時)「とにかく、森下の視線は、不自然なほど、盤上に釘づけになっていた。いい物を見た、と思った」

将棋世界1991年5月号、先崎学五段(当時)のC級1組最終局レポート「森下、最難関を突破!!」より。

ラス前が終わった段階で、昇級の可能性があるのは、森下卓六段(3位)、神谷広志六段(5位)、所司和晴五段(8位)で、ともに8勝1敗の戦績。


 3月の15日、つまり最終局の4日前に僕は佐藤大五郎八段と棋王戦を戦った。神谷さん曰く、「君の棋王戦と俺の順位戦じゃ100倍以上価値が違う。俺は居飛車穴熊をやるから君は穴熊にしないでくれ」―というわけで男の約束ができていた。ああ、我忘却を恥とする。盤の前に座ると約束を忘れて穴熊にしてしまった。▲9九玉と入った後に気づいたが、まさか入った玉を出るわけにはいかない。

 この時期、どうしたって将棋会館はナーバスになる。囁き声が多くなる。「誰々先生の3勝は……」

 9回戦の日のこと。夜、神谷、室岡の両氏と焼き肉をつついた。話は必然的に星勘定になる。「1敗が3人か―まあ神谷さんは勝つとして―」ここまで喋ったところで、物凄いいきおいで神谷さんのグローブのような手が伸びてきた。室岡さんが黙って指をさす。その先には安恵、剱持の両先生と一緒にビールを飲む佐藤(大)八段の姿が。ああ、我軽率を恥とする。気まずい沈黙が流れる。

(中略)

 朝の対局室は人の存在感が希薄である。空気がつめたいが、唯一『特別対局室』だけは前日の棋王戦第4局の熱い空気がたたずんでいるように感じられた。

 ぞくぞくと今日の主役たちが入ってくる。神谷「お主穴熊をやったな」知るかい何とでも言ってくれ。森下さんはいつも通り明るく「あっ先崎さん」「どうも」、普段ならばこの後に二、三言会話が成立するがさっと対局室に入った。所司は無言。これはいつも通り。

 昼休前は雑談に花がさく。佐藤大「こういう一番はやりにくいね。ところで君NHK優勝したんだってね。君の賞金と僕が3年かかってためた定期預金の額が同じだよ。月に15,000円の利子がついてね、それで味噌と醤油を買って生活しているんだ」(もちろん嘘)これに河口が「宮沢賢治みたいだ」とまぜっ返し大笑いになった。

(中略)

 3時25分 神谷-佐藤大戦が終わった。54歳の佐藤にいじめてやろうという気はなかったようである。1図は終局直前の局面。神谷は席を外していた。記録が指したことを告げに行っている。席につくと神谷はすぐに▲4三銀。決め手だ。佐藤はノータイム(10秒くらい)で△4七歩と打つ。これに神谷が一瞥をくれて▲3八飛と返したところで突然佐藤の大声が対局室の空気を変えた。「うまく寄せられたね。振り飛車をやるんだった。矢倉にしたのが敗因だったね。これで来年はB2か。おめでとう。本当におめでとう」神谷は黙ってうつむいている。

 僕は森下を見ていた。森下は佐藤-神谷戦を見据える位置で指している。さすれば、その瞬間、表情に、しぐさに、何かの変化があらわれるはずである。

 だが森下の視線は上を向くことがなかった。わざと、意地でそうしているかのようだった。僕は強い情念を感じた。もちろん気にならないはずがない。しかしちょっとでも気にするそぶりを見せることは明らかに不利だろう。僕は森下の無視は、彼一流の計算と強い意志の力だと認識している。とにかく、森下の視線は、不自然なほど、盤上に釘づけになっていた。いい物を見た、と思った。

 その森下-伊藤果戦は2図、3時27分、伊藤が千日手模様から決然と仕掛けた。はっきりいってこの局面は後手がいい。というか勝ちやすい。プロなら誰でもそう思う。が、だからといって勝ち切るのは容易ではない。本局の森下は強かった。伊藤にチャンスらしいチャンスを一度も与えることなく、その冷静、ときとして非情ともいえる指し口には、みなぎる自信と明確な技術が感じられた。

(中略)

 6時10分 夕食休憩に入った。戦士は、記者室で出前のそばや寿司を食べる(外に出る人もいる)。森下は山菜そばを食べながら「先崎さんもつつがなきや……」???意味不明のことをいい出す。軽い興奮状態にあるようだ。

 皆、黙って食べて黙って出て行く。森下は、最近の棋譜を見ながら食べている。強くなる人はちがう。

(中略)

 6時40分 森下は4階入り口にあるカウンターの所で『少年ジャンプ』を読んでいる。僕の方を向いてニッコリ笑い、「日出ずる所の天子日沈む所の天子に申す。つつがなきや。わかります?」そんなこといわれても困ります。どうもこの頃鈴木輝彦さんのようになってきた。付け焼刃ははげやすいデスゾ。

 そのとなりでは森下と仲の良い日浦が「あと10連勝で竜王か。たいしたことないな」などといっている。そうこうしているうちに7時。これより夜戦。

 7時00分 2階の道場に行くと、入り口のそばにあるソファーに屋敷がちょこんと座っている。とても棋の聖にはみえない。はっきりいって、存在感ゼロ。

 所司が苦戦という評判である。どうも室岡の研究範囲にすっぽり嵌ったようで、「佐藤康光君と詰みまで研究してあるんじゃないか」などという無責任な声も聞こえる。

(中略)

10時20分 森下が勝ち昇級を決めた。森下も伊藤もいつも通り淡々と感想をすすめる。まるで消化試合のようだった。本局には順位戦特有の陰鬱とした脂っ濃い空気が感じられなかった。最初の第一手から事後確認をしているようで、これは森下の寝業に強みを発揮する特異な棋風によるところが大きいが、やはり森下の充実と地力ばかりが目立った。

 伊藤-森下戦の感想戦を見ながら、僕は去年のことを想い出していた。森下は、1年前の3月、親友の羽生に敗れ、昇級をのがした。羽生は9連勝を決めており、全くの消化試合にもかかわらず、非情に森下を負かした。感想戦での沈みつづける森下の肩が忘れられない。土佐-室岡戦の結果をたしかめたときの「そうかそうか」という大声も。3日後、森下と二人で、東中野の『さくら亭』で酒を飲んだ。酒を変えそして店を変え、延々5時間余、二人で話した。たいがいは森下が一人で喋りまくっていた。

 ……負けたことは仕方がない。これは仕方がないんです。でも彼は3手目に▲5六歩を突いてきた。振り飛車できたんだ。矢倉で来てほしかった……。負かすならば矢倉か角換わりで正々堂々と負かしてほしかった。負けてくれるとは思っていなかったし勝てると思っていたよ。でも飛車を振ってくるとは夢にも思わなかった。なめています。矢倉できてほしかった……。

 森下は、羽生に振り飛車で負かされたのが相当にショックのようであった。▲5六歩と突いてくるんですよ―この単語を何度くり返しただろう。僕は森下と親しく付き合って8年、はじめて狂気を感じた。なにか、底知れぬ強い意志の源流を持っているなと思った。

 決して森下は盤に向かってさえも純粋無垢の好青年ではない。強い意志と情念が造り上げた、人間味溢れる将棋指しそのものである。そして我々後輩に対しては面倒見の良い兄ィである。森下は、最近は女の子の話をよくするようになった。なにかがふっきれたようだ。さらなる飛躍を期待してやまない。

(以下略)

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森下卓六段(当時)。将棋マガジン1991年2月号、撮影は中野英伴さん。

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順位戦、2月から3月にかけては、このような胃が痛むような対局室の光景が増えてくる。

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「うまく寄せられたね。振り飛車をやるんだった。矢倉にしたのが敗因だったね。これで来年はB2か。おめでとう。本当におめでとう」

コテコテの個性派の佐藤大五郎九段だが、このような爽やかな温かさも兼ね備えていた。

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「伊藤-森下戦の感想戦を見ながら、僕は去年のことを想い出していた。森下は、1年前の3月、親友の羽生に敗れ、昇級をのがした。羽生は9連勝を決めており、全くの消化試合にもかかわらず、非情に森下を負かした。感想戦での沈みつづける森下の肩が忘れられない」

この時の様子も、先崎学五段(当時)が書いている。

血涙の一局

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「日出ずる所の天子日沈む所の天子に申す。つつがなきや。わかります?」

聖徳太子が書いた文章が出てくる理由は、本当にわからない。

『少年ジャンプ』との関連性もわからない。

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「2階の道場に行くと、入り口のそばにあるソファーに屋敷がちょこんと座っている。とても棋の聖にはみえない。はっきりいって、存在感ゼロ」

忍者流と呼ばれていた屋敷伸之棋聖(当時)。

まさに忍者のごとく気配を消していたと考えることもできる。

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先崎五段は森下卓六段(当時)に、この3ヵ月ほど前にインタビューをしている。

この内容も面白い。

先崎学五段(当時)「好青年の仮面を剥ぐ」