1952年、第11期名人戦、大山康晴九段が木村義雄名人を破って、初の名人位を獲得した日のこと。
将棋世界1990年12月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。
7月14日、運命の第5局が始まった。同率決戦で最終的に升田を破った「羽衣荘」である。昔日の面影はないが、当時は白砂青松、大阪南郊の風光明媚の地にあった。
先手大山は銀矢倉の堅陣から3時間9分の大長考で猛攻を浴びせた。名人に精彩なく、ついに2日目、15日午後11時52分、投了した。
倉島竹二郎氏は実名小説「名人への道」でその様子を記している。一部の抜き書きである。
次の瞬間、ふりそそぐフラッシュとライトの雨を浴びながら、康晴は記者達に取り囲まれていた。
「大山新名人のご感想は?」
「別段なにもいうことはありません」と、康晴はうつ向き気味で答えた。
「それじゃ、私が代わって―」木村が引き取ると、
「私は常々自分がそう老いぼれないうちに自分より強い立派な棋士をつくることが自分に課せられた責任だと考えていましたが、このたび大山さんのようなよい後継者を得て、責務の一端をはたし得たと満足に思っております。大山さんは将棋も人間も実に立派になられました。ここまで育成された木見先生も、さぞかし草葉の陰でお喜びのことでしょう」と少しも悪びれたようすを見せず、淡々として感想を述べた。
周囲でははなをすする音が聞こえた。以下略。
勝った大山は一言も発しなかったので木村名人が「それでは私が」と引き取ったというのが定説になっている。倉島氏の文は小説なので説明風になっているのかもしれない。
(中略)
それはさておき、大山の回顧談。
「私が勝つ状態になったとき、皆が入ってきたので戸惑った。そんなことはかつてなかったことなので一番印象に残っている。終局後、私が黙っていると、名人が”大山君は勝って嬉しいだろうが、まだ若いし、今言葉に現せないだろうから、私が代わって言いましょう。よき後継者を得た”と言われた。
(中略)
証言 第11期名人戦に理事として立ち会った 丸田祐三九段
木村名人が負ければ引退するかもしれないという噂が流れたため、羽衣荘の対局には、菅谷北斗星、倉島竹二郎ら観戦記者をはじめ、将棋記者多数が詰めかけた。50人を越えていたかもしれない。
2日目の夜になって、終盤ではないが、プロから見れば大山必勝の局面になった。当時は対局中は非公開だったが、私は皆さんに対局を見せたほうがよいと思った。見ずに、あとあと木村名人のことを勝手に書かれては困るし、大名人の最後の対局は見てもらったほうがよいだろうと考えた。
午後10時頃だった。私は立会人ではなかったが、両対局者に断らず、独断で彼らを控えの間に入れ、観戦してもらった。
私はその一番後ろに立ち、対局者が何か言えば直ぐ謝って出そうと身構えていた。しかし、対局者は何も言わなかった。
大山九段が勝ち、沈黙が流れた。記者がラジオのマイクを大山に向けて、しつこく感想を聞いたが、何も答えなかった。たまりかねたのか、木村名人が「それでは私が代わって」と有名な感想を述べた。
残念、かつ不思議なのは、その後、誰もこの劇的シーンを書かなかったことだ。危ない橋を渡って記者諸君に観戦してもらったのに、情けない。
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木村義雄十四世名人が大山康晴八段(当時)に敗れて名人位を失ったときの「よき後継者を得た」は有名な言葉だが、詳細はここで書かれているような展開から生まれた言葉だった。
木村十四世名人の江戸っ子らしい気風の良さが感動的だ。