近代将棋1993年4月号、井口昭夫さんの王将戦七番勝負第4局〔村山聖六段-谷川浩司王将〕観戦記「王将戦第4局を見て」より。
村山六段は悲観型の棋士らしい。3局までの将棋を見、その感想を聞いても実際以上に悪くとっていることが多かった。悲観型でいけなければ芸術派タイプなのかもしれない。
谷川王将は、中原誠名人ほどではないが、楽観派に属している。ただ中原と谷川には大きな違いがあって、中原は純粋型楽観派、谷川は現実直視型楽観派と私は見ている。この二人は天下を制した。数々の大勝負で勝者の座を占めた。「最後は勝つ」という信念が体中にみなぎっている。楽観派だからそうなったのか、そうなったから楽観派なのか、そこのところはよく分からない。村山も早く楽観派の棋士になってもらいたいものだ。
第4局の対局場は12年前から何度も王将戦が行われた山口県大島のリゾートホテル大観荘で、山陽本線大畠駅から大島大橋を渡ってすぐの所にある。昔は周防大島と呼ばれ、瀬戸内海で淡路島、小豆島につぐ3番目の大きな島である。全室海に面し、干満時には流れがぶつかり合って大きなうずを巻き起こす。「大畠瀬戸」で有名だ。
後のない村山聖六段にとって、まさに背水の対局場となった。3連敗後の4連勝は将棋界にはない。
前夜祭で立会いの森雞二九段は「一局一局、ファンに楽しんでもらう将棋を指してほしい」とあいさつしたが、確かにその通りで、勝敗も大事だが将棋ファンはその中身に注目している。とくに最近、序盤がすっかり変わってしまった矢倉戦で、二人がどういう研究をぶつけ合うか、興味津々なのである。
前夜祭では地元出身の村山に人気が集まった。テーブルへ激励にくる人、一緒にカメラにおさまって喜ぶ人。村山はいちいち立ち上がって快く応じていた。
話はあと先になるが、指し掛けの夕方、地元のテレビ局は「郷土出身棋士、王将位に挑戦」を特集した。村山は広島県安芸郡の出身だが、ここ大島とは非常に近いこともあって、そう呼ばれている。少年時代、彼は腎臓病で長期の入院生活をし、野球をしたがる少年をおとなしくさせるため、父の伸一さんが将棋を教えた。小学5年のとき子ども名人戦で優勝し、プロの道を進むことになったと、写真入りでくわしく報じていた。
2月17日。午前8時に潮はピタリと止まり釣り舟がたくさん出ているのが見えた。ところが8時半には波立ちはじめ、あっという間に急流となった。いつの間にか舟の姿も消えた。その頃、早々と村山は対局室「大観の間」に現れた。11年前、ここで大山康晴王将対中原誠名人の王将戦が初めて行われ、大山が命名した部屋である。
(中略)
谷川はいつものように5分前に入室、ゆっくり駒を並べて、お茶を一服すると定刻9時になる。
後手番の谷川は飛車を振るのではないかと、ひそかに思ったが、やはり違った。相矢倉で応じ、近頃よく指される序盤が進んだ。
11時頃、谷川は取材本部へやってきて、記者たちと雑談した。そこへ思わぬ人がとびこんできた。第5局の予定地、山形県天童の「東松館紅の庄」専務の日下部元七さんである。気になって、夜行列車、飛行機、広島から個人タクシーを乗りついで駆けつけたのだが、まさかそこに谷川王将がいるとは思わなかったのでびっくりした。
顔なじみの谷川は「まずい人が来ましたね」と言い、爆笑となった。
午後、49手目▲1三桂成と村山が端を攻めたとき、谷川は21分考えて△同香と取った。このあと香を交換して△1三同玉と取ったのが新研究だった。
村山は今期王将リーグの対南芳一九段戦で△1三同桂と香を取って勝っている。恐らくその手を予想したのではなかったか。ところが谷川は手を変え、手に入れた香を6六に打って戦いの主導権を握った。
翌朝のスポニチに村山の談話がのった。
「もう終盤なので戸惑いなく封じました。しかし形勢はちょっと悪そうなんで憂鬱です。攻め合いは一手負けそうなんですよ。どうしましょう」
勝負の途中でこんな感想を引き出すとは、ただ者ではない。新聞は両対局者に見せないことにしているが、見ようと思えば見ることはできる。
大広間には朝早くからファンが詰めかけた。東和男七段(副立会い・解説)の大盤解説に、時折り森九段が熱弁をふるう。彼は、かつてここで米長邦雄王将に挑戦した経験がある。森は△1三玉は角の筋に入っている。アマチュアの皆さんは真似しないほうがいいですよ」と解説した。
2日目朝、森九段が村山の封じ手を開いた。笑い上戸の森は何だかニヤリとしている。前日、生まれて初めて封じ手に取り組んだ村山は、随分時間をかけた。戸惑ったのだろう、それを思い出しながら森は丹念に封じ手用紙を確認している。
一枚は図面の▲3六歩の横に小さく赤で矢印がついている。すぐ前に相手の銀がいるから、これは取るという意思表示である。もう一枚には▲3五歩をぐしゃぐしゃと赤で塗りつぶしたように丸を書いている。よく見ると丸の中に矢印があった。これはちょっと首をかしげるのも無理はない。村山も封じ手の間、これでいいのかどうか自信がなかったのだろう。横に大きな字で▲3五歩と書いていた。これは絶対確実で、正確に意思が伝わった。村山のために証言すると、最近の習慣を見慣れた人には多少、奇異に移ったが、何の間違いもなく正しかった。最近は文字は不用で、動かしたい駒を丸で囲み、もって行きたいところまで、ぐいと線を引き、目的の所で矢印をつける。まあ、これが一番間違いがないのでそうなった。
2日目、正午締切で終了時間当てが報道陣の間で行われた。午後4時台が圧倒的に多かった。それほど局面は緊張していたのだ。午前中に村山にチャンスがあった。
(中略)
これまでの3局ともそうだが、すべて負けた村山にチャンスがあった。村山は悪いと知りながら、その勝負手にも気づかず、負けの道を進んだ。終盤、時間を使い果たして谷川玉に迫り「粘られて気持ちが悪かった」と言わせたが、勝負はすでに終わっていた。
1分将棋にして投了したのは立派だった。負け将棋に時間を残すな、である。投了は6時16分だった。
(中略)
シリーズ開始から約1ヵ月であっけなく終わってしまった。残念の一言に尽きるが、仕方がない。しかし、矢倉戦で多くの研究材料を二人が提供してくれた。矢倉はプロ、アマを問わず主流を占めるだけに意義は大きい。
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谷川浩司王将に村山聖六段が挑戦した1993年の王将戦七番勝負は、谷川王将が4連勝で防衛を果たした。
第1局から第3局まで、村山六段が得意の終盤で、勝ち筋を逃す展開だった。
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「前夜祭では地元出身の村山に人気が集まった。テーブルへ激励にくる人、一緒にカメラにおさまって喜ぶ人。村山はいちいち立ち上がって快く応じていた」
ファンの方々が喜ぶ光景が目に浮かぶ。
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「森九段が村山の封じ手を開いた。笑い上戸の森は何だかニヤリとしている。前日、生まれて初めて封じ手に取り組んだ村山は、随分時間をかけた。戸惑ったのだろう、それを思い出しながら森は丹念に封じ手用紙を確認している」
村山聖九段にとってはタイトル戦で最初で最後の封じ手。
村山六段が封じ手の記入に苦心する様子が微笑ましい。
村山六段が森雞二九段に封じ手を渡すシーンが次の写真(将棋世界1993年4月号より)。
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「もう終盤なので戸惑いなく封じました。しかし形勢はちょっと悪そうなんで憂鬱です。攻め合いは一手負けそうなんですよ。どうしましょう」
封じ手後の談話、つまり勝負の最中の対局者のコメントが翌朝の紙面に掲載されるのがスポニチ流。
本当に苦しい雰囲気が表れている村山六段のコメントだ。
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「中原は純粋型楽観派、谷川は現実直視型楽観派と私は見ている」
ここで述べられている楽観は、先行きの楽観ではなく、その局面の形勢判断が強気であるということ。
「楽観派だからそうなったのか、そうなったから楽観派なのか、そこのところはよく分からない」
これは、本人も含め、誰も分からないことだと思う。
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「顔なじみの谷川は『まずい人が来ましたね』と言い、爆笑となった」
その前なのか、少し後なのか、控え室の模様。(将棋世界1993年4月号より)
森九段が並べているのは、もちろん別の将棋。
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敗れてしまった村山六段だったが、この後の順位戦でB級1組への昇級を決めている。
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明日の記事も、この第4局について。