中田功五段(当時)「御恩に報います」

将棋マガジン1993年7月号、中田功五段(当時)の第5回IBM杯順位戦昇級者激突戦〔対 畠山成幸五段〕自戦記「自分を変えた出来事・・・・」より。

 第51期順位戦、はじめ僕は昇級を狙っていました。

 しかし出だしを2連敗した時は、さすがにショックでした。

 2局とも勝ちたいという気持ちが強すぎたのか、指してもチグハグで悔いの残る敗戦だったからです。

 そしてその後に師匠の訃報を聞いた時は、驚きました。

 その日は7月26日、僕の24歳最後の日でした。

 約束をしていた友達から電話がかかってきたのです。

「おまえ、今日会えないよ」

「ン……(眠そうに)何で…」

「テレビ見た?」

 あの時の気持ちは、うまく伝えられないと言うか、自分でもわからない気持ちになりました。

 そして最後に、

(将棋が強くなりたい)

 と真剣に思うようになりました。

 しかし、今までの自分を振り返って見ると将棋が弱くなりそうな事は死ぬほどありますが、強くなるような事は正直言って覚えがありません。

 そのぐらいの事なら僕は前から知っていたのですがあの日の時ぐらい後悔した事はありませんでした。

(御恩に報います)

 そして、僕は師匠に誓いをたてました。

 それから順位戦では残りを8連勝できて幸運にも昇級する事ができました。

 今にして思えばよく勝てたなという感じで自分の実力だけで勝てたとはとても思えません。

 ただ、もっと強くなって自分らしい将棋を指したいという気持ちは、前よりずっと強くなったのは確かで、それが結果的に良かったのだと思っています。

 今は、順位戦が終わり自由な時間がたくさんあるので心配しています。

 そしてIBM杯に出場する事が出来てやっと昇級したなと思いました。

 またこの日は、来期の順位戦の抽選が行われ、同時に月日の経つのは早いなあとも思いました。

(中略)

 時々、棋士を志して大山十五世名人の門下として上京する時に父が12歳の僕に言った言葉を思い出します。

(功、酒とタバコと麻雀はやるなよ)

 東京での生活は、もう13年にもなり僕は自然にこれらを覚えていきました。

 今は、逆に一つにへらしていこうと思っている所です(徐々に)。

 僕は最近、後手番でも三間に飛車を振る事が多く、本局でもあまり迷いませんでした。

 しかし、後手番の三間飛車だと先手に急戦で来られた場合、一手の差が響く事もあります。

 そのかわり、持久戦でじっくりと玉を囲いあう時は、三間飛車にした方が戦いやすい場合もあり、僕の好きな戦法の一つでもあります。

(中略)

 △9五桂以下は詰みで、何とか勝ち切る事が出来ました。

 振り返ってみると畠山さんの▲7三桂成が疑問だった様で全体的には僕の方が苦しい将棋だったようです。

 最近、自分の将棋を並べた時に、強いのか弱いのか分からない時があります。他の棋士の棋譜は分かるつもりですが、不思議な気分です。

 来年もこの棋戦に出られる様に頑張りたいと思っています。

「中田功五段の昇級を祝う会」。近代将棋1993年7月号より。

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順位戦、2連敗の出だしの後に、師匠の大山康晴十五世名人の死。

そして、その後、8連勝で昇級。

まさに、青春熱血ドラマのような展開だ。

”大山十五世名人の加護”という言葉も思い浮かんでくる。

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「時々、棋士を志して大山十五世名人の門下として上京する時に父が12歳の僕に言った言葉を思い出します」

9年後、中田功七段(当時)は、お父さんのこの言葉についてのその後のことを書いている。

中田功七段らしさ

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写真は、1993年5月24日に原宿・東郷神社の水交会で行われた「中田功五段の昇級を祝う会」の模様。

プロ棋士30数名が参加。報道関係、ファンを合わせて70数名の盛会だった。

乾杯は羽生善治三冠(当時)。弟弟子の行方尚史三段(当時)の顔も見える。

中田功五段(当時)の昇級を祝う会