将棋マガジン1993年8月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:佐藤康光 書斎派青年モロッコを行く」より。
名人戦第4局を取材に行った。尾道市の南端のベラビスタ境ガ浜には、1日目の午後5時ごろに着いた。さっそく控え室をのぞく。モニターに盤面が映っているが、それを見て、どうのこうのといえるほどの棋力はない。手近なところに特別立会人の谷川棋聖がいたので、「どんな具合ですか」と解説をお願いした。
谷川は棋譜のコピーを見せてくれた。王位戦リーグの中原誠対佐藤康光戦。谷川は、その1箇所を指さしながらいった。
「ここまで(△6四角)は、まったく同じ形ですが、いま、米長先生が▲3五歩と手を変えたところです。前の将棋では、佐藤六段は▲6五歩と突いたんですね」
こういうとき、私のようなヘボは、決まって同じ愚問を発する。「どっちがいいんですか」
―谷川は困ったような顔をするだけで、なにもいわなかった。
すでに、このとき、控え室では▲3五歩は米長研究ずみの一手であることが知れ渡っていた。
「島研」(島朗七段の研究会)を訪れた米長は▲3五歩を研究していたという。
そのへんのいきさつは、新名人の自戦記に詳しいはずだから、ここでは触れない。ただ、ひとつ感想をいえば、今回ほど、勝者が手の内を明かした名人戦もめずらしい。
米長は、すすんで協力者たちの名前を挙げた。そのひとりに佐藤康光六段がいる。
(中略)
佐藤が、なぜ「グロンサン」なのか、注釈がない。私は初耳なので、本誌の萩山編集長に訊いたら、父君の勤務先に由来しているのではないかという。米長には、こういうとんでもない発想があるから、インタビューは疲れるんですね。
呼称はともかく、思わぬところで名前が出て、当の佐藤は戸惑ったにちがいない。佐藤にすれば、共同研究といったほどの意識はないらしく、あっさりといっている。
「▲3五歩がよさそうだって、ちょっといっただけなんです。好位置の銀が動くんで、指しにくい手なんですけどね」
(中略)
研究をしない将棋の奥儀が「泥沼流」だった。かつて米長が「泥沼流」で勝ちまくっていたころ、若手棋士に負けるのは、どんなときか訊いたことがある。米長は、こんなふうに答えた。
「ゴルフでいえば、こちらはパープレーのつもりでいるんです。向こうはバーディを狙ってくるから、そのぶん、ミスショットの出る確率が高い。しぜんに転んでくれることが多いんです。ただ、相手の研究にはまっちゃったときは、どうにもなりませんね。完全にお手上げです」
やがて、若手棋士たちの序盤研究は、高等数学で解くような成果を発揮しはじめた。米長は「泥沼流」の意地を捨てて、若手棋士の門を叩いた。
(中略)
佐藤の顔を初めて見たのは、まだ佐藤が四段のころだった。第一印象は、秀才の顔だなと思った。佐藤より一つ年下の羽生も、秀才の顔にはちがいなかったが、いささかヒネた感じがした。佐藤のほうが、年相応に典型的な秀才面をしていた。
しかし、秀才にありがちなギスギスした感じがない。豊かな時代に育ったおかげか、鷹揚なところも感じさせる。愛嬌のあるタイプではないけれど、人当たりもわるくなさそうだった。
そのころ、東京・将棋会館の控え室には、たいてい若手棋士や奨励会員が何人かいて、対局中の将棋を検討していた。順位戦の日などは、満員の盛況を呈した。最近は、検討陣の数が、めっきりすくなくなったように思える。
佐藤もよく控え室で見かけた。将棋が終盤になると、棋士は対局室にはいりたがらないが、検討をするには、だれかが棋譜を見にいかなければならない。その役目は、年少の棋士か奨励会員が受けもつ。佐藤は頼まれれば、億劫がるようすもなく、対局室をのぞきにいった。
ふしぎなもので、その場に羽生がいても、だれも頼もうとしない。すでにして、四段時代から羽生は、ひときわ注目されたいたせいだろう。佐藤も逸材であることに変わりはないが、いかにも少年然としていて、頼みやすかったようだ。
(中略)
佐藤は京都の生まれで、中学1年のときに関西奨励会にはいったが、父君の転勤で東京に移住し、東京の奨励会に移った。このとき、当時、関西奨励会幹事だった東和男七段が「名人候補が東京へ行ってしまった」と嘆いた、という有名な話がある。
もっとも、当の少年は、名人になれるかどうかなどと考えたことはいちどもなかった。奨励会にはいるときも、強い人と将棋を指せるからいい、というくらいしか考えていなかったという。
昭和62年、17歳で四段に昇段。翌年には、早くも王位戦リーグに参加して、プレーオフまで残った。翌平成元年にC1に昇級したあたりから、羽生、佐藤、森内とセットで話題されることが多くなった。
そのころ、私は佐藤と加藤一二三九段の対局を観戦した。佐藤は、ひたすら黙々と指しつづけたが、無表情というのでもない。子どもが自分の好きな遊びに熱中しているときのような、充足感をみなぎらせていた。
将棋は熱戦で、控え室の検討陣からは、佐藤がいいのではないかという声も出たが、加藤が勝った。感想戦で佐藤は終始、負けたのが納得いかないような顔をしていた。検討も終わり、加藤が退席したあとで、佐藤にあらためて感想を求めたら、ためらわずに答えた。
「力負けしました」
10代の新鋭が大豪に負けて、口に出す感想にしては、私は、ずいぶんしっかりしているものだと思った。相手の強さに無条件で脱帽しているわけではないらしい。力くらべで負けたのだから、腕力さえつけば対等に戦えるはずだ、というふくみを残している。顔には出さないが、相当に気も強そうだと思った。
その後も、佐藤の将棋を何局か観戦したが、佐藤が勝ったせいもあって、強い印象を受けたことがない。優勢な将棋をあたりまえのように勝つ。それが強さの証明にはちがいないけれど、素人の理解をはるかに超えている。
佐藤はまちがえない、と定評がある。それだけでは勝てるはずもないが、石田和雄九段などは「サイボーグを相手にしているようなものですよ」とボヤいていた。たしかに、そんな一面を感じさせるけど、私は、この青年はポーカーフェイスにはなれないのではないか、と思ったことがある。
対 中原誠戦で、ずっと佐藤優勢の局面がつづいたが、終盤で中原が勝負手を放った。その手が佐藤の意表をついた。とたんに佐藤のようすがおかしくなった。
ブツブツつぶやき、しきりに髪に手をやる。まだ持ち時間は30分以上も残っているのに、脱兎のごとく手洗いにいく。記録係に残り時間を聞いたときには、「チッ」と舌打ちの声までもれた。どうにか打開策を発見して、勝つには勝ったが、およそ”サイボーグ”らしくなかった。こちらは盤側から、初めて佐藤の素顔をのぞいたようで、親しみさえ感じたものである。
そのせいばかりではないけれど、10代のころにくらべると、佐藤にたいする印象もずいぶん変わった。服装ひとつとってみても、島朗七段の指導効果が出ているらしく、けっこう気をつかっているのがわかる。島が初めてブティックに連れていったときは、「ボタンダウンってなんですか」と訊いて、島を唖然とさせたそうだ。
(中略)
佐藤は毎年、春に室岡克彦六段とヨーロッパ旅行をしている。1年ほど前からゴルフもはじめた。
自分では、あまりのめり込むタイプではないといっているが、ゴルフにはかなり入れ込んだ。最初のころは、週に3回は練習場に通った。最近は、めっきり回数は減っているそうだが、棋士仲間とのコンペがあれば、かならず参加する。腕前のほうは、いちじは100を切れそうかな、というほどに上達したが、そのまま足踏み状態がつづいているらしい。
子どものころは、運動とはまったく縁がなかった。四段になってから、将棋連盟の野球部にはいった。いまだにレギュラーとはいいがたいようだが、試合には、ユニフォームを着て、ベンチ入りしている。自宅から学校と将棋会館へ通うことしか知らなかった書斎派の少年が、寺山修司風にいえば、書を捨てて街に出たのである。
ヨーロッパ旅行は、ことしで5年つづけている。約3週間の旅程で、主に将棋の盛んなイギリス、オランダに滞在し、現地支部の人たちと将棋を指す。もちろん、相手は外人が多い。
毎年のことだから、立派に将棋の海外普及に貢献しているはずなのだが、ご当人は謙虚にこういっている。
「恥ずかしくて、普及なんていえないですよ。ぜんぜん言葉が通じませんしね。こっちが英語をおぼえる前に、向こうの人が日本語で話してくるくらいですから」
将棋の国際化について―
「最初のうちは意識しなかったんですが、最近は、すこしは考えるようになりました」
1週間は観光に当て、未知の土地を訪ねる。一昨年はモロッコに行って、まったく新しい体験をした。街を歩けば、かならず物乞いが寄ってくる。ガイドを連れていたのに、旧市街の迷路にはまり込み、2時間も出てこられなかった。いかにも豊かな時代に育った青年らしい感想をもらしている。
「ひょっとすると、ここで終わっちゃうんじゃないかと思いました。日本の感覚からいうと、100年くらいむかしに戻ったみたいで、精神的に疲れました。何年か経ったら、また行きたくなるかもしれませんが、いまは行く気しないですね」
どんな感想をもとうが、カスバのにおいを嗅いできただけでも、むだにはならない。ヨーロッパの文化にしても、まだ特別の興味はもっていないようだが、毎年、行くだけでもいい。そのうちに、いても立ってもいられないほど、興味が湧いてきて、しぜんに勉強をするようになるかもしれない。
3月に順位戦が終わってから出かけるヨーロッパ旅行は、もうひとつ、佐藤にとって大きな意味をもっている。1年を振り返り、さらに新年度の目標を立てる―
「日本にいると、自分ひとりで考える時間がすくないんですね、振り返ると、反省することも多いですし…。ほんとは、その時期、ヨーロッパにいるようじゃ、いけないんですね。勝っていれば、とりあえず全日本プロなんかがあるわけですから」
案外、来年はヨーロッパに行くまい、と目標を立てているのかもしれない。
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出だしは、昨日の記事の続きのような進行。
「ゴルフでいえば、こちらはパープレーのつもりでいるんです。向こうはバーディを狙ってくるから、そのぶん、ミスショットの出る確率が高い。しぜんに転んでくれることが多いんです。ただ、相手の研究にはまっちゃったときは、どうにもなりませんね。完全にお手上げです」
このような表現もあるのかと、感心させられる。
野球で言えば、「打たせて取るのではなく、剛速球での三振を狙ってくるからボールになる確率が高い」あるいは「一死満塁で、スクイズをやらずに強打して内野ゴロになりダブルプレー」のような雰囲気だろうか。
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「やがて、若手棋士たちの序盤研究は、高等数学で解くような成果を発揮しはじめた。米長は『泥沼流』の意地を捨てて、若手棋士の門を叩いた」
どのような物事にも「100%良いことだらけ」ということはあり得ない。
後に河口俊彦七段(当時)は、「名人になってからの衰えの早さを思うと、もし泥沼流のままでいたら、と考えてしまう。そして60歳過ぎてもA級にいただろうと思う。ただし名人にはなれなかった。一度でも名人になったのは大変なキャリアである。だから米長に悔いはなかったはずだ」と書いている。
→真部一男八段(当時)「中原・米長それぞれの羽生世代対抗作戦」
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「しかし、秀才にありがちなギスギスした感じがない。豊かな時代に育ったおかげか、鷹揚なところも感じさせる。愛嬌のあるタイプではないけれど、人当たりもわるくなさそうだった」
鷹揚な雰囲気を持ち、外面も内面も人当たりの良いのが佐藤康光九段。
「佐藤は頼まれれば、億劫がるようすもなく、対局室をのぞきにいった」
も佐藤康光九段らしい。
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「当時、関西奨励会幹事だった東和男七段が『名人候補が東京へ行ってしまった』と嘆いた、という有名な話がある」
佐藤康光九段が入門して、そしてそれから東京へ移る時の話は、以前の記事に詳しい。
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「佐藤はまちがえない、と定評がある。それだけでは勝てるはずもないが、石田和雄九段などは『サイボーグを相手にしているようなものですよ』とボヤいていた」
この頃はまだ「緻密流」「1億3手を読む」のような言葉は生まれていなかったが、それらの言葉は、このようなところに由来しているのだろう。
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「たしかに、そんな一面を感じさせるけど、私は、この青年はポーカーフェイスにはなれないのではないか、と思ったことがある」
「その手が佐藤の意表をついた。とたんに佐藤のようすがおかしくなった」
「ブツブツつぶやき、しきりに髪に手をやる。まだ持ち時間は30分以上も残っているのに、脱兎のごとく手洗いにいく」
冷静沈着に見えるにもかかわらず、このようなギャップがあるところが更に魅力を増す。
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「佐藤は毎年、春に室岡克彦六段とヨーロッパ旅行をしている。1年ほど前からゴルフもはじめた」
研究会、海外旅行など、室岡克彦六段(当時)と一緒の機会が多かった。
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「ひょっとすると、ここで終わっちゃうんじゃないかと思いました」
2011年3月11日、大震災のあった時刻、私は新宿の高層ビルの50階にいたが、全く同じことを思った。
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「どんな感想をもとうが、カスバのにおいを嗅いできただけでも、むだにはならない」
カスバとは、城塞に囲まれた居住地区。
「何年か経ったら、また行きたくなるかもしれませんが、いまは行く気しないですね」」
高校時代、修学旅行のような旅行で山に登らされた。
家に帰ってから「また山に登りたくなるかもしれないけれども、当分は登りたくない」と思ったが、数十年経った今でも、当分は登りたくないという気持ちが続いている。