「米長邦雄新名人、大いに語る」

将棋世界1993年7月号、第51期名人戦・奪取翌朝、独占インタビュー「米長新名人、大いに語る」より。

名人位獲得を決めた名人戦第4局終局直後の米長邦雄新名人。将棋マガジン1993年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

=1993年5月22日(土)朝、「リゾートホテルベラビスタ境ガ浜」1510号室の自室にて=

―四段昇段からちょうど30年。やはり名人位は常に意識していましたか。

「いや、そういうことじゃなくてね、名人というのはあまり意識してないんですよ。毎日毎日の積み重ねで、将棋を一生懸命いつまでもやりたいという気持ちですね。ただ、弱くなっちゃったら人生がつまらなくなっちゃうんだ、俺。というのはね、今のちょうど30歳ぐらいの人たち、それから20歳ちょっとの天才たち、こういう人たちの将棋を鑑賞する自分の実力というか、見る目というか、それから人間性に触れて親しくさせてもらうということが不可能になっちゃうんだよ。というのは、弱くなると相手にされなくなっちゃうんだよ。一緒に研究仲間でやろうと言っても、『またあの弱いのが来たなあ。来たら酒の話はする、女性の話はする、もうあれが来ちゃ困るんだ。おまけに将棋の勉強をしたって全然参考になんない』ということで嫌われちゃうんですよ、弱くなると。だから若い人たちと付き合ってもらう一番大事なことは何かといったら、それはご馳走するとか、一つはね、あるいは向こうに敬意を払う、年に関係なく心底尊敬する。いろんなことがあるけれども、何でも一番大事なことは何かといったら、これは力関係なんだよ。力が弱かったらね、どんなに条件が揃っていたってアマチュア初段は入れてくれないでしょ、極端な話。それと同じで弱くなったら駄目なんですよ。だから将棋がいつまでも強くないと。僕はそういう人たちの将棋を見るのが一番の趣味なんだね。だから僕の本業は将棋評論家かもしれないんだ、本当は(笑い)。それでそういう将棋だとか人物を見るために僕自身も頑張っていると、こういうことでそれが相乗効果でね。だからその中にあってタイトルを取るだとか、それがまた名人だとかいうことは特別、取ってもよし、取れなくてもよしという、そういう気持ちですよ」

―昨日は、島研に行ったという話がだいぶ出ていましたが……。

「内緒だったけどね(笑い)。島君は中原さんの弟弟子だから、怒られちゃうよ。そこで中原さんの将棋を研究したなんて言ったら」

―5局研究された中の1局が昨日の将棋だったということですが、他の戦型は。

「とにかく勝てたのはグロンサンの勝利だよ。グロンサンてのは佐藤康光のことなんだ。佐藤康光に教わった手でね。あれは中原先生の十八番中の十八番だからね、森下システムに対する。それをどうしても突き崩せない。僕はそれを避ける意味で、第2局は▲1七香と上がったんですよ。だけど向こうの一番の得意形でなおかつ戦うという、まあ第3、4局もそうなんだよね。今回の名人戦は、全部相手の一番得意なことをお互いに指したってことですね。それが今までと一番違うところだね。僕は4局目は矢倉にならないと思ってたんだ、実は。それもみんな島研での戦型に含まれてるんだ(笑い)。矢倉にならないと思ったんだよ」

―控え室でもそう言っていました。

「ところがね、それでは何をするかということが非常に難しくなっちゃったんですね、もう。でもまさかの不敗の陣形が、実は密かに研究されていたとは思わなかったでしょうね」

―夢に現れたお父様の話ですね。

「とにかく、親父のあの、『明日があると思っているこのバカタレが』、ヌカレモノがって言うんですけどね。怠け者って意味です。『明日があると思っているこのヌカレモノが。今日でも遅すぎるくらいだ。島研では昨日済ませている。森下は一昨日に済ませた』。それで慌てて佐藤康光のところに連絡したんだ。大変なんだよ、粗飯を差し上げてね、教わりに行くんだから」

―3年位前から若手と研究していたのでは……。

「ええ、そうなんですけどね。それは3、40人のグループで、何て言うんですか、その熱気がプラスになるのであって、将棋そのものはそんなにプラスになるというものではないんでね。いや、僕にとってはですよ。プラスになるというのはごく特定の何人かの研究会ですね。そこで島研というすごいグループがあるです。そこには僕は初めて行きました。島、羽生、佐藤、森内の4人でね、4人以外はメンバー限定で入れない。実際、研究会というのは大勢だと駄目なんだ。僕の将棋は大体研究をしない将棋でしたからね」

(中略)

―昨日の感想戦では、時間がなくなるのを恐れていたということでしたが。

「1分将棋で1局目を勝ったんですよね。勝ったんですけれども、本当に1分将棋がどの位のものなのか、全日プロで試してみたんだ。そしたら弱くなっているんですよ。つまり、かつて100メートルを走ったスピードはもうないんですよ。そのことは全日プロでよく分かったんだ。だからそれは非常に気を遣いながら、なおかつ長考して。長考というのはね、長考しなければ最善手が浮かばないという裏返しでもあるんですよね。だからうんと時間がかかるってことですよ、いい将棋を指すのにね。もちろん誰でも時間があった方がいい将棋が指せるんだけれども、それが極端なんですね」

(中略)

「あ、そうそう、全日プロをやり直せ。やり直すように深浦にちょっと言っといてくれよ。あのね、名人戦の最中だったからあんなことになったんだけど(笑い)、やり直せって。もっとも深浦四段にあれだけ戦えたのだから、名人戦はいけると自信がついたけどね(笑い)」

(中略)

「第3局はね、5月の連休がそこにあった、ということが非常に大きなことだったですね。まず5月の連休に10秒将棋大会をやったわけだ。その中で僕は4位に入った。これで自信を深めたね」

―ちなみにメンバーは。

「1着中川大輔、2着森内俊之、3着佐藤康光、そして私が堂々の4位。それでこのメンバーで4位になれるのならばと。というのは、秒読みは極端に弱いと思ってましたからね。それで続いて全日プロがあったわけだ。だけどその全日プロは、頭の中は違うことを考えてたわけですからね(笑い)。それで島研へ行ったわけですね。教えて下さいと」

(中略)

「とにかく今回の第4局にはグロンサンがついとる。それで摩訶不思議な、好位置にいる3六銀をわざわざ一手かけて2六銀という形に戻して、3六に桂を打ち据えて飛車角銀桂を2四の地点に一点集中させて集中砲火を浴びせる。このグロンサン攻撃が実を結んだんですね。ただその前にね、△9四歩と突いてきた手に対して▲9六歩に112分考えたんですね。あそこで▲9六歩と突けたんで勝てたんだろうと思いますね、今振り返ってみると。しかし、その手が最善手かどうかは分からないんだよ。つまりね僕が112分考えたのは一方的にこちらから攻める展開にするんではなくて、攻撃の理想形を敷いておいて相手に攻めさせる、そういう将棋に持ち込むことでね。ま、それが名人戦なんだね。最後の最後になった時、▲9六歩と突いてある手はでかいんですよ。当然王様の逃げ道とかいろんなことでね。突いてなきゃ詰みだったのにとか、最後はスレスレになるからね。それが突いてあるから今度は攻められてはたまらないと、向こうが攻めてくるわけだ。こういう理想形を敷いて▲9六歩というのは、攻めてこうという手なんですね。案の定やってきた。しかしそれがどうも無理だったようだ。非常にうまくいった」

(中略)

―最後にファンの方々に一言。

「今回勝てたのは、全国の、ニューヨークからもきましたけど(笑い)、とにかく米長ファンのね、支持者の総結集の力ですね。ありがたいことです。全く将棋を知らない人からもね、随分いろんな励ましの手紙などを。これからの仕事はファンの皆さんへお礼をさせていただくことですね」

* * * * *

1993年の名人戦、米長邦雄九段は中原誠名人に4勝0敗で勝って、初の名人位を獲得した。

このインタビューは、米長邦雄新名人誕生の翌朝のもの。

締切り間近の日程であったようで(本格的な特集は翌号で組まれている)、インタビューの書き起こしの段階であまり時間が取れなかったのかもしれず、米長名人の話した言葉がそのまま載っていると思われる箇所が多い。

少し読みづらい(人の話した言葉をそのまま書くと、そうなる場合が多い)反面、米長名人の言葉を直接聞いているような迫力も感じられるインタビューになっている。

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「またあの弱いのが来たなあ。来たら酒の話はする、女性の話はする、もうあれが来ちゃ困るんだ。おまけに将棋の勉強をしたって全然参考になんない」

このインタビューでは、米長名人が本当に爽やかに、名人戦へ向けての手の内を明らかにしている。

自宅の道場での多くの若手との研究会が実を結んだ形だ。

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「とにかく勝てたのはグロンサンの勝利だよ。グロンサンてのは佐藤康光のことなんだ」

グロンサンは、佐藤康光六段(当時)のお父様の勤務先に由来している。

米長名人は、この6年ほど前に、将棋マガジンの企画で佐藤家を訪問している。

佐藤康光四段(当時)「少し感染されてきてるかもしれないですね」

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「摩訶不思議な、好位置にいる3六銀をわざわざ一手かけて2六銀という形に戻して、3六に桂を打ち据えて飛車角銀桂を2四の地点に一点集中させて集中砲火を浴びせる。このグロンサン攻撃が実を結んだんですね」

どのような局面での攻撃態勢の組み替えだったかは、この次号の座談会で取り上げられている。

羽生善治竜王、田中寅彦八段、森下卓七段、佐藤康光六段による座談会

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とはいえ、島研での研究局面が現れたのは第4局だけなので、第3局までは通常通りの勝ち方。

この期の名人戦で、中原名人はいろいろなアクシデントも重なって本来の自分の将棋が指せなかったようだ。

悲劇に挟まれた名人戦

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「あ、そうそう、全日プロをやり直せ。やり直すように深浦にちょっと言っといてくれよ。あのね、名人戦の最中だったからあんなことになったんだけど(笑い)、やり直せって。もっとも深浦四段にあれだけ戦えたのだから、名人戦はいけると自信がついたけどね(笑い)」

この件には後日談がある。

将棋世界1993年8月号、「インフォメーション」より。

第11回全日プロ表彰式

 米長九段(当時)を3-2で破り初優勝を飾った深浦康市四段の表彰式が6月17日、東京・丸の内の「東京會舘」で行われた。

「あなたに教わったおかげで、名人になれました」という米長名人の祝電が紹介された後、謝辞に立った深浦四段は「妥協のない将棋人生を目指して、精進を続けます」と力強く語った。

爽やかで粋な米長名人だ。

 

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