真部一男八段(当時)「中原・米長それぞれの羽生世代対抗作戦」

将棋世界1993年8月号、真部一男八段(当時)の「米長新名人、その意義を考察する」より。

 今期第51期名人戦はここ数年の名人戦の中でも特に興味を引かれる組み合わせであった。もっとも米長新名人は周知のごとく七番勝負の常連で、殊に45期からは続いて47、49、51期と碁でいうところの一間飛びの挑戦で、これは大変珍しくもあり、また素晴らしい記録であるともいえる。7回挑戦のうち6回までもが中原名人であり(第47期のみ谷川名人)組み合わせとしての新味はやや薄いかもしれぬが、それでも私にはこれは両雄にとっても将棋界にとっても、ひとつの節目になる戦いのように思われた。

 その理由のひとつはやはり羽生のA級入りである。既に何年も前から時間の問題といわれてはいたものの、実感として感じるのとでは緊張感が違う。

 竜王位を手中にし王座、棋王と併せ三冠王の羽生が一方の王者であることは論をまつまい。

 しかし竜王戦が誕生する以前に棋士を志した者にとって名人位はその伝統とともに憧れのタイトルである。いかなる天才といえどもC級2組から5年の永きにわたって強さを維持できなければ名人位に近づけぬという独特のシステムがタイトルに重厚味を加えている。

 一方その年の最強、最好調者が即座にタイトル者となれる竜王位をはじめとする各棋戦が、現実的な興味と興奮をもたらせてくれる。順位戦問題を考える場合名人位の重みを支えているのはこのシステムであることを銘記せねばなるまい。

 話が脇道にそれてしまったようだ。

 軌道修正をしよう。

 私が今期特に興味をひかれたというもう一つの理由は、両者の年齢についてである。

 将棋というゲームは40歳を過ぎた頃から終盤を速く正確に読む力に翳りがでてくるのである。これはもち論各人の資質、鍛錬その他によってまちまちではあるが、一応の目安を40歳としておこう。

 大名人中原誠にしてもそうではなかったか。これから述べることはあくまでも私の推論であるから、見当外れのところはどうぞご寛恕のほどを。

 二流の棋士であれば迅速正確な終盤力の衰えを感じ始めたとき、まずその事実を認めるのを拒否するであろう。

 言い訳の材料などいくらでも思いつく。夕べは少し寝不足だった、このところ少し勉強不足だった、つまらぬテレビ番組を見た、カミさんと口論をした、難しい本を読み過ぎた、ひどいのになると、相手が強かった、等々。まあ、最後のは冗談にしても、カミさん以外の口実はすべて私にあてはまる。

 しかるに中原はどう考えたか。

 あそらく氏は事実を事実として受け入れたのであろう。それは辛いことだったに違いない。しかしこれからも自分は戦い続けねばならない。米長はいうに及ばず、羽生、谷川、そして跫音がもうそこまで聞こえる森下、森内、佐藤康、等の俊秀達。彼ら若手の澄み切った強靭な頭脳に打ち勝つにはどのような方法をとるべきか。秒読みにおけるギリギリの終盤に強みを見せる彼らに対処するのは、まずは持ち時間の配分である。これはもとより中原の得意とするところであるから、さして問題はないだろう。

 これぞ中原の真髄と私を唸らせたのは3年前、谷川から名人位を奪い返した第48期名人戦における、相掛かり5六飛戦法であった(1図)。記憶の良い読者であれば、誰が見ても何だこの手はという雰囲気であったことを想起されるであろう。

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 巷間、内藤の華麗奔放、米長の剛力無双といわれる棋風に比べて中原の重厚精緻と表される棋風はどちらかといえば、地味な印象に受けとられてきた。

 しかし40歳を過ぎていよいよ中原本来の独創性その強情我慢ぶりが将棋に現れてきたのである。

 名人が多採する戦法を真似る者が殆どいないというのも珍しい現象ではないか。真似ようにも出来ないのである。

 中原の独創性があってはじめて指しこなせる戦法だからである。

 中原は自ら独創性を発揮する戦略として急戦調の不定型将棋を編み出したのである。

 定型の将棋は何といっても知識量と研究量がものをいう。生活時間の大半を将棋に打ち込める若手との研究合戦では分が悪いのは目に見えている。

 しかも中原の不定型将棋には、部分的な手の修正、改良とは質の違う構成力がある。

 こういった全体の全体勘(こんな言葉があるのかどうかはしらないが)でもって序、中盤をリードして終盤に持ち込む、さすればギリギリの競り合いにはならずにすむ。とまあ勝手に分析すればそういうことになる。

 この考え方のひとつのヒントになったのは、2年程前に囲碁の某九段との会話で、九段がいうには、最近林海峰天元の碁風が変化したとのこと。

 以前はゆっくり構えてぴったり相手についていき侵分で抜き去るといったケースが多かったのだが、近頃は仕掛けが早くなり早いうちから大きな戦いに持ち込む碁が増えてきたとのことである。

 これは九段の説明によれば年齢とともに目算の力が衰え(プロでも同じ地を何度も数え直すことがあるそうだ)ヨセ勝負に自信が持てなくなったので、戦い抜くことで半目勝負に持ち込ませないといった意味合いがあるらしい。

 碁の浸分と将棋の寄せでは性質が違うが、速さと正確さが要求される点では共通している。碁においても戦いは不定型であり要は石の能率を見極める目であろう。そういった能力は年をとってもそう衰えるものではないらしい。

 ちなみに林海峰天元は51歳、怪物藤沢秀行王座は何と69歳である。

 さて中原より4歳年長の米長はこういったあたりをどう捉えていたのだろう。

 もとより米長の独創性が並外れて秀れていることを否定する者はいない。

 ただその質が中原のそれとは異なっているように思われる。

 その一例が今では常識とされている米長玉に表れているのではないか。

 この手は米長独自の嗅覚とでも言おうか、最終盤に対しての独特の目を持っているようである。

 中原を構成力とすれば米長は見切り、あるいは間合いと言えるかもしれない。

(中略)

 かつて無造作とも評された米長の序盤。それをここ数年来の若手棋士との共同研究によって克服しようとしているのは世に喧伝されているところである。

 中原の生き残り作戦が独創的戦法の案出であるとするならば、米長のそれは不得意分野への挑戦と見ることもできる。

 これは両者の人柄から受ける印象からすれば、あべこべの道を選んでいるようにも思われ興味深いところである。

 ただ先月号のインタビューで米長自身語っているように、研究会で得る直接的な知識よりも、そういった研究の場に身を置くことによって脳を将棋脳にしていく効果が大きいのであろう。

(以下略)

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真部一男八段(当時)の非常に明快な論旨展開。

中原誠名人が独創的戦法の創出に向かう方向性とすると、米長邦雄九段(当時)は不得手分野の克服という方向性。

米長邦雄九段の若手棋士との共同研究の積み重ねが、中原名人から名人位を奪取した原動力となったとも言えるだろう。

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しかし、短所の裏返しが長所、長所の裏返しが短所。

河口俊彦七段は将棋世界1993年3月号、「棋士・米長邦雄追悼特集 後世に残る名棋士」で、次のように書いている。

 今言ったように、米長将棋は、序盤でリードし、以下誤りなく寄せて快勝、という例が多くなったが、そうなると、米長将棋の魅力が薄れてしまった。

魅力とは「泥沼流」と呼ばれた強靭な粘り腰こと。

筋の良い序盤だと「泥沼流」が出なくなってしまい、河口七段は名人になる前後の米長将棋には魅力を感じなかったと書かれている。

さらに、

 名人になってからの衰えの早さを思うと、もし「泥沼流」のままでいたら、と考えてしまう。そして60歳過ぎてもA級にいただろうと思う。ただし名人にはなれなかった。

 一度でも名人になったのは大変なキャリアである。だから米長に悔いはなかったはずだ。

とも。

やはり、将棋の奥は深く、難しい世界なのだ。