将棋世界1993年10月号、中野隆義さんの第34期王位戦七番勝負第4局〔郷田真隆王位-羽生善治四冠〕観戦記「自在の戦士」より。解説は先崎学五段(当時)。
きのう指された将棋が今日はもう研究会の俎上に載っている、というご時勢である。
定跡は、指された時点での互いの最善とされる応酬であって、それは常により高度な水準に向かって変化していくものと心得てはいたが、つい2、3日前にうまくいった手順が今日は通用しないどころかそれを上回る好手にあって一敗地にまみれる、などということが日常茶飯事であるというのは尋常なことではない。
新手法を開発すれば3ヵ月は食えた、という頃がつい二昔ほど前にあったことがとても信じられない。記者はあの頃でさえ「特に矢倉ってのは難しいなあ」と思っていたから、昨今の矢倉の序盤から中盤にかけての丁々発止のやり取りは、もう、ただ目を真ん丸にして見守るばかりである。
読者の皆さんにとっては、かように心もとない記者ではあるが、本局は解説役を先崎学五段にお願いした。どうかご安心召されたい。
(中略)
早朝、と言っても午前9時であるが、羽田を飛び立てばお昼前には博多の人となる。さっそく控え室に入れば1図の局面が継ぎ盤にあった。予想通りの相矢倉。ああ、先ちゃんに解説を頼んでおいて良かったと喜べば、「では序盤の講義を一つ」と、先崎解説である。
「1図まではオーソドックスな現代矢倉の序盤戦で、羽生が△6四角としたのは郷田の攻めを牽制する作戦。△6四角の手で△4三金右なら▲3五歩△同歩▲同角と先手が3筋の歩を交換しにいく将棋となる公算が大きい。本人に聞いてみた訳ではないが、恐らく羽生はその将棋は先手が十分と見ているようだ。また、△6四角には▲6五歩と突っ張っていく指し方が先手にはあるが、これは平気と羽生は見ているのではないかと思う。△6四角が早い決断(4分の考慮)であることからそれと察せられる。まあ、大抵は、この後▲6八角から▲7九玉~▲8八玉と王様が入って▲4六銀と出る将棋になるでしょう」
へえー。と感心しながらも展開予想はあくまで予想だから、あんまりあてには……。と思っていると、局面は先崎の言った通りに動いていく。参りました。
(中略)
1日目午後。ゆったりとした盤上の進行に、平和な空気が漂っていた控え室は、ノータイムで戦端を開いた郷田の烈帛の気合に一発ビンタを食らったようにハネ起こされた。▲4八飛(2図)と、つがえた矢を引き絞ったと見るや、ここからなんと4手連続のノータイム指しである。
2図以下の指し手
△4四銀右▲4六歩△同歩▲同角△5五歩▲4五歩△同銀▲5五角(3図)▲5五角(3図)。天王山で角がガツンとぶつかったところで羽生が長考に入り、封じ手となった。立会人の田中寅彦八段、副立会人の脇謙二七段らの封じ手予想は、まず十中八、九△4四銀であろうだった。大決戦は必至である。
3図以下の指し手
△4四銀▲4五飛△5五角▲同飛△同銀▲同歩△4九飛▲3八銀△6九飛成▲6八金引△5九竜▲4八銀打△5五竜▲4六角△5二竜▲8二角成△同竜▲4七銀右(4図)2日目は開始早々から華々しい戦いとなった。郷田が飛車を切って銀2枚との2枚換えを決行すれば、羽生は手にした飛車を△4九飛と先手陣深く打ち込んで反撃急である。
この大決戦は前例があり、代表的なところでは2年前のA級順位戦・有吉対谷川戦が、本局の封じ手の局面から11手目の△5九竜まで全く同様に進行している。その将棋は後手番の谷川が勝った。本局の郷田は、負けた方を持って指している訳で、この辺りがいかにも郷田らしいなと思われるところである。
自分の判断で指せると見れば、たとえ廃鉱とおぼしき山でも人跡未踏の原野でも突き進まずにはいられないという血は新手一生の升田と同系統のものだ。
羽生の△6九飛成は細心の芸。▲6八金引とさせることによって将来の△7五歩の突っ掛けの威力を増幅している。
▲4八銀打と、さらに竜をしかりつけ、△5五竜に▲4六角と後手の竜か飛車をよこせと打ったのが郷田の用意した新手法。銀2枚を自陣に投資したのはもったいないとはいえ、自陣から竜を追っ払ってしまえば金銀の厚みも生きてこようとの大局観である。
かくして、恐らくは誰も見たことがないであろう4図の異形が出現した。
4図以下の指し手
△9四歩▲6七金直△9五歩(5図)4図で羽生が指した△9四歩は、なんとも不思議な一着だった。
先崎は言う。「ここは、とにかく△7三桂と跳ねて、次に△6四歩から△6五歩の攻めを狙って行きたいところですよね。それを△9四歩ねえ」
言外に、とてもボクには指す気になれません、の響きがあった。
遊び駒を攻撃に活用すること。先手の右翼の銀の塊が働き出す前になんとか手にしたいこと。等々の情勢をかんがみれば、△7三桂は理にかなった非常に筋のいい指し方である。それに引き換え△9四歩は悠然とし過ぎていて、どう考えても解せない一手である。
しかも▲6七金直に対してさらにじっと我慢の△9五歩(5図)には、もう、なにか今日は将棋でない他のゲームを見に来ているような錯覚に陥った。
「△9五歩。囲碁だと地が広いですね」
と誰かが言う。かなり面白いジョークと思われたので、思わず大口を開けて笑おうとしたら、どうしたことか部屋の空気がまるでシンとしている。皆、異種空間に放り出されたような不思議に包み込まれていた。
5図以下の指し手
▲4六銀右△4五歩▲同銀△4四歩▲5六銀引△2八角▲3七桂△1九角成▲4五歩△8六歩▲同銀△8三香(6図)局後、郷田は5図で単に銀を出た手を悔やんだ。4六に銀を出るなら先に一本▲3五歩の突き捨てを入れておきそうなものだし、郷田の当初の予定は、▲3五歩△同歩に▲1七桂として次に▲4六銀右と出て行く手を窺おうというものであった。それが、なぜ単に▲4六銀右としてしまったのか。
先崎は言う。「▲3五歩の突き捨てなんか、手としては常識で、気がつかなかったとか見落とすとかの問題ではありません。▲3五歩は筋だけど、ただ、もしかすると指し過ぎになる恐れがある。相手に余分に1歩渡しますし、場合によっては位を張られるってこともある。だけどねえ、あの局面では先手の銀3枚の厚みがそりゃもう凄いから、そういう心配をすることはなかったんですよね。歩の数にしたって0だったのが1になるとかだったら大変だけど、もう後手は3歩も持ってたんでしょ、3が4になろうが4が5になろうが、とにかくそのくらいになったら1歩渡すも渡さないもたいしたことない意味があるんですよ」
郷田も、それは百も承知のことだと思う。しかし、実際に指した手は予定の▲3五歩ではなく重たい▲4六銀右。控え室同様、郷田もまた羽生の不思議空間に引き込まれてしまっていたのかもしれない。
この辺りの羽生の感想が興味深い。
「今までにない特殊な局面になりましたので、どう指していくか非常に難しいと思っていました。先手陣には、囲いが二つあるみたいで、直ぐに攻めていくと矢倉は壊せても王様を3枚の銀の方に逃げられてかえって先手の駒を働かせることになる恐れがあります。そこで、端歩を突いて攻めを我慢したのですが、結果的にそれがうまくいったようです」
羽生もまた悩んでいたのだ。
しかし、大事にいこうとした郷田の指し手は裏目と出、羽生の辛抱は実を結んでいった。勝負の機微まさに微妙なり。
▲4六銀右に△4五歩以下、羽生は機敏に動いて郷田陣に角を打ち込み、香を奪って攻勢に移った。前譜とは打って変わった活発な動きである。局面に合わせて自然に最良の脚質をみせる羽生の指し振りにはため息が出るばかりである。
先ほどまでは、形勢不明、先手も十分指せるのではないかと思われていた継ぎ盤の検討が、次第に羽生優勢に傾き出した。羽生が△8三香(6図)と8筋に香を突き立てたところでは、「どうも、先手がダメですね」の声まで聞こえてくる。
ええっ。そんなこと言ったって、さっきまでいい勝負だったのだからなんとか先手も頑張れるはずだ。頼みの先崎に、「何かいい手はないの」と水を向ける。
「ダメ……。でしょう」
「そりゃないよ、先ちゃん」
ダメ、と言うと、読者の皆さんはかなり差が開いてしまったような印象を受けられるかもしれない。プロの言うダメは本当に大差の場合もあるにはあるが、大抵は一手の差なんてないことの方が遥かに多い。一手でもぬるいことをやれば、形勢はひっくり返る。ただ、相手が羽生くらいになると、容易にぬるい手を指してくれないという信用があり、それが盤側をして形勢の差を実際より大きく感じせしめるのだった。
冷たい継ぎ盤をよそに郷田は踏ん張った。
(中略)
▲7九玉(7図)は、恐ろしい手。△8七銀の打ち込みが王手にならないようにし、次はなんでも突撃の気構えである。田中八段は「徳俵に足を掛け、土俵際の投げの打ち合いに勝負を懸けた手」と評した。
7図以下の指し手
△4六歩▲3三香△4七歩成▲3二香成△同玉▲2五桂(8図)34分の考慮の後、羽生は郷田の勝負手に真っ向から立ち向かった。大向うを唸らせる投げの打ち合いの実現である。
▲3三香の打ち込みから金をはがし、▲2五桂(8図)と跳躍する郷田。
「うーん、さすがに▲3三金を打たせてはいけないから、△3四金と歩を払うんでしょうね」
「そりゃそうですね」
▲2五桂に対する△3四金の変化を検討する継ぎ盤の元に、対局室から指し手が入る。
「えっ。△4八と金……」
「ま、まさか」
記者も思わず我が耳を疑った。逆転の予感が脳裏をよぎる。
8図以下の指し手
△4八と▲3三金△4一玉▲7一飛△5一歩▲7四飛成△6四馬▲4二歩△同竜▲同金△同玉▲2二飛△3二銀▲6四竜△同歩▲3三角△同桂▲3二飛成(9図)△4八とは詰めろではない。一方の▲3三金は強烈無比。後手玉は下段に落とされ、一遍に寄ってしまいそうな格好である。
「これは、逆転しちゃうんじゃない」
「ホント。信じられない手順ですよね」
俄に色めき立つ盤側。
が、羽生の足取りは、△4一玉2分、△5一歩1分と確かであった。そして、▲7四飛成に△6四馬の強防。
▲4二歩には△同竜と清算してしまえば、なるほど、素飛車一本では先手の攻めは切れているのだった。
「へえー。読み切りなんだ。驚いたもんだね、これは」と、先崎。
「それにしても、凄い決め方ですよね。どこから読み切ってたのかな」
棋譜を追ってみると、7図直後の△4六歩の34分がそれらしいと分かる。それにしても、一手一手が激しい変化を内包する中、よくもあんなに遠くから正確に読み切れるものである。
この決め方だけでも特筆ものと言えるが、盤側は、羽生の強さをさらに知らされることになるのだった。
▲3二飛成(9図)の局面は、すでに勝負あったの図である。なぜなら、竜を取らずに、ハイさよならと王様を逃げても後手の勝ちがハッキリしているからである。
だが、3二の竜を取って、以下▲3三歩成△4一玉▲5三銀と自玉に必至を掛けられた瞬間に、豊富な持ち駒を利して先手玉を即詰に討ち取る順も継ぎ盤では検討されていた。しかし、その詰みは途方もない長手順である。そして、何より、勝つためなら即詰を読む必要はないのである。
かような局面にあって、羽生の持ち時間は17分。
「取るかなあ。竜」
「取る訳なんかないですよ。その必要はないんですから」
「僕だったら、持ち時間が30分あったら即詰みの順は読み切りますけど、それを読み切った上で指さずに王様逃げちゃいますよ(笑)。なまじ余裕があると読み抜けがあるんじゃないかなんて思うしね。こういうのはかえって時間がなくて神経がビンビン張ってた方がいいねん。でも、時間がないのもやっぱり怖いなあ」
「僕は、1分将棋でも詰ましにいくかもしれない」と、勇ましいことを言ってくれたのは脇だったか。
カンカンガクガクの論議の結果は「やはり、王様逃げて▲3三歩成に△5九飛と打ってそこで投了」が本命となった。
9図以下の指し手
△同玉▲3三歩成△4一玉▲5三銀△3九飛▲6九桂△同飛成▲同金△5七角(投了図)
まで、126手で羽生四冠の勝ち。終局の知らせを受けて対局室に雪崩込む。つま先立って後方より記録机越しに盤上を覗き見ると、そこには△5七角までの局面があった。羽生は、王様を逃げなかったのだ。目線を落として記録係の手元に置かれた棋譜を見る。△3二同玉の着手に払われた考慮時間は僅かに2分。つ、強い。
△5七角からは、▲6八飛△同角成▲同金直△5九飛▲6九角△8七桂▲8八玉△9八飛!▲同玉△9九桂成▲同玉△9八香▲同玉△8七銀▲同金△同歩成▲同玉△8四香(参考図)以下の即詰である。先手の王様が上に出ていく変化の中で、8一の桂馬が立派に働いていると気付いた記者は、竜を取り切った羽生に深く頭を垂れた。
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「局面は先崎の言った通りに動いていく。参りました」
先崎学五段(当時)は、NHK衛星放送の番組での取材で同行していた。
非常に力強い同行者だ。
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この対局の前夜祭では、小さなハプニングがあった。
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「本局の郷田は、負けた方を持って指している訳で、この辺りがいかにも郷田らしいなと思われるところである。自分の判断で指せると見れば、たとえ廃鉱とおぼしき山でも人跡未踏の原野でも突き進まずにはいられないという血は新手一生の升田と同系統のものだ」
2図から始まる大決戦、そして郷田真隆王位(当時)の新構想。
△4九飛と打たれた飛車を、どんどん責めながら追っ払って、最後は飛車角交換に持ち込む魔法のような手順。
そして先手陣の3筋~4筋にできた銀3枚のスクラム。
「かくして、恐らくは誰も見たことがないであろう4図の異形が出現した」
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「今までにない特殊な局面になりましたので、どう指していくか非常に難しいと思っていました。先手陣には、囲いが二つあるみたいで、直ぐに攻めていくと矢倉は壊せても王様を3枚の銀の方に逃げられてかえって先手の駒を働かせることになる恐れがあります。そこで、端歩を突いて攻めを我慢したのですが、結果的にそれがうまくいったようです」
4図からの△9四歩~△9五歩の意味が非常によく理解できる。
銀3枚は、状況によっては金2枚と銀1枚の矢倉囲いよりも堅い場合もありうる。
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「郷田も、それは百も承知のことだと思う。しかし、実際に指した手は予定の▲3五歩ではなく重たい▲4六銀右。控え室同様、郷田もまた羽生の不思議空間に引き込まれてしまっていたのかもしれない」
羽生善治四冠(当時)が妖気を放っているわけでもないのに、理屈では説明がつかないような展開。
強いて言えば、4図からの△9四歩~△9五歩が結果的に羽生マジックとなるのだろうか。
「しかし、大事にいこうとした郷田の指し手は裏目と出、羽生の辛抱は実を結んでいった。勝負の機微まさに微妙なり」の言葉が心を打つ。
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「へえー。読み切りなんだ。驚いたもんだね、これは」
8図からの△4八と、9図からの△3二同玉、羽生四冠は最速の手順で決めに行く。
王位の初獲得、五冠王のこと、などを意識するような羽生四冠ではない。
目の前の局面の最善の手順を尽くしただけだと思う。
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近代将棋1993年10月号、高林譲司さんの「第34期王位戦 羽生、史上最年少の五冠に」より。
「結果は仕方ないことですが、第1、第2局でお粗末な将棋を指し、課題を残しました。また、やり直して必ず王位戦に出て来ます」
郷田前王位の感想は淡々とした中に、郷田らしい真剣さがにじみ出ていた。前期、初タイトルを取り、今期失冠。たった1年間でめったにない大きな体験を二つもした。郷田は必ず出直して来るだろう。課題を残したという言葉に、何かをつかんだという意味が込められているような気がするのだ。
一方の羽生は、これで五冠王。22歳は史上最年少である。
「まだピンときません。日に日に実感が湧いてくるでしょう」
と、こちらもすがすがしい感想。将棋界は大変な棋士を得た。「羽生時代到来』といっても誰も文句はいわないだろう。しかし谷川王将、また郷田前王位、森下、森内、佐藤康、深浦などなど、精鋭がずらりといるし、米長名人、中原前名人だって、俺たちを忘れては困ると、タイトルを虎視眈々と狙っている。羽生五冠王はこういう人々を相手に、タイトルを守り続け、また六冠七冠と挑んでいくことになる。
(以下略)
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「また、やり直して必ず王位戦に出て来ます」
この言葉の通り、郷田五段(当時)は、翌1994年と1995年、王位戦で連続で挑戦者となっている。