「最も実戦の数が少なくて奨励会に入った」棋士と「最も実戦の数をこなして奨励会に入った」棋士

近代将棋2000年1月号、武者野勝巳六段(当時)の第12期竜王戦〔藤井猛竜王-鈴木大介六段〕第2局観戦記「故郷へ錦を飾った一局」より。

「藤井猛」命名の由来はボクシング世界チャンピオン

 藤井猛竜王は群馬県沼田市の出身なので、私の同県の後輩に当たるのだが、不思議なことに彼が奨励会に入る直前まで存在を意識したことがなかった。

 私は群馬県に住むレッスンプロだから、年に何度も県の大会やイベントに出席する機会がある。そこに将棋の強い少年が参加してくれば、当然「おっ、こんな有望な少年が現れたか!」と気づくハズなのだが、そういったことがなかったのだ。

 群馬県は日本将棋連盟の支部活動が盛んなところで、支部会員100人を超える支部が4つもある。沼田支部もその一つで、それゆえ指導者とぶつかり稽古の相手にはこと欠かないのだが、藤井少年はそうした大会や道場にはあまり顔を出さず、だから市の代表として県大会に進出することもなかったのだという。

 昭和61年に名人戦の対局が群馬県伊香保町で行われ、大盤解説会の会場で初めて「あの子が沼田の藤井猛君といってね。プロを目指して頑張っている少年だよ」と教えられたのだ。そのときの藤井少年の眼光は異様なほど鋭くたくましさは覚えたが、地元の高校への入学が決まっているという。私は「ふじいたけしって、そんな名前のボクサーがいましたよね」と、ハワイ移民者の英雄である世界チャンピオン藤猛の名前を出して、さりげなく話題を変えた。

 東京では同じ年の羽生善治という天才が、四段としてデビューし勝ちまくっていた頃で、いかに脳天気な私でも、「それはいい。ぜひ奨励会に入るお手伝いをさせてください」などとは、とても言えない状況だったからだ。

 後になって知ったことだが、藤井は昭和45年9月29日生まれで、9月27日生まれの羽生とはわずか2日!しか年が離れていない。しかもお父さんはボクシングファンで、猛少年命名の由来は本当に!藤猛チャンピオンだったのだ。

父の希望を叶えた棋士・鈴木大介

 鈴木大介六段は東京都の出身で、お父さんは高名なイラストレーターの鈴木康彦氏。以前は将棋雑誌にもよく挿し絵を描いていたから、ご存知の方も多いだろう。この鈴木氏が大内九段の教室にも通う熱心な将棋ファンで、大介という命名はもちろん大内九段の延介という名にちなんでいる。

 この大介少年は「息子がプロ棋士になってほしい」と希望するお父さんの手ほどきで将棋を覚え、大内教室でおとなに混じってプロの個人指導を受け、さらに将棋会館道場に通って実戦を重ねるという恵まれた環境で将棋を勉強した。

 将棋イベントでは康彦氏と楽しむ息子さんの姿をよく見かけたから、私も大介少年のことは注目していたが、将棋は「有名人子弟の習い事」という域を出ず、小学生大会で目立つのは傍らに立つにこやかな康彦氏と、大介少年の早指しばかり。そんなわけで大会開始から5分くらいで投了し、わずかな時間で会場を去っていく…そんなむなしさをまだ感じない幼稚な存在だったのだが、研修会での厳しい競争が、遊び盛りの少年を負けず嫌いで勝負に辛い存在に変えたようだった。

棋界の梁山泊!? 研修会

 こうして藤井と鈴木が出会ったのが将棋会館における研修会だった。研修会は奨励会予備軍の少年少女を集めて月2回の日曜日に開催するもので、プロを目指す子供たちに、本格的な将棋修行の機会を与える目的で設立された。

 先の藤井少年のように、将棋との関わりが遅いケースではプロ入りを勧めるのをためらってしまうが、月に2度の日曜を将棋に費やすだけなら入会を勧めやすく、親御さんの負担も軽くてすむ。また将棋界としても、試験本番に弱かった丸山八段のように、年に1度の奨励会試験では埋もれてしまう逸材も発掘できるという効果もある。胃が痛くなるような勝負の場を求めていた鈴木が、研修会入りしたのも当然だった。

 その鈴木は昭和49年7月11日生まれだから藤井より4歳年下だが、この研修会は同時期の入会で、藤井が抜群の成績で奨励会編入が許された2ヶ月後、鈴木も藤井の後を追って奨励会6級となっている。

 この機会に当時を振り返ってみると、この頃の研修会には二人のほかに丸山忠久八段、三浦弘行六段、行方尚史六段……など、地方出身で個性的な棋士がそろって在籍しており、エリートの奨励会に対抗する梁山泊のような存在だった。

対照的な二人の修行方法

 藤井は地元の名門・沼田高校に通いながら将棋の修行をしていた。町の道場へ行くのが気恥ずかしく、ひたすら新聞雑誌に掲載されるプロの棋譜を並べ、詰将棋を解いて勉強した。実戦といえば、月2回の研修会での対局のみだが、自分の棋譜を何度も並べ返し、負けた将棋を反省しては工夫を加え、勝った将棋にスキがなかったかをチェックする。こうした繰り返しで、徐々に藤井の頭の中には必勝システムが築き上げられていった。

 今こうして研修会員・藤井の日常を紹介すると、読者は漠然と「なるほど」程度に受け止めるだろうが、この昭和60年代初めは、中原・米長の40代の牙城に、谷川を筆頭とする20代の若手が次々と挑んでいった頃で、「居飛車党に非ずば棋界の覇者に非ず」が常識で、「矢倉は純文学」とさえいわれたのだ。

 加えて振り飛車に対しては、居飛車穴熊という難敵が登場して猛威をふるっていた。そうした状況で奨励会にも満たない一少年が、「四間飛車ひと筋で必勝システムを作ろう」と決意するなどは笑止千万のこと。だからこそ、この常識はずれを温かく見守った師匠・西村一義九段と、「矢倉を指せといわれたら将棋をやめていただろう」という藤井の強い意志がより光を放ってくる。

 鈴木も「四間飛車が自分の性に合っているな」と感じ始めていた。この頃に出会ったのがアマ強豪の内田昭吉氏で、現在『棋道指導員』として将棋普及に務める内田氏の教室に通うようになったのが、鈴木にとって飛躍のきっかけだった。

 内田氏は勝又清和五段、高野秀行四段、佐藤紳哉四段らを育てた教え上手で、ここでの修行は「ぶつかり稽古が主」だったそうだが、ライバルの存在も刺激になって効果てきめん。鈴木はたちまち小学生名人の栄誉に輝いたのだ。プロになった今でも、鈴木の修行方法は早指しの実戦で直感力を磨くのが主体で、「10秒将棋の達人」として恐れられている。

指し手の後ろにある物語を楽しむ

「最近のプロの将棋は数学的でおもしろくない」という声を聞くことがある。そういえば本誌でも団鬼六氏が「升田、大山時代が懐かしくなる」という表現で、指し手の後ろにある物語が見えてこないことを嘆いていたようだ。

 確かに升田、大山には内弟子時代からのエピソードが多く語られ、ファンはそれぞれの勝負に「この手には内弟子のときにいじめられた怨念がこもっている」なんて因縁を思い浮かべ、指し手の後ろにある物語を想像したものだ。

 そうしたことが少なくなったのは事実だが、しかしそれは「最近のプロの将棋に物語がなくなった」という表現とイコールではない。次から次と輩出される棋界のスター群に、エピソードの供給が追いつかないだけなのである。

 プロの間では、新人王戦や早指し新鋭戦で比類なき強さを見せる藤井の評価は高く、「数年のうちに必ずタイトルを掌中にする人」との観測が定着していた。だが、多くのマスコミは藤井の竜王奪取を「予想外の快挙」と報道した……

 豊富な実戦経験に裏打ちされた鈴木の勝負術や、高い勝率も棋界の話題だったが、残念ながら「鈴木の将棋は見ていて楽しい」ことを知っていたファンはごくわずかだった…

 このようにエピソードの供給が少なかったのは事実だが、「最も実戦の数が少なくて奨励会に入った」藤井と、「最も実戦の数をこなして奨励会に入った」鈴木。4歳ほど年の離れた二人は研修会時代から積み重なった因縁があり、それぞれの人生の糸が織りなす物語のクライマックスとして、この檜舞台を迎えたのだ。これからは、二人の指し手の後ろにある物語を楽しむ人も確実に増えてくるだろう。

一年前にあった陰の竜王決定戦

 藤井が高校を卒業して上京したとき、これまでの実戦不足を解消するべく、さっそく研究会に参加した。メンバーは同時代の奨励会員4、5人で、その中に鈴木もいた。

 こうした若いときの勝負を数えるとキリがないが、将棋連盟に残っている、二人がプロ棋士になってからの対戦成績は

9年NHK  鈴木四間飛車 鈴木◯
9年竜王  相振り飛車 鈴木◯
9年早新鋭 相振り飛車 藤井◯
10年竜王  鈴木三間飛車 藤井◯
11年新人王 相矢倉 藤井◯

これに先の第1局が加わるわけだ。

 それぞれの戦型を見ると実に興味深い。ともに四間飛車党なのだが、どちらが飛車を振るか…の駆け引きが高じたあまり、お互いが居飛車に進路を定め、このなりゆきの結果、相矢倉の戦型となってしまったものまである。

 そうした中でまず見ていただきたいのは平成10年に戦われた竜王戦の一局で、これは挑戦者を決める決勝トーナメントの1回戦だった。若手棋士には、この対局を「陰の竜王決定戦」とささやく者もいた。この二人の勝者が挑戦者になり、竜王も取るだろうという大胆な予想である。

 将棋はそうした予想に違わぬ大熱戦となり、迎えたA図で藤井は△3五銀という勝負手を放った。

藤井鈴木1

 双方1分将棋。頼るのは自分の直感のみという局面だが、藤井のあまりの勝負手に動揺した鈴木は「▲3六桂と飛車を取るのは、△2七歩▲同玉△2六香で負け」と即断し、泣く泣く▲3五同馬△同飛▲3六歩△3四飛▲1五歩と局面を長引かせたのだが、局後の感想戦で仲間から、「A図で▲3六桂と飛車を取るとどうなるの?」と問われた鈴木。この瞬間にすべてを悟り「あーっ!」と顔を崩して天を仰いだ。4四馬が後手玉をにらんでいるので、△2六香とはできない!それは即、藤井の負けを意味しているのだった。

 お互いの勘違いが交錯したが、これは主張の通った藤井に理するところとなり、▲1五歩以下は△7六角▲3九金△4九銀……と大駒の集中砲火を浴びては、鈴木の勝てない将棋になってしまった。

 若手棋士の大胆な予想どおり、この勝負を制した藤井は勝ち進んで挑戦者となり、4-0で谷川を破って竜王になった。そうして藤井のいない今年の決勝トーナメントで、鈴木は勝ちまくって挑戦者に躍り出た。

「陰の竜王決定戦かあ」1年前にあった深夜の激闘を、私は不思議な心持ちで思い出すのだった。

(以下略)

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1999年11月下旬、どこかの書店で近代将棋のこの号を買って、どこかで飲んで、そこそこ酔って家に帰ってきた夜のこと。

この観戦記を読んで、理由はわからないが、涙が出てきた。

翌年の将棋ペンクラブ大賞一次選考会で、私はこの観戦記を推薦した。

最終選考まで残ったが残念ながら受賞にはならなかった。

私は、深夜、酔いながら観戦記を読むと、涙が出てくる癖があるようだ。

故・原田康子さんが書かれた観戦記もそうだった。

原田康子さんの観戦記

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今月初旬に発行された将棋ペンクラブ会報秋号には、将棋ペンクラブ大賞を受賞された方々の「受賞のことば」が掲載されている。

技術部門大賞受賞の藤井猛九段の受賞のことばのタイトルは「12歳の頃の僕へ」。

「12歳の頃の僕へ」を読んで、この観戦記のことを思い出した。

「12歳の頃の僕へ」も、夜、酒を飲みながら読んだら、絶対に涙が出てくるだろうなと思った。

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明日は将棋ペンクラブ大賞贈呈式。

将棋ペンクラブ会員ではない方の参加も大歓迎です。

皆様のご来場をお待ちしております。

※受賞者の「受賞のことば」が載っている将棋ペンクラブ会報秋号は会場で750円で販売しています。

第27回将棋ペンクラブ大賞贈呈式のご案内(詳細)