永世名人の22歳

将棋マガジン1993年11月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:森内俊之 おっとり型の勝負強さ」より。

中原誠十六世名人、木村義雄十四世名人、大山康晴十五世名人。将棋世界1987年1月号より、撮影は弦巻勝さん。

五冠王と製粉業

 羽生五冠王が誕生した。「3+1=4」「4+1=5」と、あたりまえのようにタイトルをふやした。22歳にして、将棋界の地図を7分の5塗り替えてしまったことになる。

 五冠王は史上3人目だが、22歳というのは、ベラボウに早い。初代の大山康晴十五世名人が五冠を制したのは、39歳のときだった。2代目の中原誠前名人も、五冠王は34歳まで達成できなかった。

 中原は昭和45年に、22歳でA級八段に昇段した。「将棋界の太陽」と称されたが、タイトルは棋聖位しかもっていなかった。当時は、大山名人の存在が大きすぎた。将棋界は純然たる「昭和の時代」だったともいえる。

 大山は昭和19年4月に、郷里・倉敷で召集令状を受けた。21歳、六段だった。あと4勝すれば昇段できる。大阪に行き、4日間に4局指したが、松浦卓造四段(故人。後に八段)との香落戦に負けて、入隊前に昇段を果たせなかった。入隊すれば生きて帰れないかもしれない相手にも、花をもたせないのだから、なんとも凄い世界である。

 終戦は宮崎県の妻町(現西都市)で迎えた。時に22歳。以下、井口昭夫氏の『名人の譜 大山康晴』から引用させていただく。

<大山が郷里倉敷の家に帰ったのは10月だった。内地勤務にしては遅いほうだった。

 季節は冬に向かっていた。冬になれば畠仕事もない。さて、何をするか。それは日本人の誰しもが味わった大きな問題であった。(中略)

 大山家には陶器、茶道具など古い道具がたくさんあった。それを売って1万円で製粉機を買い入れ、製粉業を始めた。食糧難の時代で、メリケン粉を主に、製粉は直接、日本人の主食につながった。商売は大繁盛した。大山が徹夜すると次の日は父の鑊さんが徹夜した。将棋は指せなかったが、一家は食べていけた>

 大山、中原とくれば、もうひとり、木村義雄十四世名人にも触れておく必要がある。

 木村は大正15年に八段に昇段した。21歳の若さだったが、少年時代から長男として一家の生計を支え、生活の苦労をしてきたせいか、年齢より老けてみられたという。

 最高位の八段が独身ではおかしい、と身内からも知人からもよくいわれた。その年、見合いをして婚約もしたが、先立つものがなく、1年たっても結婚しなかった。窮余の一策で、誠文堂から頼まれたままになっていた本を書きはじめた。22歳のときである。『将棋一代』にはこう書かれている。

<私の処女出版たる『将棋大観』は、こうしてやっと世に出ることが出来た。四六版で650ページ。これだけの原稿を作るにはまた約半年を費やし、その間ほとんど夜の目も寝ない位だったが、しかし以前の1年あまり、1枚も書けなかったことを思うと、人間いくら忙しくても、断じて行う心になり、努力さえすれば何事でも、出来るものだということを、悟らぬわけには行かなかった>

『将棋大観』は昭和3年3月に出版された。木村八段は3月末に正式に結納をかわし、4月に結婚式を挙げた。費用は印税でまかなうことができたそうだ。

『将棋大観』は、いずれ書かれたにしても、結婚という大前提がなければ、執筆が遅れたことはたしかだろう。それにしても、あの格調ある文章を、22歳のときに書いたというのだから、恐れ入る。また、あれほどの大作を半年で書き上げた集中力と持続力、されにその原動力になった、ぎりぎりの生活感にも圧倒される思いがする。

華奢な秀才ではない

 羽生五冠王にも『羽生の頭脳』という評判のシリーズがある。いまや、このシリーズは、プロ棋士が教科書みたいに読んでいる。『将棋大観』同様に、後世まで読みつがれる可能性も充分に考えられる。

 しかし、著者がおかれている生活環境は、同じ22歳でも、当然のことながら、ずいぶんちがう。すくなくとも、羽生は生活のために原稿を書いていない。生活感とは無縁のエネルギーで原稿を書いている。まして、徹夜で粉を挽いていた22歳の大山とは、天と地ほどのひらきがある。

 中原にしても、少年時代は「戦後」の空気を吸ってきた。奨励会時代に先輩棋士にご馳走してもらった、カツ丼の味をおぼえている世代に属する。22歳のときは高度成長期とはいえ、まだ「飽食の時代」とは程遠い。

 時の流れとともに、将棋指しも変わらざるをえない。いや、将棋指しにかぎらず、時代とともに、若者が変わったというべきだろう。その意味で、羽生は「平成の五冠王」と呼ぶにふさわしいような気がする。

 どこがいちばん変わったか。木村名人も大山名人も、22歳のときは、平成時代の青年たちとくらべると、はるかに大人だった。それ以前から、いやおうなく大人になる修行をつづけていたんですね。

 豊かな時代に育った若者は、そんな修行をする機会がない。現代の若手棋士にとっては、極論すれば、将棋の修行が生活のすべてになっている。だから、「心・技・体」の「技」の部分が猛烈に突出してくる。その頂点に立ったのが、羽生善治五冠王ということになる。

 誤解のないように蛇足を加えれば、羽生は将棋が強いだけで、まだ子どもだというわけではない。どこへ出しても恥ずかしくない好青年である。最近は風格も出てきた。ただ、欲をいえば、好青年すぎるんですね。天下を取るほどの男なら、もっと毒っ気があってもいいんじゃないか、と思いたくなる。

 現在の将棋界は、技術系優位の企業に似ている。最先端技術を吸収し、それを駆使して新製品開発に先鞭をつけたエンジニアが昇進レースの最短距離を突っ走る。

 しかし、一口にエンジニアといっても、いろいろなタイプがある。ソニーの盛田昭夫会長も、もともとはエンジニアだった。本田宗一郎会長のように、根っからのエンジニアでありながら、枠からはみ出した大物もいる。

 羽生に代表される若手棋士群も、たしかに技術者集団の様相が濃いけれど、みんながみんな同じ顔をしているはずがない。たとえば、今回登場の森内俊之六段 ―10代のころ、羽生、佐藤康光六段等とともに”チャイルドブランド”の代表選手と目されたが、そのころから、華奢な秀才タイプではなかった。

 よく小学校や中学校のクラスにいるでしょう。おっとりとして、授業でも目立たない。体育の時間に活躍するわけでもない。そのかわり、クワガタを採る天才であるとか、ファミコンが抜群にうまいとか、頭抜けた特技をひとつもっていて、一目置かれている ―森内との初対面で、私は、そんな印象を受けた。

 森内が四段に昇段した年に、「将棋世界」が谷川浩司との対局を企画した。すでにして谷川はトップスターの座にあった。私は、その将棋を観戦した。当時、森内は17歳。畏れ多いくらいの対戦相手を前にして、ピリピリ緊張している様子もない。長身を猫背気味にかしこまっているので、あまり凛々しい感じもしなかった。伸び伸び育った青年という印象が強かったが、唇を突き出し気味にしたあたりに、きかん気の強さを感じさせた。

 将棋は森内が勝った。勝敗はともかく、感想戦で読みがくいちがって、谷川が苦笑まじりに首をかしげたのを、いまでもおぼえている。どうやら、実戦でもタイミングが合わなかったらしい。

 私は、元巨人軍投手の某解説者から聞いた話を思い出した。

「並の投手は”一、二、三”で投げるから、打者はタイミングをとりやすい。ところが”一、二、サーン”で投げられると、タイミングを狂わされちゃう。つまり、投手がボールを長くもっていればいるほど、打ちにくい。これは天性のものです。いいピッチャーは、みんなそれができる。おまけに球が速くて、コントロールがよかったら、もう鬼に金棒です」

 この伝でいけば、強打者・谷川は森内との初顔合わせで、案外、いやなピッチャーが出てきたな、と思ったかもしれない。

(つづく)

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生まれた時代が違えば、環境も大きく変わってしまうのは、どうしようもないこと。

棋士の場合は、特にその変動が大きいかもしれない。

高橋呉郎さんの文章が冴える。

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「入隊すれば生きて帰れないかもしれない相手にも、花をもたせないのだから、なんとも凄い世界である」

本当に凄絶な世界だ。

しかし、これが棋士の当たり前の世界でもある。

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将棋大観』は、駒落ち定跡を解説した名著。

執筆の背景にこのようなことがあったと初めて知る。

「その年、見合いをして婚約もしたが、先立つものがなく、1年たっても結婚しなかった」

木村義雄八段(当時)が一家の生計を支えていたとしても、当時の最高位の八段でさえこのような状況だったわけで、当時の将棋界や棋士がいかに苦しかったかがわかる。

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「大山が徹夜すると次の日は父の鑊さんが徹夜した」

大山康晴十五世名人のお父さんの名前の「鑊」は「かなえ」と読む。

ちなみに木村十四世名人のお父さんの名前は「鎌吉」。

十四世名人と十五世名人のお父さんの名前が二人とも金偏の漢字であることが共通点だ。

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関根金次郎十三世名人のお父さんは「積次郎」、中原誠十六世名人のお父さんは「亀之助」なので、金偏の漢字は十四世名人と十五世名人だけのようだ。

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「中原にしても、少年時代は戦後の空気を吸ってきた。奨励会時代に先輩棋士にご馳走してもらった、カツ丼の味をおぼえている世代に属する」

中原十六世名人は1947年(昭和22年)生まれなので、終戦直後の延長のような時期に子供時代を送っている。

昭和30年代の将棋界のカツ丼には特別な意味があり、芹沢博文九段は1987年の著書「指しつ刺されつ」で次のように書いている。

 カツ丼の恩義というのが将棋界にはある。カツ丼をおごられたら、食ってしまったら、どのような立場になろうとも”弟分”である。その喜び、忘れたと言ったらほとんど仲間外れにされてしまう。

カツ丼が、現在の10倍以上喜ばれた時代だ。

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「よく小学校や中学校のクラスにいるでしょう。おっとりとして、授業でも目立たない。体育の時間に活躍するわけでもない。そのかわり、クワガタを採る天才であるとか、ファミコンが抜群にうまいとか、頭抜けた特技をひとつもっていて、一目置かれている ―森内との初対面で、私は、そんな印象を受けた」

歴代の永世名人、木村義雄十四世名人、大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、谷川浩司九段、森内俊之九段、羽生善治九段の中で、外見から受ける印象で言うと、

クラス内の秀才タイプ……木村十四世名人、谷川九段、羽生九段

クラス内のおっとり穏やかタイプ……中原十六世名人、森内九段

分類不能・・・大山十五世名人

と、分けることができるだろう。

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「天下を取るほどの男なら、もっと毒っ気があってもいいんじゃないか、と思いたくなる」

中原十六世名人以降は毒っ気はなくなっていると思う。

毒っ気がないというのは良いことだし、毒っ気がなくても天下を取ることができるのが将棋界の良いところ。

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「五冠王は史上3人目だが、22歳というのは、ベラボウに早い。初代の大山康晴十五世名人が五冠を制したのは、39歳のときだった。2代目の中原誠前名人も、五冠王は34歳まで達成できなかった」

大山十五世名人の全盛期の時代は全冠制覇で五冠王なので、羽生九段にとっての全冠制覇となる七冠王になった時の年齢を見てみても、羽生七冠25歳。

そういう意味でも、羽生九段がいかに偉大な記録を打ち立てているか強く感じられる。

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永世名人の22歳の時の話。

藤井聡太七段はまだ17歳。

藤井聡太七段が22歳になった時、どのような飛躍を遂げているのか、楽しみでならない。