将棋世界1994年3月号、小室明さんの「下町ならではの将棋教室」より。
ご存知フーテンの寅次郎でお馴染み葛飾柴又は帝釈天の門前町だ。京成電車を下りると、駅前から門前までおよそ200mの間に、名物の草だんごやせんべいなどを売る茶店がずらりと並んで一年中賑わっている。帝釈天の裏手には、これも歌で有名になった都内唯一の渡し舟「矢切の渡し」も健在だ。
こんな下町情緒あふれる柴又のほど近くに、葛飾区高砂地区センターがある。
お屠蘇気分も抜けた1月11日火曜日の午後7時、私は同センター内で行われている、将棋教室を取材に訪れた。中央の襖を取り払った40畳敷の和室では、およそ40名の会員が、長テーブルに置かれた将棋盤を挟み、パチパチと気持ちよい駒音を響かせている。
(中略)
今日は平成6年の指し初めである。会員たちは思い思いに、棋力の似通った者同士で駒を進める。楽しい光景だ。
「王様はしっかりと囲ってから、戦いましょう。玉が薄いと強い戦いができませんからね」
と語る指導員の原豊治さん(67歳)。
(中略)
終戦後、ほどなく故郷の柴又に帰った原は、以前にも増して将棋に情熱を注ぐ。そのきっかけは関根茂九段との出会いに端を発する。当時柴又に「兵歩倶楽部」と称する将棋道場、というか将棋好きの集まる掘っ立て小屋があった。少しでも人家に装うべくゴザを敷きつめ、そこに将棋盤が二つ三つ並べられている。
銭湯帰りの原は、風呂あがりの一局というわけで頻繁に立ち寄るのだが、そこで出くわしたのが中学生の関根少年だった。原にとっては3歳年下の、願ってもない棋友というわけで、連日の名勝負が展開されることと相成った。
(中略)
もうひとりの指導員である加藤千明さんは、昭和9年4月生まれの59歳。
(中略)
加藤は、高砂一帯が焼け跡となった終戦直後、近所の原豊治氏に将棋とそろばんを教わった。すでに触れたように景気のよかった原は、やせ細った加藤に銀シャリをふるまい、将棋は王様と金将だけの8枚落ちで教えた。
(中略)
その後加藤は中央大学に進み、自らの専門領域である情報管理工学を生かし、水力発電、石油コンビナート、原子力関係のビジネスに携わるが、将棋への情熱は年々募り、昭和37年、関根茂六段(当時)の将棋教室に入門する。
(中略)
原と加藤がアマチュアの普及活動に参加するまでのいきさつを関根茂九段が語ってくれた。
「私の妻が始めた女性のための将棋教室『歩みの会』の指導を原さんと加藤さんにお願いしました。役員の中心になってもらいましてね。それと私も区で頼まれて春と秋に2ヵ月ばかり講座を受け持つんだけど、これが終了すると受講者との交流がなくなるので、おふたりにその受け皿となってもらって、5年前に『高砂歩みの会』をつくった。それ以来、講師として活躍されているわけです」
ふたりはこうした実績を買われ、平成3年11月、将棋連盟から男性としては初の将棋普及指導員の資格を得た。
(中略)
関根の願いはかない、原と加藤は熱心な指導を展開する。将棋はふたりとも大変に強い。原は銀河戦のお好み対局で某女流初段を平手で破り、加藤は夕刊フジの角落ち戦で羽生棋王に善戦した。原は五段、加藤は六段というだけのことはある。
(中略)
高砂歩みの会、希望の星は小学校3年生の渡辺明君だ。棋力はアマ四段、将棋連盟の研修会に通い、今では原さんと互角の将棋を指す。背筋をピンと伸ばし、鮮やかな手つきで駒をさばく。局面は終盤を迎えると、メタルフレームの奥のつぶらな瞳がきらりと光った。父親の孝さんが語るとことによると、
「2年前に2枚落ちで教えたんですけど、今では私といい勝負をします。最近は葛飾区の将棋大会にいっしょに出るのが楽しみで。いずれ本人の気持ち次第では奨励会入りも考えています」
(中略)
私の生まれ育った街、横浜は流れ者の多いいわば共同疎開の街である。中華街、ジャズ喫茶、ミッションスクール、横浜港と、街にはいつも異国の風が吹き、その風に誘われるように少年時代の私は、将棋道場の扉を開いた。将棋を5、6番指し、対戦相手ごとにその道場の空間にマッチした会話を楽しむと、知らず知らずのうちに夜の人波に紛れていた。私にとって将棋道場とは、ハードボイルドな世界であった。
だが高砂歩みの会を取材し、下町ならではの義理、人情に触れると、それは私にとってかつてない柔らかな皮膚感覚となって全身に広がった。文楽の落語に出てくるような旦那衆、人のよいおかみさん、親しみにあふれた指導員。彼らは将棋を媒介とした運命共同体なのだ。将棋とはそれぞれの地域に密着し、生活に根を張り、風雪に耐えて生き続ける。それでいて81の升目、40枚の駒はどこにいても同じ表情を見せる。そんな感慨を新たにした一日であった。
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上の写真、右側手前のメガネをかけている子が、渡辺明少年に見える。
お父さんの孝さんはアマ五段。
渡辺明少年は、この年の小学生将棋名人戦に優勝、更には奨励会試験に合格し、所司和晴六段(当時)門下となる。
渡辺明少年は、「北習志野将棋クラブ」と「高砂歩みの会」に通っていた。
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関根茂九段は東京都葛飾区の生まれ。葛飾区高砂に在住していた。
上の写真、左側に立っているのが関根九段。
渡辺明少年が関根九段と指したことがあるのかどうかはわからないが、関根九段から続く縁がつながっていたことがわかる。
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「王様はしっかりと囲ってから、戦いましょう。玉が薄いと強い戦いができませんからね」
もしかすると、玉をがっちり固めてから攻める数年前までの渡辺流は、この原豊治さんの言葉が影響していたのかもしれない。
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2013年5月の第38期棋王就位式では、「高砂歩みの会」の嶋田輝彦さんが祝辞を述べている。
この取材があった少し前、「高砂歩みの会」の忘年会のような場で、渡辺明少年は天才バカボンの歌を堂々と歌ったという。