「谷川さん、妬かないかしらね」

将棋マガジン1990年5月号、中平邦彦さんの第8回全日本プロトーナメント〔羽生善治竜王-谷川浩司名人〕決勝第2局観戦記「頂上決戦は対スコアに」より。

 将棋界が本当の意味で変わろうとしている。

 若さの奔流が、音立てて流れて、その勢いをもう誰も止められない感じがする。ソ連や東欧の激変、誰もついこの前まで予想もしなかった国際社会の枠組が変わるのに似ている。それがいい方向に向かうかどうかはわからないが、激動を自分の目で見ることができる幸せを思う。

 谷川名人と羽生竜王。

 将棋界の激動を代表するチャンピオンは、この二人以外にあるまい。この二人が、いつ”本気”で激突するか。それは、すべての将棋ファンが思い続けた夢だった。

 しかし、片や名人、片やB級2組の六段ではつまらない。強い、強いと言われた羽生が一日も早く谷川と肩を並べる地位に来て、正面からガツンとぶつからねば面白くない。

 そんな一日千秋の思いが全日プロで実現した。羽生はもう、名人と肩を並べる竜王である。タイトル戦ではないが番勝負、しかも、谷川の独壇場の棋戦だ。互いに負けられぬ意地の激突は必至である。

『今、タイトル戦で一番対局したい相手は、と聞かれれば、羽生六段とためらわずに答えるだろう』

 羽生竜王誕生で出版された将棋世界増刊号で、谷川名人が書いた文章である。ほほうと思った。内容にではない。行間から漂う意気込みを感じたからだ。

 大山、中原、谷川の三名人が見た羽生善治の原稿なのだが、大山、中原の場合はある一定の距離感が感じられるのに、谷川だけが乗っ込んでいるといおうか。ともかく、真正面から「わが敵、いざ」と対峙している感じがある。

 年齢が近いこと、これから気の遠くなるほど長年月、組んずほぐれつの激闘をやる立場もあるだろう。しかしそれだけではない何かがある。どう言えばいいか。鋭く尖った闘志ではなく、生涯の好敵手を得た、わくわくするようなおののきといおうか。

 谷川は羽生の「大物」ぶりも面白く書いている。将棋まつり席上対局の直前なのに、羽生が先崎と楽しげに囲碁を打ったこと。竜王戦のえぐい勝負の最中に欠伸をしていたこと。奔放ともいえるが、まだ子供といっていいその行動に少々あきれながら、大勝負にあがらない資質を見抜き、自分の過去も思っていたのではないだろうか。谷川もまた、大勝負ほど強かった。羽生をとりまく、そんなわからない部分、わかる部分を、多分、谷川は他の誰よりもわかっている。そんな気がする。

(中略)

 さて第2局は大阪の料亭「芝苑」。地元関西であり、谷川はここでまだ負けたことがない。谷川には好条件がそろっているが、羽生の強味は、実はそういった悪条件下で無類の強さを発揮する点にある。

(中略)

 2図で昼休みである。

 再開5分前に谷川は現れたが、羽生がなかなか来ない。朝から報道陣が多く、テレビ取材も2社あった。残った民放テレビは4月放送の特番を組むべく、羽生を追っていた。これまでならテレビは大抵谷川を追ったが、10代竜王は絵になるのだ。

「芝苑」の若女将で将棋三段、谷川ファンの久島真知子さんがこんな冗談を言った。

「谷川さん、妬かないかしらね。怒ったりしたら損して負けるわよ」

 羽生、急ぎ足で登場。テレビライトの中、高い駒音で▲8四飛。

(以下略)

東京・広尾「羽澤ガーデン」での第1局。昼食時、報道各社の注文に応え、縁側に出た両対局者。将棋マガジン1990年5月号グラビア、撮影は弦巻勝さん。

着付けを手伝ってもらっていた時代。将棋マガジン1990年5月号グラビア、撮影は弦巻勝さん。

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「ソ連や東欧の激変、誰もついこの前まで予想もしなかった国際社会の枠組が変わるのに似ている」

この文章が書かれた1年半後、1991年11月にベルリンの壁崩壊、12月にソ連が崩壊している。

1990年時点では、ソ連や東欧が変わるとしても、ソ連の崩壊、ベルリンの壁崩壊まで至るとは予想されていなかったと思う。

そのことと同様に、将棋界も、1990年のこの時点では谷川-羽生という図式を激変の後に訪れる姿として多くの人が考えていたかもしれない。

しかし、この後に佐藤康光九段、郷田真隆九段、村山聖九段、森内俊之九段、藤井猛九段、丸山忠久九段の順にタイトル戦に登場、そして羽生善治九段は七冠達成と、羽生世代の棋士が猛烈な活躍をすることになる。

激変は、常に想像を上回るものなのかもしれない。