「前夜のパーティーでも女性ファンの姿がかなり目立った。将棋界も様がわりして来たわけで、羽生、郷田の存在は将棋界に明るい未来を予感させてくれる」

将棋世界1994年9月号、高林譲司さんの第35期王位戦七番勝負第2局〔郷田真隆五段-羽生善治王位〕観戦記「燃える真夏の戦い」より。

 ものごとには何でも始まりがあるというが、今回それを実感した。

 対局日の前日、対局室と盤駒の下見をするのがタイトル戦の重要なならわしとなっている。今回も「小樽グランドホテル」到着後、両対局者はすぐに対局室へ行った。盤の位置、照明の具合等の確認で、繰り返すが、対局前日の欠かせない作業だ。この時に対局者は駒を手になじませる。時には、この駒は気に入らないと言われることもあるが、羽生、郷田両選手は「はい、けっこうです」と大抵は地元提供の盤駒をこころよく受け入れてくれる。

 駒は今回、記録係の伊奈三段が東京の将棋連盟から運んでくれたので全く問題はない。

 盤は地元のものである。やや古びていて、重量感のある逸品。タイトル戦に使用するのに十分な品格を備えている。対局者も「OK」を出し、さてこれで無事に明日の対局開始を迎えられると思った時に、北海道将棋連盟理事の久保田さんが、桐ぶたの裏を見てくれという。

 大山十五世名人の筆跡で「王位盤」と揮毫されたその桐ぶたには、さらに「第一期王位戦第一局対局記念 名人大山康晴 九段塚田正夫 昭和三十五年七月二十八日 於定山渓栖霞荘」とあった。

 世の中にはすごい盤が存在しているものである。羽生王位もさすがに「第一期の第一局ですか」と感心していた。ともあれ、王位戦の歴史はまさにこの盤から始まったわけで、以後、長い大山時代のあと中原時代、高橋時代、谷川時代を経て35年。いま羽生時代が築かれようとしている。

(中略)

 羽生王位先勝のあとの第2局。前述の通りに舞台を小樽市に移した。かつては北海道の商業の中心地で、漁港としても有名だったが、いまは観光を中心とした魅力的な街になった。特に若い人にとっては、一度は行ってみたい所のかなり上位に位置する市だという。

「北海道は何度も来ていますが、小樽は初めてです」と、羽生王位も楽しみにしていたそうで、対局前日は盤駒検分のあと、一人で海岸の方へ行き、有名な運河などを見物して来たという。ちょうどホテルへ戻って来る姿を見たが、スーツの上着を肩にかけているところを見れば、外は北海道とはいえかなり暑かったようだ。

 前夜祭は地元のファンを招いての立食パーティーだったが、羽生、郷田の人気の高さにはあらためて驚いた。サイン攻め、写真攻めで、両者食べ物を口に運ぶ暇すらない。両者の人気とともに、北海道の将棋ファンの多さ、熱心さを痛感した。偉いのは、両者、ファンの求めにすべて快く応じていたことだ。結局パーティーではほとんど食べられなかったので、そのあと寿司屋へ行ったが、これがまたうまい。海の味がする寿司というものを初めて食べた。小樽ならではのものだろう。両対局者とも喜んでいたのはいうまでもない。

 一夜あけ、羽生王位はグリーンを基調とした和服、郷田五段は落ち着いた紺を基調とした和服で対局室に姿を見せた。昨年、今年と2年続けて二人の対局に接するわけだが、これほど絵になる対局者というのもそうはいないだろう。男が見てもホレボレするのだから、女性ならなおさらだろう。前夜のパーティーでも女性ファンの姿がかなり目立った。将棋界も様がわりして来たわけで、羽生、郷田の存在は将棋界に明るい未来を予感させてくれる。

(以下略)

王位戦第2局1日目。将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん。

王位戦第2局2日目朝。封じ手を覗き込む郷田五段。少し眠たげな羽生王位ともキャプションに書かれている。将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん。

王位戦第2局2日目昼。将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん。

王位戦第2局2日目。将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん。

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第1期王位戦第1局が行われた「定山渓栖霞荘」は北海道拓殖銀行の保養所だった。

ところが、1998年の拓銀の経営破綻によって、1999年から2013年までは北洋銀行の保養所(楽水荘)となっていた。

2017年からは第一寶亭留「厨翠山」としてホテルになっている。

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「北海道は何度も来ていますが、小樽は初めてです」

小樽の運河に沿って立ち並ぶ昔ながらの倉庫は、まるで明治時代にでも飛び込んだような、あるいは映画の撮影所のセットにいるような気持ちになることができる場所。

2017年までは石原裕次郎記念館もあった。

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「前夜祭は地元のファンを招いての立食パーティーだったが、羽生、郷田の人気の高さにはあらためて驚いた。サイン攻め、写真攻めで、両者食べ物を口に運ぶ暇すらない。両者の人気とともに、北海道の将棋ファンの多さ、熱心さを痛感した」

逆に考えると、この頃よりも前の時期の前夜祭では両対局者も食事をする余裕があったということになる。

そういう意味では、この時の前夜祭が、両対局者が食事をする余裕がなくなる前夜祭の始まりだったのかもしれない。

まさしく新しい時代の幕開けを感じることができる。

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「そのあと寿司屋へ行ったが、これがまたうまい。海の味がする寿司というものを初めて食べた。小樽ならではのものだろう」

「海の味がする」というと、ものすごく美味しそうに感じる人と、ものすごく美味しくなさそうに感じる人、二手に分かれると思う。

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「前夜のパーティーでも女性ファンの姿がかなり目立った。将棋界も様がわりして来たわけで、羽生、郷田の存在は将棋界に明るい未来を予感させてくれる」

このような、ひとつひとつの積み重ねがあったことが、現在の将棋ブームに結びついている。

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高林譲司さんの将棋マガジンでの王位戦第1局観戦記

郷田真隆五段(当時)「そんな手、一秒も読んでないよ」