先崎学六段(当時)「彼は、一度だけ『自分の将棋はまだまだ甘すぎる。もっと強くなりたい』といってうつむいた。なんとも艶っぽい姿だな、と思った」

将棋世界1996年2月号、先崎学六段(当時)の「先崎学の気楽にいこう」より。

昨日からの続き。

竜王戦第5局。将棋マガジン1996年2月号より、撮影は弦巻勝さん。

12月某日―一日飛んで、帰る日である。僕は二日目の夜もラーメンを食べた。九州独特の替え玉をつかい、合計して二日間で4杯食べたことになる。さすがに胃が重い。

 帰りは、一行からは遅れて、ニグノ氏と佐藤康光君の三人である。佐藤君は、東京で早指し戦の対局があるらしい。「きついです」なんていっているが、ホントかねえ。

 チェックアウトして、タクシーに乗ろうとした時、航空券がないことに気付いた。部屋にすっ飛び探したら、セーターとひげそりが忘れてあって、航空券はポケットに入っている。怪我の功名というべきか、ツイているのか。

 なにくわぬ顔で戻った。

「ありました、さあ行きましょう」

 本当のことは恥ずかしくていえなかった。(ドジなんだから)

「河豚に烏賊にアジ、サバ、明太子にラーメン。これで博多はしめたも同然」

 と佐藤君にいったら、きょとんとされた。しめたなんていうヤンキー言葉はきっと分からなかったのだろうな。

 博多の空港は近い。またたく間に着いて、チェックインをする。

「並びはあるかな、佐藤君、悪いけど喫煙席でいいかい」

「いや、ええ、私は、別で」

「なんだ冷たいな、煙草くらいで」

「いや、はあ、実は、スーパーシートなんですけど……」

 ああ負けるということはせつないことでござんす。すべて私が悪いのです。

 東京へ着いたが、栄養の取り過ぎで、体力があり余っている。とても帰る気がしない。仕方がないので、テレビ東京のスタジオに行き、南-佐藤戦を観戦した。

 南さんの完勝だった。佐藤君は悔しさを隠そうともしなかった。

 結局は、久しぶりに佐藤君と新宿に出た。「僕は弱いです」そんなことをいわれては付き合うよりない。

 ビールをかるく飲んだ。閉店の時間が来ても、我々は席を立とうとはしなかった。殆どはたわいもない話だったが、彼は、一度だけ「自分の将棋はまだまだ甘すぎる。もっと強くなりたい」といってうつむいた。なんとも艶っぽい姿だな、と思った。

* * * * *

「僕は二日目の夜もラーメンを食べた。九州独特の替え玉をつかい、合計して二日間で4杯食べたことになる。さすがに胃が重い」

二日間で4杯は、それだけだったとしても、昼食と夕食で1杯ずつ2日間ラーメンを食べるようなボリューム。

それに加えて朝食と夕食(酒を飲むのを含む)を食べているのだから、胃が重くなるのは自然な流れだったと言える。

* * * * *

「部屋にすっ飛び探したら、セーターとひげそりが忘れてあって、航空券はポケットに入っている。怪我の功名というべきか、ツイているのか」

要は普通の状態に戻っただけの話なのだが、

  • セーターとひげそりは忘れてなくて、航空券のみを部屋に忘れていた場合
  • セーターとひげそりは忘れていなくて、航空券がポケットに入っていた場合
  • セーターとひげそりと航空券すべてを部屋に忘れていた場合

の3つのケースに比べても、怪我の功名感が増幅されて嬉しく感じられる事例だ。

* * * * *

「しめたなんていうヤンキー言葉はきっと分からなかったのだろうな」

ヤンキー言葉で「しめる」は、とっちめる、こらしめる、打ちのめす、のような意味。

ちなみに、将棋で使われる言葉の中で最もヤンキーな雰囲気が漂うのは「アヤをつける」。

* * * * *

「彼は、一度だけ『自分の将棋はまだまだ甘すぎる。もっと強くなりたい』といってうつむいた。なんとも艶っぽい姿だな、と思った」

早指し戦は準々決勝。

竜王戦第5局に続いて2日連続の敗退。

夜が深まっていく新宿、何か心が温まる。

* * * * *

とは言いながらも、後年には次のようなエピソードもある。

佐藤康光棋聖(当時)「先崎はダメですからね、先崎は」