谷川浩司王将(当時)「奇跡という言葉を軽々しく使うのも気が引けるが……将棋の不思議さを感じずにはいられなかった」

将棋世界1996年2月号、谷川浩司王将(当時)の第54期A級順位戦〔対 米長邦雄九段〕自戦記「深夜の逆転劇」より。

将棋マガジン1996年3月号より、撮影は炬口勝弘さん。

 午前零時半、特別対局室。米長九段の残りは2分、私は16分。

 △2九竜(A図)と詰めろをかけられて、私は後手玉に迫る順を必死に考えていた。

 だが、即詰みはない。詰めろ逃れの詰めろもない。それにしても、せっかく苦しい将棋を粘って逆転したのに、ひどい見落としをしたものだ、と現在よりも過去の局面に頭がいったりしていたのだがその内に、玉を5四に移動させれば逆王手の筋が生じる事に気付いた。

 ▲4二銀不成△4三玉▲5二角△5四玉の後、一縷の望みを託して、▲2七金と香を取った。

 20手後に劇的な幕切れが控えていようとは、知る由もなかった。とにかく、先が読めていなかったのである。

(中略)

8図以下の指し手
△2七香▲1七玉△2九竜▲4二銀不成△4三玉▲5二角△5四玉▲2七金△3九角▲2八桂△3五桂(9図)

 △2七香は、ここで打たれるとは思っていなかったので意表を突かれた。

 読み切れないと判断して、2分でエイッと▲1七玉。この選択は間違っていなかったようで、▲同金は△5一銀▲同竜△4三玉▲6一角△5二香で、先手玉に△4八竜▲1七玉△2五桂▲同歩△2六銀の詰めろが残る。

 この後△2九竜▲4二銀不成△4三玉▲5二角△5四玉▲2七金で冒頭の場面になる。

 最初に書いた逆王手の筋というのは、△2七同竜▲同玉△4九角▲3八桂△3五桂▲3六玉△4六金の時の、▲同桂(参考図)の事であった。

 △3九角▲2八桂△3五桂(9図)

 この当然のような△3五桂が、恐ろしい事に敗着。△5七角成▲6二竜△5五玉と上部脱出を図れば優勢だったのである。

 9図まで進んで初めて、後手玉に即詰みがあるらしい事が判った。その手順の見事さには、自分でも目を疑うほどだった。

9図以下の指し手
▲5六香△5五香▲5三金△同銀上▲同銀成△同玉▲5五香△同銀▲5四香△同玉▲6五銀(10図)

 手順中▲5三金に△同銀引は、▲同銀△同玉の時に▲4四銀がある。

 そして、▲5四香の後の▲6五銀(10図)がポイントで、▲4三銀は△5三玉と逃げられてしまう。

 奇跡という言葉を軽々しく使うのも気が引けるが、10図から△4四玉▲4一竜△5三玉と進んだ局面でも、▲5四銀と出る以外は絶対に詰まない。将棋の不思議さを感じずにはいられなかった。

 終局は零時57分。米長九段は1分将棋。私は5分残っていた。この5分の余裕が大きかったのかもしれない。

 感想戦は約1時間。そこで、▲4二銀不成に対して△同玉と取れば後手勝ち、と結論が出た。ただ、王手が相当かかるので指しにくい手ではある。

 これで順位戦は4勝2敗。トップタイで年を越した。1995年の後半は全く勝てなかったが、最後に好運な勝ち方ができた事を、新しい年につなげてゆきたいと思っている。

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「だが、即詰みはない。詰めろ逃れの詰めろもない。それにしても、せっかく苦しい将棋を粘って逆転したのに、ひどい見落としをしたものだ、と現在よりも過去の局面に頭がいったりしていたのだがその内に、玉を5四に移動させれば逆王手の筋が生じる事に気付いた」

これだけでも考えられないくらい凄いことなのに、

「9図まで進んで初めて、後手玉に即詰みがあるらしい事が判った。その手順の見事さには、自分でも目を疑うほどだった」

というのだから、想像を絶するほど凄いことになる。

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10図以下は▲5四銀△6二玉▲6三銀成と進んで米長邦雄九段が投了している。

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「感想戦は約1時間。そこで、▲4二銀不成に対して△同玉と取れば後手勝ち、と結論が出た。ただ、王手が相当かかるので指しにくい手ではある」

結果的には、後手が最善手を指さなかったので先手が勝つ形となったが、リアルタイムで見ていたら気を失いそうになるほどハラハラドキドキして感動的な将棋だったことは間違いない。

もし現代のように、コンピュータソフトによる評価値がリアルタイムで示されていたら、見る人によっては感動が5割引きになる可能性もある。

過渡期であってほしいが、様々な物事、バランスをとるのが難しい時代になってきているのかもしれない。