米長邦雄九段「つまり情と知の世界であったら、知の世界に走りすぎている弊害があるのではないか。情の世界をもっと大事にしなければならない」

近代将棋1996年9月号、米長邦雄九段の「米長さわやか流対談、この一局」より。聞き手は福本和生さん。

近代将棋1996年9月号より、撮影は弦巻勝さん。

米長 羽生善治棋聖と三浦弘行五段の棋聖戦五番勝負は、現在3局まで進んで羽生棋聖の2勝1敗。この3局までの米長流分析はあとで解説するとして、その前に将棋の観戦記について私見を述べさせてもらいたい。とくに棋士の書く自戦記についてですがね。

福本 私も観戦記めいたものを書いていますので、ぜひお聞きしたい。

米長 産経新聞の東京版夕刊に音楽評が掲載されていて、そこに中原誠永世十段、青野照市九段、佐藤康光八段のクラシック評が載っていますが、いずれもすばらしい文章で、音楽のわからない私でさえ感動しました。

 しかし、音楽評でこれほどの文章をお書きになる人々が、さて本職の将棋の自戦記になるとどうか。これが残念なことにじつにつまらない。

 音楽という趣味の世界のことを書いて、多くの人々に感動を与える文章が書けるのに、それにひきかえ本業の将棋の解説のこのつまらなさ。なぜなのか。これはどこかに間違いがあるのではないか。

 この間違いについて私は、書く対象への感動、感激、尊敬の差からきているのではないかと推察しています。

 プロの将棋は常に最善手を求め、100点満点でなければならない。99点は負けというきびしい世界。そこで対局後の感想戦では、その1点差の指し手をめぐっての検討となる。自戦記というものは、おおむね自責の念にもとづいたもので文章が構成されている。だからおもしろくない。つまりアマチュアのファンには次元が高すぎるのでしょう。

(中略)

米長 別掲の佐藤八段の音楽評の文章をお読みください。すばらしいものです。

 中原先生の「将棋世界」6月号掲載の音楽評も名文であり、青野先生のクラシック評も音楽ファンをよろこばせる立派なものです。

 これほどの文章を書ける方が、なぜ本職の将棋になると、どうしてこんなつまらないことばかり書いているのか不思議でならない。

 いっぺん本人にお聞きしようと思っているのだが、灰皿が飛んできそうなので私は黙っている(笑い)。福本さん、ここだけの話だが、私はそれをいつも疑問に思っています。

 これは私なりに考えてみたのですが、それはアマチュアの人が見て、感動にひたる、感激する、奏者への畏敬の念、尊敬、それから音楽という芸術へのあこがれ、そういうものがすべてふくまれて、そこには喜びがあり、感謝があり、愛がある。だからこの文章がいきいきとしている。棋士の書いた音楽評はすばらしい。

 その棋士が書いた自戦記ほどつまらないものはない。これほど人々の心を打たない文章はない。

 その理由は前に述べた通りで、局後の検討はさることながら、アマチュアの方に対して物を書く、あるいは物を教える、普及する、普及する、将棋の情景描写をする、これはまったく違う視点でとらえて文章を書かなければならないのではないか。そこに大きな誤りがあるのではないかと私は思っています。

福本 将棋の観戦記論は、さまざまな意見や議論があって、どう書くのが最善手なのかは、おそらく観戦記者のだれもが悩んでいることでしょう。米長さんが指摘する”違う視点”というのは…。

米長 例えば浮世絵師が美人画を描くときに、そのモデルが絵師の意にそわない器量であっても、色っぽく艶美に描くのが絵師の技であって、それともモデルをそのままに描くのがいいのか、そのあたりの解釈は難しいが、将棋というものは本来、人びとに喜び、感動を与えるのが使命であったのが、現在は勝負の一点にこだわり、真実の追求にだけ執着しすぎているのではないか。リアルだけでなく、デフォルメも必要でしょう。

 つまり情と知の世界であったら、知の世界に走りすぎている弊害があるのではないか。情の世界をもっと大事にしなければならない。

 われわれプロ棋士は、幼いころから棋理の追求が身にしみついている。情の世界に背を向けて育っている。野球でホームランを打ったら、そのすばらしさを称賛するより、なぜホームランを打たれたかを血眼になって追求する。ホームランという”花”の称賛を忘れている。棋士の書く音楽評がすばらしいのは、その文章に将棋では書かない”花”への称賛が素直に書かれているからでしょう。

福本 技術論偏重になっているということですか。プロがプロを意識した棋理中心の文章になって、将棋にある”花”に触れることを見失っている。

米長 そこで現れたのが羽生棋聖で、いままでの偏差値教育の左脳人間を打破して、右脳人間の典型としての登場である。

 したがって羽生棋聖を私が見たとき、ああ、木村義雄十四世名人以来の”花”のある棋士が出てきたと思った。”花”は知ではなく”情”である。

福本 世阿弥の「花伝書」の世界になってきましたね。

米長 羽生棋聖は「時分の花」ですからね。さて、観戦記のことですが、昨今の将棋ブームで女性ファンがふえてきていますが、将棋のたのしさ、おもしろさ、すばらしさに気がついている方は多いのだが、じっさいに将棋を指す人がほとんどいない。その女性ファンに将棋を知って理解してもらう秘訣が、観戦記のなかにかくされているのではないか。

福本 将棋ブームのなかでの観戦記論は、もっと盛んになってほしい。

(以下略)

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米長邦雄九段の観戦記・自戦記についての私見。

「しかし、音楽評でこれほどの文章をお書きになる人々が、さて本職の将棋の自戦記になるとどうか」

棋士の自戦記は、棋士でなければ書けないこと、対局者自身でなければ書けないことが表現されており、またそれぞれの棋士の個性も溢れており、米長九段が言うような「これが残念なことにじつにつまらない」とは思えない。

後に出てくる、

「この間違いについて私は、書く対象への感動、感激、尊敬の差からきているのではないかと推察しています」

「野球でホームランを打ったら、そのすばらしさを称賛するより、なぜホームランを打たれたかを血眼になって追求する。ホームランという”花”の称賛を忘れている。棋士の書く音楽評がすばらしいのは、その文章に将棋では書かない”花”への称賛が素直に書かれているからでしょう」

を見ると、米長九段は「その前に将棋の観戦記について私見を述べさせてもらいたい。とくに棋士の書く自戦記についてですがね」とは言いながらも、自戦記についてよりもむしろ観戦記に対して意見を述べたかったのではないかと思われる。

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自戦記では、自ら指した手を称賛することは難しく、また相手が指した手をデフォルメも加えて心置きなく称賛することも勝負師的に難しい。

米長九段は「自戦記というものは、おおむね自責の念にもとづいたもので文章が構成されている。だからおもしろくない」と述べているが、だから面白いとも言える。

自画自賛の自戦記を書くことは、やはり難しい。

逆に、観戦記であれば、絶妙手の素晴らしさを称賛するのは、自然にできること。

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「それはアマチュアの人が見て、感動にひたる、感激する、奏者への畏敬の念、尊敬、それから音楽という芸術へのあこがれ、そういうものがすべてふくまれて、そこには喜びがあり、感謝があり、愛がある。だからこの文章がいきいきとしている」

とても、はっとさせられる、正鵠を射た指摘だ。

観戦記を書く時の鉄則の一つだと思う。

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「真実の追求にだけ執着しすぎているのではないか。リアルだけでなく、デフォルメも必要でしょう」

この言葉は、指し手の解説のみならず、エピソードなどについても包含していると考えられる。

リアルに徹する書き方とデフォルメも加える書き方。

これは、どちらが良いかどうかは、それぞれの書き手の持ち味によるのではないかと思う。

また、読み手側のニーズとしても、デフォルメのない方が好みの読者もいれば、デフォルメ歓迎の読者もいる。

この辺は、本当に難しいところだ。

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「その女性ファンに将棋を知って理解してもらう秘訣が、観戦記のなかにかくされているのではないか」

リアルタイムでの中継がフレッシュグレープジュースだとすると、観戦記・自戦記は数日間熟成させたワインの位置付け。

観戦記・自戦記の果たす役割は、昔も今も大きい。