将棋世界1996年10月号、三浦弘行棋聖(当時)の第67期棋聖戦五番勝負第5局〔対 羽生善治七冠〕自戦記「力を出しきれた一局」より。
棋聖戦の第5局を見て頂きます。
羽生先生とはこのタイトル戦でしか対戦していないのですが昨年は3連敗。実力の違いを感じました。
今年は第1局に幸運にも勝つことができましたが第2、第3局は羽生先生の良い所ばかり出て、持ち時間をいっぱい余しての内容の悪い将棋でした。特に3局目の終盤はプロでもなかなか読み切れない変化を羽生先生がほとんど長考せずに、見切って指されたのに大変驚きました。
4局目は再び角換わり。両者1分将棋になる熱戦になり、特に私にとっては年に一度あるかないかの内容の良い将棋が指せました。5局目もこういう将棋が指せればと思っていました。
(中略)
第5局は改めて振り駒となりました。私が先手番となってまた角換わりにしようかなと思いましたが、この相掛かりも試してみたかった戦型です。このシリーズは居飛車の戦法がいろいろ出てきましたが最終局は私が相掛かりを選択しました。
飛車先交換から2八まで引く形は羽生先生が竜王戦や名人戦で試された形です。
こちらも飛車先の歩を切られますが、下まで引いておけば△4四角などのラインからはずれており、安定感があるのです。
浮き飛車の形でもいずれ▲7六歩と角道を開ければ飛車先を切られるので、どうせ交換されるなら最初から▲2八飛としておこうという考えです。
当然後手も飛車先を交換します。お互いに下段まで引く形は珍しいかもしれません。平成6年の第52期名人戦第3局で米長先生は△8四飛と浮き飛車の形にしています。
(中略)
今回は3局目の完敗でこれはもうだめだと思っていました。幸運にも第5局まで来れて羽生先生からタイトルを奪取できたことは夢のようです。
また、タイトル戦で羽生先生と一緒に行動していて見習うべきところがたくさんありました。私も未熟ですのでいろいろ学んでいきたいと思っています。
和服も一応自分で着れるようになったのですがあまりにも時間がかかるため着付けの人に頼むことになったり、また初めて行く旅館ばかりなので夜寝付けなかったりといろいろ関係者の方にご迷惑をおかけしました。
来年もまたタイトル戦で指せるので、次回はもう少し関係者の方に安心して頂けるようにしたいです。
最後になりましたが、応援してくださった方々に感謝したいと思います。
誌上をお借りして御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
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将棋世界1996年10月号、グラビア「三浦弘行 念願の初タイトル奪取!」より。
わずか半年で七冠の一角が崩れた。挑戦者が待望の2勝目を挙げ2-2のタイとなった第67期棋聖戦五番勝負第5局が7月30日、新潟県岩室温泉「高島屋」で行われ、振り駒で先手となった三浦が105手で羽生を降し、棋聖位を奪取した。
三浦が「一度やってみたかった」という相掛かりから下段まで飛車を引く古風な戦型でスタート。羽生が、竜王戦、名人戦で用いた作戦を羽生本人にぶつける格好となった。▲3六銀から棒銀を狙う構えののち新趣向の▲5六角。これに対し羽生も△4九角と敵陣深く打ちおろすが、三浦は絶妙の切り返し▲6四歩から緩急自在の指し回しを見せ、遂に羽生を投了に追い込んだ。
昨年の棋聖戦では3連敗。今期第1局の対羽生戦初勝利で「今回はちょっといけるんじゃないかと思った」。第2、第3局と逆に力んでしまい連敗。やはりだめなのかの声のなか、カド番の第4局。「どうせ勝てないからと開き直ったのがよかったのかもしれません」
得意の角換わりで両者1分将棋となる熱戦を制したのがまた自信にもなったと語る。「5局目まで来れて悔いはありません」この無欲の精神が再挑戦からのタイトル獲得となった。
一方、予想外の相手に一冠を明け渡すこととなった羽生は過密スケジュールが響いたのか。名人戦終了後「序中盤に冴えが見られなかった」と中原永世十段がコメントしていたが、七冠達成前後の相次ぐ大勝負の疲れ以外の敗因を指摘する声もあった。
研究会にも参加せず一人黙々と将棋の研究……。独学の士のイメージが強いが三浦の頭の中にあったのはあくまで羽生の将棋だと言う。「羽生さんが将棋を理論的に捉えているのが信じられなかった。それをまねてみようと思った」
感想戦に続いて行われた共同記者会見の会場へ移動中担当記者に「何か変なこと聞かれないですかねえ」と心配そうに尋ねる場面もあったが、大勢の取材陣を前に三浦は「タイトルホルダーが弱いとまずいのでもっと勉強して強くなりたい」と今後の抱負を語った。
「30歳までは遊ばない」という新棋聖は最近では中国語の勉強にも余念がなく、この日も明け方近くまで楽しく卓を囲んでいたようだ。
翌朝は、対局場の庭での撮影会。一睡もできなかったそうだが、カメラマンの注文にも笑顔で応じる三浦新棋聖は喜びを押さえ切れない様子だった。
「七冠王を最初に破った男」の今後の活躍に注目していきたい。
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「飛車先交換から2八まで引く形は羽生先生が竜王戦や名人戦で試された形です」
「三浦が『一度やってみたかった』という相掛かりから下段まで飛車を引く古風な戦型でスタート」
相掛かりで先手が2八まで飛車を引く形は、当時としては珍しい形だった。そしてこの後、相掛かりではこの先手引き飛車型が主流となっていく。
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相掛かりは、200年前に刊行された九世名人大橋宗英の『平手相懸定跡集』によって初めて定跡化された戦法だが、実戦に現れるようになったのは明治の中頃から大正の初めにかけてのこと。
- 最初は先手も後手も浮き飛車型だった。
- 大正末期から昭和初期には先手浮き飛車・後手引き飛車型が流行。
- 昭和10年代は相引き飛車型が「相掛かりにあらざれば将棋にあらず」というほど大流行する。
- 戦後、角換わり腰掛け銀戦法が現れるとともに相掛かりは次第に影が薄くなり、再び盛り返すのは昭和60年代に中原流相掛かりや塚田スペシャルが誕生してから。この時期は先手浮き飛車が主流となっている。
1990年代後半は、ひねり飛車も多く指されていたので、相掛かりの出だしから先手が浮き飛車の場合もあったが、ひねり飛車が指されなくなってからは、相掛かり先手は引き飛車型が主流となっている。
時代とともに先手と後手の浮き飛車と引き飛車の組み合わせが変わっていく相掛かり。
そのような意味でも、この一局は、現代の相掛かりで主流となっている先手引き飛車型の先駆けとなる将棋だったと言えるだろう。
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羽生善治六冠(当時)は、異例の敗者側の記者会見に応じ、次のように語っている。
「いつかはそういう日が来ると覚悟していましたが、現実にそうなると辛い面もあります。すべては自分の実力ですから仕方ないですね」
このような時に記者会見を受けるのは、普通に考えても辛いこと。
マスコミの取材が過熱していたということだろうが、堂々と応じた羽生六冠も偉大だ。
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「また、タイトル戦で羽生先生と一緒に行動していて見習うべきところがたくさんありました。私も未熟ですのでいろいろ学んでいきたいと思っています」
「来年もまたタイトル戦で指せるので、次回はもう少し関係者の方に安心して頂けるようにしたいです」
三浦弘行五段(当時)らしい、謙虚で素直なコメント。
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「何か変なこと聞かれないですかねえ」
この辺も、三浦九段らしい面白いキャラクターが表れている。
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「翌朝は、対局場の庭での撮影会。一睡もできなかったそうだが、カメラマンの注文にも笑顔で応じる三浦新棋聖は喜びを押さえ切れない様子だった」
将棋世界1996年10月号の表紙は、対局翌朝の三浦棋聖の姿がそのままはめ込まれており、スーツに草履の姿。なぜ背景がスペースシャトルになっているのかは分からないが、やはりユニークで印象深い。
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