将棋世界1997年1月号、「棋士達の背景 第1回 行方尚史五段」より。
ある意味では行方尚史という青年は、何か人の心の奥底をくすぐるようなところがある。彼の本質は不良少年で、それもつっぱりとかとは正反対に位置する軟弱でどうしようもない不良。常に自分の場所や在り方におびえその不安感がおそらくは彼を非行に走らせてしまう。非行といってもそれは現実的な行動ではなくて、すべては彼の精神の内側で起こる内なる非行であって、考えてみればある世代以前の若者は皆不良だった。世の中のシステムなんてすこしも信じていなかったし、大人の理屈は大嫌いだった。システムも理屈も自分の手のなかにあってそれだけを頼りに生きてきた。時には自分の存在の不安定さにおびえ、ときにはその存在のおそるべきパワーにバカみたいに酔いしれる夜もあった。行方の言動、風貌にはそんな忘れかけていた憧憬を思い起こさずにはおかない何かがある。
「正直言って負けた時は、精神的に参ったですね。ずうっと新宿の町ふらついて。うん。頭の中には尾崎豊の歌とか、別にファンじゃないですけど、シェリーって歌、そういうのが流れて消えないんです。ほとんど廃人みたいな感じでふらつきました」
1993年、四段に昇段した行方は本誌のインタビューに三段リーグ時代の苦しみをこう振り返った。彼の憂鬱とそして不良性の持つ独特の精神の強靭さが、一言一言に表現されている。あれから3年の月日が流れ、今の彼は読者にどう映るのだろうか。
ご覧のとおり変な髪形をしているし、相変わらず着ているものは不良少年のスタンスを少しもくずしていない。四段昇段以降、彼は勝って勝ちまくっている。それでも時々彼の瞳に見え隠れするどうしようもない不安のようなものは一体何なのだろう、そういう事を考えさせてしまうだけでも1996年の彼も十分に魅力的な存在なのである。棋士になった今もそしてこれからも、きっと彼の頭の中にはシェリーが流れ続けているのだろう。
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「ある意味では行方尚史という青年は、何か人の心の奥底をくすぐるようなところがある」
この文章のこの後で述べられていることとは関係なく、行方尚史九段は本当にそのような雰囲気を持っており、それは現在も変わっていない。
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「彼の本質は不良少年で、それもつっぱりとかとは正反対に位置する軟弱でどうしようもない不良。常に自分の場所や在り方におびえその不安感がおそらくは彼を非行に走らせてしまう。非行といってもそれは現実的な行動ではなくて、すべては彼の精神の内側で起こる内なる非行であって、考えてみればある世代以前の若者は皆不良だった」
ものすごく鮮烈で個性の強い表現だが、行方尚史という棋士が見事に描かれている。
当時の大崎善生編集長による文章なのかもしれない。
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「正直言って負けた時は、精神的に参ったですね。ずうっと新宿の町ふらついて。うん。頭の中には尾崎豊の歌とか、別にファンじゃないですけど、シェリーって歌、そういうのが流れて消えないんです。ほとんど廃人みたいな感じでふらつきました」
先ほど「シェリー」を初めて聴いたが、敗れた後にこの曲が頭の中に浮かんでくる必然性というものが理解できたような気持ちになった。
それとともに、敗れた後の行方三段(当時)の思いが、この曲の歌詞そのものだったのかもしれない、とも思えた。
悲愴と悲壮が入り混じった、本当に凄絶な世界。
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「ご覧のとおり変な髪形をしているし、相変わらず着ているものは不良少年のスタンスを少しもくずしていない。四段昇段以降、彼は勝って勝ちまくっている。それでも時々彼の瞳に見え隠れするどうしようもない不安のようなものは一体何なのだろう」
やはり、大崎善生編集長による文章と考えて間違いなさそうだ。