森下卓六段(当時)の壮大な盤外作戦

将棋マガジン1992年3月号、読売新聞の山田史生さんの「第4期竜王戦七番勝負を振り返って」より。

 太陽のギラギラ照りつけるバンコクでスタートした竜王戦七番勝負は、雪の舞う冬の天童で幕を閉じようとしていた。

 第7局は暮れもおしつまった12月26日、27日、天童市の「滝の湯ホテル」。しかし谷川と森下の戦いは竜王戦の舞台のみならず、12月中旬の王将戦リーグも含めて行われていたのである。

 王将戦リーグで森下は出だし3連敗、もう何の楽しみもなくなったため、第4戦(対森内)、第5戦(対屋敷)は粘りも見せず夕休前の終局。目標のない戦いに気合が入らないものやむを得ないが、問題は最終6戦目、対米長九段戦であった。

 米長はこのリーグ、4勝1敗で単独トップ、森下に勝てば王将挑戦が決まる。また二人は研究仲間でもあり、親しい先輩後輩の仲。森下としてはあっさり指して敗れ去っても誰も何とも言わないだろう。

 ところが森下は米長戦の背後に谷川の姿を見ていたのであった。米長を破り4勝2敗にしておけば、多分谷川を含む3、4人でプレーオフとなる。棋聖戦五番勝負も戦っている谷川にとっては、さらに過酷なスケジュールとなる。谷川に過酷なことは、竜王戦で対決している森下には、逆に有利な状況となるわけだ。勝負師としてそんなチャンスを逃す手はない。全敗の森下は米長戦に全力をあげて戦い、一手違いの接戦をモノにした。

 谷川の方は、第一人者として棋戦に差をつけるなんてことはできない。どんな厳しいスケジュールになろうとも、対局する以上は勝たねばならない。森下の思惑通り、谷川は王将リーグ最終戦に勝ち、4人のプレーオフとなった(しかも谷川は12月29日、31日と連勝し王将戦の挑戦権も獲得した)。

 もう谷川はハラをくくっている。大晦日でも正月でも、いや毎日でも戦ってやろうじゃないかと。

 それぞれの思いを胸に、12月25日、谷川、森下は羽田から同じ飛行機で山形空港へ飛んだ。

(以下略)

将棋マガジン1992年2月号より。撮影は中野英伴さん。

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森下卓六段(当時)、竜王戦七番勝負が2勝2敗1持将棋の時点での王将リーグ戦最終戦(12月13日)。

「米長はこのリーグ、4勝1敗で単独トップ、森下に勝てば王将挑戦が決まる。また二人は研究仲間でもあり、親しい先輩後輩の仲。森下としてはあっさり指して敗れ去っても誰も何とも言わないだろう」

王将リーグ戦と王位リーグ戦は、陥落が決まった段階で、それ以降の対戦は、数学的・物理的にだけ見れば消化試合になってしまう。

このような場面で勝つのが米長哲学と呼ばれるわけだが、この場合は、もっと戦略的な背景があるので、狭義の米長哲学にはあたらないだろう。

もちろん、王将リーグ最終戦で谷川浩司竜王(当時)が敗れれば、この狙いははずれてしまうわけだが、人事を尽くして天命を待つ。

壮大かつ格好いい盤外作戦だ。

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谷川竜王のこの頃の対局スケジュールは、「棋士別成績一覧」によると次の通り。

  • 12月12日 棋王戦敗者復活戦 2回戦 対 塚田泰明八段 ◯
  • 12月13日 王将戦リーグ最終戦 対 屋敷伸之六段 ◯
  • 12月18日 竜王戦第6局 対 森下卓六段 ◯
  • 12月20日 A級順位戦 対 高橋道雄九段 ●
  • 12月24日 棋聖戦第2局 対 南芳一棋聖 ◯
  • 12月27日 竜王戦第7局 対 森下卓六段 ◯
  • 12月29日 王将戦リーグプレーオフ 対 米長邦雄九段 ◯
  • 12月31日 王将戦リーグプレーオフ決勝 対 中原誠名人 ◯

結果的に、竜王戦第6局や第7局の前に王将リーグ戦プレーオフが行われるスケジュールにはならなかったが、第7局の段階で3勝3敗1持将棋となっていれば、第8局は年明けになっていたわけで、森下六段の執念は生かされていたことになる。

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森下六段の対局スケジュールも凄く、この年の12月だけで10局。

12月30日には、棋王戦本戦勝者組決勝で南芳一二冠(当時)と戦い勝っている。

谷川竜王の12月の対局数は12局。

谷川竜王は1月に棋聖、2月に王将を奪取して、四冠王となる。

この四冠を崩し始めるのが、翌夏の王位戦での郷田真隆四段(当時)であり、翌冬の竜王戦での羽生善治棋王(当時)だった。