羽生善治五冠(当時)「私も対局をしながら『衛星放送で解説している人達は困るだろうなぁ』と思っていました」

近代将棋1997年8月号、中井広恵女流五段(当時)の「棋士たちのトレンディドラマ」より。

近代将棋1997年3月号より、撮影は弦巻勝さん。

「いったい何を考えているのだろう」

 衛星放送をご覧になって、そう思われた方も多い筈。

 名人戦第5局で、羽生名人が2手目から33分の長考。つられたように3手目、谷川竜王も15分、さらに、4手目にも21分で、名人は合計1時間近くも最初の2手に費やしている。

 これは番勝負のタイトル戦ではかなり珍しいことではないだろうか。

 あらかじめ先後も決まっているのだから、当然作戦はたててきている筈。にもかかわらず、この時間の使い方は、はたして……と誰もが首を傾げたのだ。

 気息を整える時間にしては長すぎる。かといって、マンガじゃないのだから、初手から何百手も先を読んでいるわけはない。

 実は控え室ではこんな推論をたてていたようだ。それは、毎日新聞の加古さん(この第5局の観戦記も担当された)のが対局室から退室されたら、指すつもりだったのではないか。しかし、いつもなら10分程で席を立たれるところ、ピタッと横にすわられて動かなくなってしまったので、指すタイミングを失ってしまったのではないか、というものだ。

 実は、この情報は何を隠そう羽生名人本人が教えてくれたのである。きっと、局後、どなたかに質問されたのだろう。それに対して、肯定も否定もしていなかったが、さすがにこれは読みすぎだろう。

 実際の対局は、研究と違って実戦心理というのがはたらく。それは、置かれている状況やその日の体調、気分などによっても変化するもの。

 この名人戦という大舞台で、1勝3敗と追い込まれていたのだから、いざ盤の前に座ってナーバスになり、迷いが生じたとしても不思議ではない。

 あるいは、その逆で気分がハイになり、どの戦法でも自信があるので迷っていた、ということもあるかもしれない。

 こればかりは本人が多くを語らないので謎のままである。

 森内八段は、昨年の名人戦で羽生名人と戦った時に、

「対局前に、だいたいどんな戦型になるのか予想できるわけだから、序盤のある程度の所までは考えなくても指せる筈」

と言い、その通り全局を通して1日目の指し手が早かった。平均して34手ほどで封じ手をむかえている。

 これは前もって念入りに作戦をたて、少しでも多くの時間を急所の局面にとっておこうという、森内八段らしい考え方だ。

 と同時に、もしかしたら早く指すとこによって迷いを絶ちきっているのかもしれない。

 それに対して、今シリーズの羽生-谷川戦では、スローペースで第5局の封じ手まで平均で27手ほどしか進んでいない。

 もっとも、これは戦型の違いもあるのだろう。今回は角換わり戦法を多用しており、この将棋は激しい戦いになるので、序・中盤からかなり神経を使う。

 あれは、第3局が終わった頃だったろうか。

 キリン杯ペア将棋トーナメントの壇上で、羽生名人に、

「今回の名人戦は、1日目になかなか手が進みませんが、いったい何を考えてらっしゃるんですか?」

と尋ねてみたところ、会場のお客様方から拍手がおこった。きっと、皆さん聞いてみたいと思っていたのだろう。

「私も対局をしながら『衛星放送で解説している人達は困るだろうなぁ』と思っていました」

と苦笑する羽生名人。

 すぐそばに対局相手の谷川竜王がいらしては迂闊なことは喋れないとみえて、さらりとかわされてしまった。まだ名人戦の最中なんだから当然か。

 ちなみに、羽生名人の過去一番の長考は、一手に3時間以上も考えたことがあるそう。相手は郷田六段で、王位戦のタイトル戦の時。

 郷田六段といえば、加藤一二三九段以上の長考派として有名で、中原永世十段が、

「何を考えるのかさっぱりわからない。だって、あたり前の一手の所で何時間も長考するんだから」

 中原先生がさっぱりわからないというのがおかしいが、確かに、プロの先生は時々、どう考えても取る一手というような所で長考している。それを見て、私はいつも「取ってから考えればいいのに……」と思っていたのだ。「何を考えているのか……」と疑問に想うのは、どうやら私達だけではないようだ。

 ただ、

「悪くなってから考える、のがアマチュア」とよく言われるが、やっぱりプロも苦戦になると長考しているから、そこらへんの実戦心理は、プロもアマチュアも同じようですね。

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長考の間にどのようなことが考えられているか、については、郷田真隆六段(当時)がこの当時、将棋世界で画期的な連載を始めていた。

郷田真隆六段(当時)「長考をめぐる考察」

その読みの内容の深さや拡がりに感嘆したものだったが、たしかに、なぜこのタイミング(次に指す手は決まっているのに、その先の先を読んでいる)で長考するのかについては、疑問が氷解したわけではなかった。

中原誠十六世名人でさえ、「何を考えるのかさっぱりわからない。だって、あたり前の一手の所で何時間も長考するんだから」と思っているのだから、神秘性は深まるばかり。

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「名人戦第5局で、羽生名人が2手目から33分の長考。つられたように3手目、谷川竜王も15分、さらに、4手目にも21分で、名人は合計1時間近くも最初の2手に費やしている」

開始早々の長考は、更に神秘性が増幅される。

気息を整える、事前に作戦は立てずにその場から漂う空気感で指し手を決める、など、いろいろと考えられるけれども、2手目33分は確かに時間的に長い。

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「私も対局をしながら『衛星放送で解説している人達は困るだろうなぁ』と思っていました」という羽生善治五冠(当時)の言葉が可笑しい。

謎の解決に全く結びついていないのも面白い。