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小池重明氏「すべてを告白します」(最終回)

将棋ジャーナル1985年12月号、小池重明氏の「すべてを告白します(最終回)」より。

逃避行

 私が東京から脱出したのは、五十八年九月のことだった。逃げるようにして将棋界から姿を消して行った。

 直接の動機となったのは「将棋世界」五十八年十一月号に載った記事のためである。満天下の愛棋家に私の醜態を暴露されてしまった。言い訳する気も起らなかったし、開き直ることも出来なかった。後になって何時も思うことだが、どうしてあのとき踏ん張って残らなかったのか、過去の誤ちは誤ちとして謝罪し、誠心誠意を尽して、その悔悟のしるしを何故キチンと態度でもって示さなかったのか。反省することばかりだが、私の弱さでその時どうしてもそれが出来なかった。

 おまけに一時古沢氏に救われて、その義侠心にすがることになったのだが同氏に対して口に出せないような背信行為をしてしまった。同氏には過去ずいぶんお世話になり、それこそ筆舌に尽しがたい恩義を蒙っているのに、それを後足で砂をかけるようにして旅に出てしまった。まことに私という人間は、軽率で軟弱で厚顔な小悪党である。

 流れていく確かなあては、どこにもない。

 名古屋の実家に暫く身を寄せるが、母が死んだ後、父は後妻をめとっており、何かと居辛い。サラ金からの電話攻勢で実家の電話番号は変っており、父の私に対する信用もゼロに近くなっていた。

 家を出ると、無けなしの金を持って競馬場に行った。どうした運命のいたずらか、その日ズバリと大穴を当て、たちまち懐が暖かくなった。しかし、それもわずかの間、不浄の金はアッという間に羽が生えて飛んで行ってしまった。残るはわずか二百十五円。何でもいいから仕事を見つけねばならない。

 私は拾ったスポーツ新聞の求人欄に血走った目を走らせた。

 土工、一日七千円、寮完備の文字が目に入った。これだ、これならすぐにでも金になる。私は一時間も歩いたろうか、やっとの思いで目的の会社(?)に辿り着いた。家(会社)の構えを見て、一瞬躊躇した。前を通り越して、近くの公園へ。すぐそばに中日球場が見えた。しかし、いくら考えても同じことだ。いい考えが浮かぶはずがない。思い切って面接を受けに行った。荷物は何に一つなく、身につけたヨレヨレの背広、これが全財産だった。

 賃金は一日七千円。食事代と寮費を差し引かれると、後は全部酒代に化ける。寮の仲間は全員実によく飲んだ。もっとも酒でも飲まないと、侘び住いの生活はとてもやり切れない。私も皆なと付き合って、酒を飲んだ。来る日も来る日も、働いては酒を飲み、また働いては酒を飲む。これを繰り返しているうちに歳月はどんどん過ぎて行き、さすがにこの生活も嫌になってきた。

 休日のある日、テレビを見ていると、偶然将棋対局の時間だった。私は食い入るように画面を見ていたが、いつしかポロポロと涙を流していた。私にとって将棋とは何であったか、また現在何であるのか、私にはよく分らない。しかし、こんな生活を送るようになって、かつてのような充実感、満足感を一度も味わっていないことは確かである。何にかを愛するとか、燃えるとかといった感情を忘れて久しかった。

 こんな生活は、生活ではない。

 たとえ苦しくても、自分の存在を確認できるような暮らし、自分と向き合い対決することによって喜びを味わえるような仕事、そんな濃密な時間がほしくなった。また、今年六歳になっている筈の娘のことが、しきりに思われた。乳飲児の時に別れて以来逢っていなかったが、娘のことを思うと、ジンと胸に響いてくるものがあった。並みの親らしいことは何にもしてやれなかった自分本位の父だが、決して忘れていた訳ではない。いつも心の奥深く疼いているものがあったのである。

 そんな思いが募ったある日、私は一路東京を目指していた。二度と東京の土を踏むこともあるまい、と思ってから二年近くの月日が流れていた。上京してもどこにも顔を出せた義理ではない。辛うじて娘には会えたが「小父さん、小父さん」と可愛い声で言われて、思わず目がつぶれる思いがした。

 暫くは誰にも会わないようにしていたが、それでは上京してきた意味がない。思い切って、旧友の宮崎国夫さん(三桂クラブ席主)を訪ね、真情を吐露し、再起への足がかりをお願いした。宮崎さんは快く引き受けて、いろいろと細かく面倒を見てくれた。また、アマ連の関さん、弁護士の谷口亮二先生はじめ、沢山の人たちにお世話になった。とりわけ㈱大志の清水源治社長には温かくも厳しい御指導、御援助を賜った。

 私は、私の不祥事にもかかわらず、今一度立ち直るチャンスを与えて下さった、これらの方々の信頼に応え、また多大なご迷惑をおかけした方々への感謝とお詫びのためにも、今後精一杯頑張るつもりである。

 そして、その決意のほどを披瀝し、これまでの悪行のお詫びをするために七月初め、債権者の方々へお手紙を差し上げた。早急には借財を整理出来るような情勢にないが、一日も早くキチンと精算してきれいな身体になりたいと、固く心に誓っている毎日である。

 将棋界へ復帰できる日(皆さんからお赦しを頂ける日)を夢見ながら、東京の一角でコツコツと地道な努力を積み上げていきたい、そのためには少々の苦しさにへこたれず、一所懸命頑張っていく所存です。

 終りに、私如き者のために、貴重な誌面を提供して下さった「将棋ジャーナル」編集部と、長文の駄文を辛抱強く読んで頂いた読者の皆様に感謝しつつ、この稿を終らせて頂きます。

* * * * *

この将棋ジャーナルの3号にわたる手記は、将棋ジャーナル誌上の読者欄では非難の声も目立ったが、編集部によると同情票と批判票の割合は3対1ぐらいであったという。つまり同情票が75%。

私も同情票に1票だ。

* * * * *

小池氏が将棋をはじめた時期が遅かったにもかかわらず、なおかついろいろなことがあって若い頃に集中して将棋に打ち込む時間が十分にとれなかったにもかかわらず、このように強かったということは、やはり天才だったのだと思う。

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小池氏がもっと女性にモテなかったら、ここまで大変なことにはならなかったような感じがするが、モテなかったらここまで将棋が強くならなかったかもしれないので、人生は難しい。

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将棋ジャーナルの翌号では小池重明-田中保(GC、アマ名人)戦が企画され、小池重明氏が自戦記を書いている(小池氏の敗戦)。

* * * * *

団鬼六さんが小池重明氏を支援しはじめるのはこの数年後のこと。

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

小池重明氏「すべてを告白します」(後編2)

将棋ジャーナル1985年12月号、小池重明氏の「すべてを告白します(最終回)」より。

こども将棋教室

 私の筆もだんだん重くなってきた。しかし、ここを避けて通ることは出来ない。歯を食いしばって、事件の概略を告白しようと思う。

 私にはアマ名人になる以前から、一つの夢があった。それは”こども将棋教室”を開きたい、ということだった。こども達に将棋の理論とマナーを教える、そして実戦で鍛える、これは将棋の普及にもなり、将棋界のレベルアップにもつながる。もし、これがある程度事業化して定期的にやれたら、とても素晴しいことだと考えていた。

 しかし、いろいろ研究してみると、特定の会場で定期的に教室を開くことは、採算的にとても難しいし、多数のこどもを対象にすることも困難である。

 そこで巡回移動教室のようなことも考えたが、結局将棋大会を中心に運営するのが、最も現実性のある妥当な形式のように思えてきた。

 会場は各区市町村の公民館を借り、会費は無料で、賞品は各地元商店街などから応援してもらう。東京二十三区の場合、一つの区で三ヵ月に一度位の割合で開く構想だった。月間にすると、八回大会が開催できることになる。こうして、こどもたち、その父兄たちの間に将棋を指す楽しみと目標を与えながら、大会運営が一応軌道に乗った時点で、改めて将棋を本格的に教える”こども教室”の開設を計画しようと考えた。

 そして、いささかでも将棋の普及に貢献しながら、将棋以外に生きる道のない私自身を役に立てたい、と願ったのである。プロ入りして専門棋士になるのが、本来の私の夢であるが、現在の将棋連盟の制度ではそれは到底実現しそうにない。それならば、せめてものこと何らかの形で将棋の仕事に携わりながら、将棋の勉強をつづけて行きたいと、私は強く思った。

 この夢は、日を逐う毎に私の中でふくらんでいき、都下町田市選出の都会議員、渋谷守生先生に大体の趣旨をお話ししたところ、本当にやる気があるのなら応援しようとのお言葉を頂いた。その後”こども将棋教室”の母体となるものとして「東京将棋連盟」(仮称)を作ろうという話にまで進展した。知り合いの愛棋家数人の方にこの計画を説明したところ、皆さんが二つ返事で賛成して下さり、何れも資金面その他の協力を快諾して下さった。この好反響に私はすっかり気を良くして、これなら十分やって行けそうだとの自信を固めたのだが……それなのに、なぜこんな結果を迎えてしまったのだろうか。この文を書きながら、私は自分自身の不甲斐なさに、今さらながら呆れ、腹を立てている次第である。

 責任はすべて私にあり、その原因もまた私自身の中にあった

 決定的にまずかったのは、私の事務遂行能力の不足(計画実行までには、細かい無数の事務的手続を積み上げていかなければならない)と金銭管理面のルーズさだった。

 具体的な活動に入る前に、わずかな障害につまずいて、これの解決能力がないために、現実的なことは一向に前へ進まない。しかも、このことを早い時期に鋭く自覚していたら、資金集めのテンポを早めて適当なスタッフを編成するなどして、私個人の欠陥を補なうことが出来たのであるが……。

 金銭面でも、つまずく要素が一杯あった。何となく無計画に、たまたま有力者にお会いすると、資金の拠出もしくは借用をお願いするといった調子で、ある相当額のプールがなかなか出来なかった。そして一方では、私個人の経済が完全に行き詰まっていたから、つい安易な気持で集まった金を一時流用する、流用したらそのまま元へ戻せなくなる、といった悪循環が重なって行くのだった。

 こうして折角集まった金は、私の生活費や交際費、酒代、借金の利息等に次つぎに消えて行った。いけない、いけないと思いながらも、ずるずると惰性がつづき、資金は一向に確保できず、金が無くなると集め、集めては使ってしまうという蟻地獄のような状態が続いた。しまいにはサラ金にまで手を出すようになっていた。

 こうなると焦りは焦りを呼び、少しでも何とかしようと競馬やギャンブルに手を出すようになり、完全に深みにはまり込んでしまったのである。気がついた時には、前後三年ほどの間に数十件約一千万円という莫大な借金だけが残っていた。

 純粋な動機から出発したはずの計画だったが、私の至らなさ、だらしなさで、結局は泥まみれの姿となってしまい、多くの知人、友人各位の好意を無にしてしまった。まことに慚愧のきわみである。

 そして自業自得とはいえ、このことが私のプロ入り問題にまで悪影響をおよぼし、私の最後の望みは完全に絶たれてしまった。一時はあれほど持てはやしてくれたマスコミも、掌を返したように、仮借ない糾弾をしてきた。身から出た錆とはいえ、これは応えた。私にはもはや、耐える力が残っていなかった。五十八年秋、私は何にもかも振り捨て、悄然と当てもない旅に出た。

プロ入り問題の真相

「敗軍の将、兵を語らず」という諺があるが、あれだけ世間を騒がせ、多くの方に迷惑をかけてしまった以上、私のプロ入り問題についても、この機会にぜひ語っておきたいと思う。というのも、この一種の騒動に関して、沢山の発言があり「将棋世界」はじめ各紙誌でも取り上げられているので、当時一言もモノを言う勇気がなかった当事者として、その立場からの釈明なり事実の報告があったとしても、若干は許されるのではなかろうかと思う次第である。筆は足りないかも知れないが、この問題について私が感じたまま、考えたままを正直に話すことにしよう。

 五十七年暮れ頃、私は借金がかなり増えていたので、何とか手当てしなければと、真剣の旅に出た。

 名古屋を振り出しに、大阪、広島、小倉、宮崎、仙台、秋田という順で回り、それぞれの土地の強豪に真剣勝負をお願いした。幸い、それ相当の収穫があり、当座少しばかり息をつくことが出来た。

 さて、大阪から広島へ新幹線で向かう途中、食堂車へ行くと、日本将棋連盟の大山会長が、連れの方となにか話しながら食事していた。

 近づいていくと、視線がばったりと会い、思わず身体が固くなった。大山十五世名人には朝日角落戦でお相手して頂いたことがあり、一応面識があった。

私「どうも、お久しぶりです……」

大山「いや、しばらく。どちらまで行くの」

私「広島から、ずっとあちこち回ろうと……」

 そんなやりとりがあって、私が少し離れた所で食事をしていると、大山会長の「九号車にいるから、後でまた」という言葉があった。「何だろう」と私が考えている間に、会長と連れの人は何時の間にか居なくなった。私は急にのんびりした気分になって、食事をすませて窓の外の景色を眺めていた。

 そこへ大山名人が一人でやってきた。

 お茶を飲みながら話しているうちに「小池さん、プロでやってみる気はないの?」と大山会長。びっくりしたが嬉しい気持で

「三段からでも、入れるものなら入って、頑張ってみたい気持はあります」と私。

「三段は年齢制限があるから、まずいな……」と会長。

 後日東京に帰ってから、あの時の大山会長の謎のような言葉をいろいろ考えてみたが、いま一つ真意がはっきりしない。たんなる気まぐれで出た言葉のようにも思えない。そこで古い友人の近代将棋社の森編集長に会い、永井英明社長から大山会長に聞いてもらえないかとお願いした。

 永井社長を通じての、大山会長の返事はこんな具合であった。

「しかるべき保証人(師匠)を立てて、連盟に文書で申し込むように」

 早速長い間お付き合いをして頂いている松田茂役九段にお願いすると、快く引き受けて下さった。そして松田先生は、忙しい中を時間をさいて大山会長と会い、どんな文面にしたらよいか打ち合わせをして下さった。

 大山会長の話では、現行の奨励会制度(年齢制限)があるので、三段ではまずい、むろん二段や初段でもまずい。入るなら四段で申し込みなさい、ということだった。連盟の記者会(新聞、テレビ、雑誌等)にも協力をお願いしたところ、全員がプロ入り賛成との言を得た。さらに推薦人として七條兼三氏(秋葉原ラジオ会館社長)、高木達夫氏(広島平和公園支部長)のご諒解も得た。

 ところが連盟に書類を提出すると、棋士会にかけられ、全員一致(といっても百数名の会員中わずかに二十数名しか出席していなかった)で否決されてしまった。

 これでは約束が違うではないかと、怒った松田先生が大山会長のところへかけ合いに行っても、のれんに腕押しでさっぱりラチが明かない。会長は逃げの一手である。

 一方、記者会のメンバーの読売新聞の山田史生氏が連盟の若手理事に話をしに行って下さったが「読売新聞と連盟との契約金を増やしてくれるのなら、考えてもよい。棋士が一人出来れば、その分金が余計にかかるのだから……」と筋違いの返事だった。

 当時この問題をめぐって、あれこれとずいぶん書かれたが、私は何にも反論しなかった。所詮水かけ論になるだろうし、だいいち「これで念願のプロになれる。やっと将棋オンリーで生活できる。入ったら、勝って勝って勝ちまくって白星(お金)を積み重ね、ご迷惑をかけた方たちにも何とか返済の目途がつく。これから一所懸命頑張ろう」と天にも昇る心地でいたところへ、予想外の鉄槌が下ったので、ただ呆然と放心状態だった。

 後になっていろいろ情報を総合してみると、結局私のプロ入りが阻止されたのは、全棋士の意思というよりも、「素人のくせに、仲間をチョイチョイ負かす、あの生意気な男にお灸をすえてやれ」「我々は苦労して奨励会から必死に上がってきたのに、途中から楽して入られたのではたまらない」「大山会長にだけくっついて、我々に事前に挨拶に来ないとは何事だ」などという一部の棋士による感情的な根回し工作の結果だったようだ。

 もちろん、反対論の有力な根拠として私の素行上の問題が使われたのはいうまでない。これは全く私の不徳のいたすところでこんなところに隙を作った私の不敏は返す返すも残念である。また、そのために折角絶好のお膳立てをして下さった大山会長はじめ松田先生、七條社長、高木会長らに対して申し訳のないことをしてしまった。四面楚歌の中で、ずいぶん辛い思いをされたことと、私は一層身の縮む思いだった。

 しかし、くり言になるが、プロ入りに際して、私の技倆の合否が全く判定の対象にならず、それ以外の問題だけで事が処理されたことについて、現在でも私はどうにも割り切れない思いがしている。「強いのがプロではないか。素人を入れるのが嫌なら、試験でも何でもして、やっつけてしまえばすむ問題である。それだけの自信がプロ側になかったのか?」私の女々しい怨み節である。

 それにしても残酷な話だった。

 一度与えられた希望を取り上げられるのは、全く希望を与えられないことより、どれだけ殺生か。私の絶望感はますます深まり、さながら生ける屍のような心境だった。何をする気力も失せていた。

 しかも、私の業の深さよ。借金だけは依然としてふえつづけ、サラ金の催促は日増しに厳しくなってきた。破滅の時は刻々と迫っていたのだった。

(つづく)

* * * * *

綻びがどんどんと大きくなる展開。

借金は厳しい。

* * * * *

プロ入り申請。推薦人として七條兼三氏、高木達夫氏という、会館建設など当時の将棋界に大きな貢献のあった迫力満点の二人の大物を揃えたまでは良かったのだが、結果としては不首尾に終わってしまう。

瀬川晶司五段のプロ入り試験の時と大きく異なるのは、物理的にも心情的にも同年代の周りの人が動いてくれたか、動いてくれる人がいなかったかの違いだと思う。

一人だけではできることも限られてくる。なかなか難しい問題だ。

小池重明氏「すべてを告白します」(後編1)

将棋ジャーナル1985年12月号、小池重明氏の「すべてを告白します(最終回)」より。

鬼加賀との対決

  何時ものように「リスボン」で飲んでいると、大阪の横内正社長(ビル経営)がひょっこり現われた。

 横内さんは外見からしていかにも金満家の社長サンといったタイプだが、将棋はどうしてなかなかのもので、一介の旦那芸ではない。大田学、加賀敬治といった有名な真剣師に、倍層(一対二の賭け率)の手合で向かっていく実力の持ち主。いわゆる県代表クラスといってよい。

 将棋ファンが集まれば、話は決まっている。自慢話か、誰より誰の方が強い、弱いとかいった下馬評のたぐいである。また東京と大阪というのは、昔から東西決戦などといわれるように必要以上に対抗意識があり、何となく話が盛り上がってくるものらしい。

 この晩も酒がすすむにつれ、加賀が日本一や、いや小池も強いで、といったような話に進展して行った。折から同席していたアマ連の関さんが、それは面白いから「将棋ジャーナル」の企画に二人の対決を採り上げよう、と乗り気になって、話はにわかに現実性をおびてきた。かくて「将棋ジャーナル」五十五年一月号掲載の”小池重明全国縦断勝負・大阪編”のストーリーが出来上がって行くのである。

 こうなると、当の本人同士よりも周りの応援団の方が熱が入ってくる。どうせやるなら真剣で、ではナンボ乗せようか、誰と誰が大阪まで付き添いで行くかなど、俄然話題が沸騰し、大変な騒ぎになった。

 結局五番勝負で三番勝った方が五十万円を取り切り。これは公式対局として、その後で番外篇として一局十万円で十番勝負をする、という取り決めが成立した。もちろん、本人同士に金があるわけはない。すべて応援団が用意してくれ、ウマ(対局者)には勝ち分の五割、半分が報酬として支払われることになった。

 対局場は大阪の通天閣囲碁将棋センター。有名な通天閣の塔の地下室をそっくり対局場にしている、日本一の収容人員を誇るマンモス将棋道場である。通天閣を仰ぐたびに、私は何故かもの哀しい、淋しい気分に襲われる。ジャンジャン町の横丁には人間臭い匂いがたちこめ、庶民の哀愁が色濃く漂っているような気がする。東京とは異質の町である。

 大田学、関則可両氏立合のもとに勝負は始まった。

 加賀さんもまた私に劣らず将棋一筋の人生であったように思う。時代に恵まれなかった分私より損をし、それだけ苛酷な生き方を強いられてきたのではないかと想像する。鬼加賀と異名をとるほど強く、私が知っているだけでも同氏の残しているエピソードは数え切れない。 

 例えば、現役プロ八段と平手戦で真剣勝負をして圧倒的に勝ち越したとか、東の大将格の関則可氏と徹夜で死闘を演じて二番勝ったとか、血湧き肉踊る面白い話ばかりである。私にとっては加賀さんは仰ぎ見る大先輩で、何時の日か同氏と対等に相見えるようになろうとは、数年前までは夢にも思わなかった。それだけにこの対決には感激し、思わず力が入った。二人は多勢の観戦者にもかかわらず、目の前の盤面以外には何にも目に入らず、何にも聞えず、ひたすら全神経を集中して、精一杯戦った。経験豊かで、多彩な技術をもつ加賀流の力将棋の前に、私は何度か倒れそうになりながらも必死に持ちこたえ、踏ん張った。結果は公式戦は私の勝ちとなったが、通算成績は二日間合わせて七勝七敗の全くの五分の星で終った。最終局を指し終った時、私は疲労感と満足感にどっと襲われ、しばらくはモノを言うのもやっとの状態だった。恐らくこの時の気分は加賀さんも共有したはずだったし、二人にしかわからない感情だったように思う。五十歳の若さで他界された加賀さんの御冥福を謹んでお祈りいたします。

日暮里将棋センター

 私はアマ名人になる前後数年間は新宿歌舞伎町がホームグランドで、そこで働き、将棋を指し、酒を飲んだ。

 時に得意の絶頂に立ち、時に失意のどん底に落ちたりした。念願のアマ名人になったものの、家庭は崩壊し、仕事は転々として長続きせず、私生活は次第に混乱し、酒に溺れることが多くなった。将来の展望は何にひとつ拓けず、将棋の好敵手にも不自由するようになり、何となく行き当りばったりの生活になっていた。

 年の瀬もつまった十二月某日、たまたま日暮里将棋センターへ電話すると、いま忘年会をやっている最中だという。

「よろしかったら、いらっしゃいませんか」

 と席主の増井美代子女史の声。酒に目のない私のこと、二つ返事ですぐお邪魔した。

 日暮里将棋センターと私には、以前こんないきさつがあった。私がまだ葛飾区でトラックに乗っていた頃、新聞の求人欄にアルバイト(手合係)の募集が出ていた。私の存在など全くの無名の頃である。面接に行ったところ、ごっつい顔が悪印象を与えたのか、ものの見事に落ちてしまった。

 その後「リスボン」などで増井さんを知るようになり、さきに書いた電話の一件となったのである。忘年会にお邪魔したのが縁となって、その後何度か行っているうちに、増井さんの気っぷのよさというか、おおからな人柄に魅せられるようになった。

 そうこうしているうちに、小池実戦教室、日暮里研究会などが発足のはこびとなった。実戦教室で必要というので大盤なども用意してもらった。教室の方には女性も含めて一時十数人の会員が集まり、定収入の無かった私には非常に有難かった。

 研究会の方は月に一度か二度強豪が集まり、勉強と親睦をはかった。内田昭吉(読売日本一)、金子タカシ(同)、白井康彦(学生名人)、櫛田陽一(都名人)、木屋太二(観戦記者)などの他に学生強豪として小島一宏、美馬和夫、藤森保らの諸君が参加した。また女流プロの蛸島彰子さんがセンターの師範をしていた関係から、蛸島さんはじめ、中瀬奈津子(藤森)、神田真由美、兼田睦美(福崎)さんらが出席し、華やかな顔ぶれだった。

 序盤下手の私が、わりにうまく指せるようになったもこの研究会のおかげだと思っている。研究熱心で、しかも和気あいあいとし、内容が高くムードの良いことでは、日本一の研究会ではないかと自負していた。会が終ってからの懇親会も楽しく、蛸島さんの素晴らしいカラオケなど、思い出は尽きない。「近代将棋」誌に将棋と酒という随筆を書かしてもらって、応援して頂いたのもこの頃である。

 しかし、他人目にはどうあれ、経済的にはとても苦しく、毎日をしのいで行くのが精一杯だった。

「年中真剣勝負を指して、ずいぶん儲るでしょう」

 とさるプロ棋士の方から言われて、びっくりしたこともあった。真剣というのは、相手があってこそ指せることで、あえて挑戦してくる者も少ない当時の私は、むしろ無聊をかこっていた。私自身、へんに見栄っ張りのところがあり、自分から相手に誘いかけたりすることも何となくはばかられて、私は自分の存在が何となく中途半端で宙に浮いているように感じはじめていた。かげりが、ぼちぼちと出て来はじめた時期でもあった。

 その頃、久しぶりに懐しい新宿へ出かけた。「リスボン」で旧知の仲間と会い、話がはずむほどに酒が入り、しまいには正体不明の状態となってしまった。それでも一人で町へ出て、ぶらぶら歩いているうちに深夜をパトロール中のお巡りさんをからかってケンカとなり、はずみでぶん殴ってしまった。

 たちまち「御用」になり、歌舞伎町交番へ、すぐに新宿署へ移されて、留置場にぶち込まれてしまった。翌日気がついた時には、前夜のことは忘れてしまって、なかなか思い出せない。この先何日泊められるか不安になった。よく考えてみれば、朝日のアマブロ角落戦で、大山名人との角落対局を一週間後にひかえているのである。熱烈な将棋ファンの都議会議員渋谷守生先生(アマ五段)を思い出し、早速同氏に連絡をとって無事釈放してもらった。ふだんは甘えている渋谷先生の姿が、この時ばかりは大きく厳しいものに見えた。

森難二八段を破る

 昭和五十七年六月、森雞二八段と指し込み三番勝負を行なうことになった。「将棋ジャーナル」の企画である。

 森さんは名人挑戦者になったこともあり、プロ棋界でも有数の高段者である。折りから棋聖戦で、二上棋聖に挑戦することが決まったばかりの時だった。

 手合は角落から出発して、一番手直りで、三番指し込む。すなわち上手が勝ち続ければ飛車落、飛香落まで行くし、下手が勝ち続ければ香落、平手となってしまう。どちらにとっても面子と意地のかかった厳しい勝負である。

 私は当時二期連続アマ名人となり、経済的、私生活のうえでは死活スレスレの線をたどりながらも、将棋の方はむしろ充実し、わずかながら上昇気連にあった。それだけに将棋に勝ち、生活の方も何とか立て直したいと、かなり真剣に思い詰めていた。

 第一局目の角落戦は、序盤下手が災いして、中盤で早くも必敗形になってしまった。しかし、簡単に負けるわけにはいかない。必死にくすぶっているうちに、上手が楽観視し過ぎ、最終辛くも逆転に成功した。私としては全く不本意な将棋で、終始生きた心地がしなかったのだが、皮肉なものである。これですっかり流れが変ってしまった。

 第二局目は、香落戦。上手の右端に香車が居ないのに乗じて、私は十八番の居飛車穴熊。一局目の勝利に気を良くして、よく手が伸びて楽勝した。森さんは先ほどの逆転劇がよほどショックだったのか、やや指し手が荒くなったように感じた。なまじ旺盛な闘志の持ち主だけに、歯車がいったん狂うと、平素の実力が出し切れないのかも知れない。

 第三局目は、いよいよ待望の平手戦。私は指し馴れた四間飛車に振り、銀冠に組み上げた。森さんは居飛穴。

 ここまでくれば負けて元々と、私は終始冷静に指し手を進めたが、森さんにかかったプレッシャーは予想外に大きかったらしい。結局この心理的ハンデが微妙に影響して、私は望外の勝利を得ることが出来た。

 森さんは後日、大山会長からお小言を頂戴したらしいが、そのため私がトップバッターで、以後も続く予定だったこの企画は一回切りでつぶれてしまった。勝負の常とはいえ、森さんには悪いことをしてしまったと思う。折角アマ連の企画に好意的に協力して下さったのが、全くの裏目に出てしまったのだから。

 しかし、森さんの態度は立派だった。潔く敗戦を認めた男らしい態度は、さすがに高段者の風格があった。私如きがただ一度平手で勝ったとて、誰が森八段の実力を疑おうか。ただ将棋というゲームには、往々にしてそうした番狂わせを演ずる意外性の一面があるということだろう。また、それだからこそ将棋は面白いのかも知れぬ。

 私の悪運もまだ多少残っていたのか、同年は読売日本一にもなり、タイトルがまた一つふえた。

(つづく)

* * * * *

小池重明氏が最も華やかな活躍をしていた頃、私生活はその反対に厳しい状況であったことがわかる。

私生活が厳しければ厳しいほど、小池氏は将棋に勝っていたのか、将棋に勝てば勝つほど私生活が厳しくなっていったのか、どちらなのかはわからない。

* * * * *

「熱烈な将棋ファンの都議会議員渋谷守生先生(アマ五段)を思い出し、早速同氏に連絡をとって無事釈放してもらった」

渋谷守生さんは後の石原慎太郎知事時代に都議会議長を務めている。

渋谷守生さんからいろいろとお話を伺ったことがあるが、やはりこの時の釈放のことも話されていた。

渋谷さんの記憶では、釈放されたのは大山康晴十五世名人との対局の前日だったという。

* * * * *

増井美代子さんは女性アマ強豪で、日暮里将棋センターを閉めた後は、クラブを経営。

将棋ジャーナルでの対談にも登場している。

伝説の月刊誌『将棋ジャーナル』に載った、今では考えられないような座談会

小池重明氏「すべてを告白します」(中編3)

将棋ジャーナル1985年11月号、小池重明氏の「すべてを告白します(2)」より。

アマ・プロ対抗戦

 昭和五十四年、およそタイトルというものに縁のなかった私が、はじめて全国レベルでの大会で手が届きそうになったのが、
読売新聞主催の実力日本一決定戦である。

 この棋戦は名誉もさることながら、優勝賞金八十万円(現在は百万円)という大きな副賞があり、全国アマ強豪の憧れの的だった。もちろん私も一発を狙い、大いに頑張った。結果は同郷の名古屋出身の先輩、竹内俊男さんに名をなさしめることになったが、準優勝でも四十万円という大金が転がり込んだ。しかし、あぶく銭は身につかない。祝勝会だ、二次会だと、その日会場に来ていた横友十人位と飲み歩き、その晩のうちに二十万円位をきれいに使ってしまった。もっと堅実に金の使い途を考えればよさそうなものだが、その場の雰囲気で後へ引けなくなってしまうのが、私の弱さであり、甘さである。結局は後になってそのツケが回ってくるのであるが……。

 この頃「将棋ジャーナル」の企画で、アマ・プロ代表五人ずつによる総当り対抗戦が企画された。むろん総平手である。これまでアマとプロとの棋戦は、大駒落が普通視されていたので、これは破天荒の企画、といえた。おまけに勝者には賞金までつくのだから、こんな嬉しい話はない。私の闘志は燃え上がった。

 そして、もう一つ裏の事情として、私が「頑張ろう」と強く決意した理由があった。それは当時全国のアマ強豪と公式、非公式にいろいろと手合せをしてきた結果、私なりにある自信のようなものが芽生えていたのだが、この棋戦におけるアマ側代表として、私が補欠扱いされていたことである。

 プロ側は滝誠一郎五段(当時、以下同じ)、菊地常夫五段、鈴木輝彦四段、森信雄四段、脇謙二四段という活きのいい若手の粒揃いだった。

 これに対するアマ側は、当初の構想として関則可さん(アマ名人)、中村千尋さん(朝日アマ名人)、加賀敬治さん(アマ名人)、沖元二さん(アマ名人)、そして茨城の安嶋正敏君(東日本名人)だった。これがジャーナル誌の選んだ当時のアマ最強ともいうべきチーム編成で、私はその選から洩れていた。事情で安嶋君が辞退したので、その代りに私が辛うじて追加された。内心ひそかに自信をもっていた私は、思い切りガツンとやられた感じで、私のプライドは大いに傷ついた。

 これといったタイトルは何ひとつ持っていない私だが、実力的に諸先輩より劣っているとは思いたくなかった。ベスト五人の内には入れると思っていただけに、補欠扱いで選ばれたことに内心いらいらしていた。「序盤の下手糞な小池の将棋では完封されてしまう」「粘るだけの穴熊将棋はプロには通用しないだろう」とかいう意見もあったとか。

「ようし、盤上で決着をつけてやる!」

 これが当時の私の偽らざる心境だった。思い上がりと言われようと、傲慢とそしられようと、私は勝負師としてそのことを屈辱として感じていた。後になって私がアマ名人に執念を燃やすようになったのも、実はこの時のようなみじめな思いを度々味わされていたからである。「無冠の帝王」という恰好のいい言葉もあるが、つまるところ権威的なタイトルが無ければ、世間様は一人前に扱ってくれない。よし、それじゃ一丁いちばん立派なシャッポを奪ってやろうじゃないか、といった気持だったのである。

 さて、第一局目は対鈴木輝彦戦だった。

 折から女流アマ名人の湯川恵子さんが、「小池さん、差し入れは……」と聞きにきてくれた。私は渡りに舟とばかり「お願いします」と言った。まもなく品物(缶ビール)が届いたとの連絡が入り、私は別室に行って皆なに分からないように一気に飲み干した。ところが、それを何時の間にか見ていたのが奥山さんで、観戦記に「太一文字のような神経」と書かれてしまった。

 しかし、本人は「繊細過ぎる神経」のせいだと思っている。他人の目には粗野で太々しい態度と映っても、私自身は極度の緊張と不安に堪えかねて、気持をリラックスさせ平常心を保つために、ビールの力を借りているのだが……こんなところにも私の性格のひ弱さ、人間としての脆さがあらわれているのだろうか。

 将棋は中盤の終り頃、絵で描いたように私の一発が決まり、やっとこさ辛勝した。私は最初の一番を勝って、ホッとした。局後の検討で、鈴木さんの将棋に対する深い愛情と思い入れのほどがずっしりと伝わってきて、この後は何番勝っても鈴木さんには勝てないのではないか、そんな感じさえ抱かされた。

 第二局は対森信雄戦。

 私は例によって四間飛車に振り、穴熊に囲った。中盤またも苦戦。マムシのと金が二ヒキ、わが穴熊陣のすぐそばまでにじり寄ってきた……終盤森さんが間違えて、やはり辛勝。じっとりと脇の下が汗ばんでいるのが分った。内容的には二連敗だが、ともかく二勝をもぎとって、私は責任を果したような気楽な気分になった。

 第三局目、対脇謙二戦。一つ覚えの四間穴熊で、やはり中盤必敗形になった。しかし、脇さんもちょっとぐずり、唯一のチャンスが私に回ってきた。だが、私の力ではその時手を発見することが出来なかった。局後になって学生強豪でやはり穴熊党の美馬和夫君に教えてもらい「そうか!」と口惜しがった。けれども、考えてみればそんなに何度も悪い将棋を引っくり返すことは出来るものではない。この一戦で漸く固さがほぐれ、ふだんのペースに帰ったような気がした。

 第四局目、対菊池常夫戦。第五局目、滝誠一郎戦。

 いずれも苦しかったが、何とか勝つことが出来た。通算で四勝一敗。私にとっては望外の成績だった。全体としてはプロ十五勝、アマ十勝で、一応アマ側の善戦といえたが「やはりプロは強い」というのが、私の正直な感想だった。

 その後いろいろな機会にプロ棋士と対局する機会に恵まれたが、自分としては、まずまず納得できる成績を残せた。その中で
も印象深かったのが、対田中寅彦戦(当時五段)だった。

 これは週刊誌の企画で指した。

 田中さんはお家芸の居飛車穴熊、私は四間飛車で美濃囲い(銀冠)。難解な中終盤が続いたが、結局私の指運が良かったのか、何とか幸いする。その頃の私は経済的にも精神的にも非常にハングリーな状態にあり、そのためかえって将棋は無心に、一所懸命に指せたような気がする。

”プロ殺し小池重明”などと「週刊現代」に書かれ、私はしてやったりと鼻の下を伸ばし、その記事を何度も何度も飽かずに読み返したものである。

宿願のアマ名人に

 ”読売二位”、これが当時の私の将棋の肩書だった。何時頃からか、私はこの肩書が次第に苦痛になりはじめていた。二位はどこまで行っても二位、一位とは根本的に違う……そんな思いが昭和五十五年度アマ名人戦都下予選に私を駆り立てた。

 明日は初日の予選が始まるというのに、例によって新宿歌舞伎町の「リスボン」で皆なと飲んでいる。時計の針は深夜の二時を回った。「小池サン、明日は大会だから、もう帰ったら……」と心配してくれる人がいるかと思うと、すかさず「人並みに早く帰って寝なければ、お前は勝てないのか」などと、乱暴な発言があったりする。どちらも友情に溢れた、好意的な人達だから厄介である。結局朝まで飲み明かし、一睡も出来なかった。

 そんな調子で一日目、二日目を通過して、いよいよ最終日。今日は準決勝と決勝の二局のみ。

「今日だけは、おとなしく家へ帰って寝たら……」と誰かが言う。「うーん、そうしようかナ」などと言いながらも、淋しがり屋の私は何故か去り難い。私のどうしようもない、だらしのないところである。ワイワイガヤガヤ騒いでいるうちに、気がついたら朝。「もう今日は行かないヨ。疲れて、眠くてしようがない」「ここまできて何にを言ってんだ」「いや、もう沢山だ」などと、押し問答。挙句の果て、引きずられるようにしてタクシーへ押し込まれ、八王子の会場に向かう。

 最終日ということもあって、会場には悪仲間の応援団の数も多い。しかし、どうにも眠くてたまらない。とうとう準決勝の対局途中で、たまらなくなって持時間を三十分間さき、横になってしまう。ほんとに、とんでもない奴だ。後になっては、そう思う。

 悪運が強かったのか、運命の女神の気まぐれか、ついに十二年ぶりにしてアマ代表となり、全国大会に出場することになった。

 ここまでくると、何としてもアマ名人になりたい、せめて予選だけでも通過しなければ面目が立たない。などとさまざままな思念が頭の中を駆けめぐり、錯綜し、点滅する。そして、少しずつ少しずつ気合が熟し、闘志が燃え上がって行くのだった。

 この頃は将棋べったりの生活に溺れ、仕事にも行かなくなり、当然金も家へ入れられなくなっていた。家へは一週間に何度かしか帰らなくなり、夫婦間の意思の疎通にも欠けるようになって、妻とロゲンカすることが多くなった。あれやこれやと不利な材料ばかり重なって、全国大会を後半月にひかえて、とうとう離婚沙汰。折角子供まで出来たのに、私の余りの無軌道な生活振りに、すっかり愛想を尽かされてしまったのである。

 将棋に夢中になると仕事がでたらめになって職を失い、妻と別れ、それにこりて将棋をやめると新しい仕事と家庭を得るが、暫くするとまた将棋を思い出す……こんなパターンの繰り返しで、いくら呑気な私でも時には深刻に考え込み、私のような男は家庭を持ってはいけないのではないか、結局は相手のひとを不幸にするばかりだ、などと自責の念に駆られるのだった。

 こんな状況の中で全国大会を迎え、私はどうしても勝ちたかった。

 家庭や仕事を犠牲にしてまでも将棋に打ち込んだ男が、明るい妻子の愛情に包まれて、経済的にも余裕のある生活をしている男たちに何で負けなければいけないか、何で負けられようかと、私は自分自身を追い詰め、ライバルたちに一種の敵意をもって当日にのぞんだ。

 いよいよその日が来た。

 予選は二勝通過、二敗失格で、二局もしくは三局戦かう決まり。初戦山形代表の土岐田勝弘さんにしっかりと負かされる。思わず背中が寒くなってくるのが自分でもわかった。後を必死に頑張り、何とか通過したが、前途多難を思わせた。

 二日目からは本戦(トーナメント)である。ベスト四位までを決める。その途中で大阪の加賀敬治さんと当った。迫力ある人だった。盤上没我という言葉がぴったり当てはまる対局態度で、私はその大きさを敏感に感じとっていた。戦型は相振飛車となり、私は当然のごとく穴熊に囲った。戦かいは私の無理攻めが幸いして、私は大きな関門をまた一つくぐり抜けることが出来た。

 最終日、宿舎に使用されている中野サンプラザの一室で朝早く目覚めた。時計は五時前を指している。やはり緊張しているのだろうか、何時も朝の遅い私としては珍しいことである。自動販売機で缶ビールを一本買い求め、窓から中野の駅を眺めた。何時も見ている感じではなく、駅のたたずまいが何となく違った感じで、どこかスッキリしている風に見えた。私の気持は無心というのか、おだやかで澄み切っていた。「今日はイケそうだナ」と私は漠然とながら、何となく予兆のようなものを感じていたのである。

 準決勝は大阪の沖元二対京都若島正。秋田の野藤鳳優対東京小池重明。どんな組み合わせになっても決勝戦は東対西というドラマチックな形になるわけだ。会場は千駄ヶ谷の日本将棋連盟。

 沖さん対若島さんは、一生に一度ともいうべき大ポカが若島さんに出て、沖さんの勝ち。私は百数十手を費して、野藤さんに辛勝した。

 決勝戦は舞台がNHKに移った。放映の本番中、トイレに行きたくなって、席を外した。対局者が一人しか画面に映らなかったのは初めての出来事だと、後で聞いた。こんなところにも、私がとかく誤解を招きやすい要素があるのだろう。私はただ緊張のしっ放しで急に尿意を催したに過ぎなかったのだが……また早指しは苦にならない方だから、持時間が五分や十分短かくなっても、さして困らない。

 さて、将棋は中盤で沖さんに錯覚がありやっとのことでアマ名人になることが出来た。大切なものを失って、他人には言えない苦しみの中で手に入れたアマ名人位だけに、私の喜びはひとしおだった。そして、これでやっと一人前の肩書が生まれたと、重い肩の荷を降ろしたような気がした。

 当時なにかと公私にわたって私の面倒を見て下さった古沢文雄氏が、天狗茶屋という将棋居酒屋を歌舞伎町で開いていた。とてもユニークな飲み屋で、将棋界はもとより地元の名物の一つとなっていたが、そこで祝勝会を開いてもらった。各界から五十人ほど出席され、私は幸福感に酔い痴れた。思わずショッパクて、甘い涙がにじみ出るのだった。二十代の初めに上京した私は、いつしか三十二歳になっていた。

(次回の最終回は、私にとってもっとも書きにくい部分の話になります。どうかよろしくおつきあい下さい)

* * * * *

「家庭や仕事を犠牲にしてまでも将棋に打ち込んだ男が、明るい妻子の愛情に包まれて、経済的にも余裕のある生活をしている男たちに何で負けなければいけないか、何で負けられようか」

最大級の物凄い迫力だ。

* * * * *

将棋世界1980年11月号、中瀬奈津子女流初段(当時…現在の藤森奈津子女流四段)の「ピッカピカの小池さん、アマ名人に」より。

 アマ棋戦の中で最も大きな行事である全日本アマチュア名人戦が9月7日(日)から3日間、東京千駄ヶ谷の将棋会館で行われた。参加者63名、北は北海道から南は沖縄まで、どの顔ぶれを見てもアマ棋戦では最高の大会である。

(中略)

9月6日(土)、午後6時より中野サンプラザで前夜祭が行われた。

 実はこの日、新宿の厚生年金会館で日本アマチュア将棋連盟主催の大会が行われており、やはり各県から勝ち抜いてきた代表18名が戦っていた。

 私も知人が出場するというので観戦に行ってみると、どこかで見たことある人がいる。沖さんと野藤さん。

(中略)

 夜は天狗茶屋でパーティ。アマ名人戦東京代表の小池さんが中野サンプラザから出場者の方々を連れて来て下さったので、急に賑やかになった。

(中略)

 小池さんはピッカピカの32歳。どうしてピッカピカなのかと言うと、実は沖さんも加賀さんも32歳の時最初の名人になっている。

(中略)

 小池さんは無冠の帝王ながら貫禄は充分。人望も厚く、将棋だけでなく人間的にも素敵な人。

(中略)

 決勝戦は午後からNHKで行われた。解説に内藤九段、聞き役には田辺忠幸さん。準決勝で敗れた二人もゲストとして出演することになっている。

 11:30にNHKからマイクロバスが迎えに来て一同NHKに向かう。NHKでのアマ名人戦決勝は今年で3年目。NHKで決勝戦の模様を放映して全国の方に対局者の表情などを見ていただけるというのは大変良いことだと思う。

 小池さんは初出演。沖さんは3回目だそうだ。沖さん「最初はちょっとドキドキするけど指し始めれば同じことや。でもいつ映されるかわからんからなァ。前に出たとき舌出してるところが映っちゃってねエ……」一方の小池さん「対局中は別にトイレに行ってもいいんでしょ?」とトイレの下見。

 昼食は沖さんお寿司、小池さんはヒレカツを食べて、リハーサル。座談会の後、3時対局開始。序盤ちょっと沖さん指しやすいかのように見えたが、中盤勘違いをしたため、局面はにわかに小池ペースとなり、その後沖さんも頑張りを見せたが、結局171手の大熱戦の末、小池さんが第34期アマ名人となった。

 表彰式の後、NHKの7階で簡単なパーティーがあった。

 そこでの小池さんの感想「嬉しいのひと言です。来年は沖さんとやりたくないなあ(笑)」

 内藤先生の新曲のお話なども伺えて本当に楽しいひと時を過ごした。

 この4日間、アマトップクラスの方々のお話を伺って感じたことは、将棋が強くなるということは人間的にも出来てくると思ったこと。

 将棋の強い人に悪い人はいないという事をつくづく感じました。

* * * * *

小池重明氏が魅力的なキャラクターであったことがわかる。

32歳までに結婚を含めて同居した女性が3人いたことがその一面を物語っていると思う。

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将棋世界1980年11月号グラビア「第34回アマ名人戦 うわさの強豪 小池重明氏が優勝」より。アマ名人戦決勝の対局中。

 

小池重明氏「すべてを告白します」(中編2)

将棋ジャーナル1985年11月号、小池重明氏の「すべてを告白します(2)」より。

生と死のはざま

 昭和四十八年だったか、私は突然十四歳も年上の女性とはげしい恋に陥った。

 相手の人は、御主人の倒産劇に巻き込まれて表向きは協議離婚の形をとって別居していたが、実際はレッキとした人妻だった。最初その身の上に同情していたのだが、気がついてみると愛情に変わっており、あっというまに抜き差しならぬ関係になっていた。

 私たちは顔見知りや何かとしがらみが多くて住みにくい名古屋を捨て、東京に駆け落ち同然の姿で出奔した。もちろん両親は反対だったが、もはやブレーキは利かなかった。

 上京すると、丸っきり知らない場所はなにかと不安ということで、松田先生が住んでおられる千葉県市川市に新居を構えた。私は運転手として生計をたてることを考え、さる運送会社に就職した。

 一人で北海道の釧路までトラックを運転して行ったことがある。

 東京から青森まで八百キロ、函館から釧路まではせいぜい二、三百キロ位と思っていたら、とんでもなく、東京から青森までの距離とあまり変らない。合わせて片道一千五百キロ、往復三千キロの旅だった。この間たった一人で車を運転するわけだ。孤独で、単調で、いい加減嫌になる。しかし、他に金になる特技をもっていない悲しさ、たとえ苦しくても運転手として頑張るよりほかなかった。

 やがて家内は妊娠し、女の子が生まれたが、早産で九百グラムの体重しかなかった。未熟児専門の築地産院に入院したが、その中でもいちばん小さかった。それでも半年位は生きていたろうか、ふとした風邪をこじらせて肺炎になり、あっけなくこの世から去って行った。まことに風のように来り、風のように去って行った小さな生命だった。

 相前後してポチポチ将棋を指すようになっていた。この頃、古沢文男氏が経営する新宿歌舞伎町の天狗将棋クラブで賞金大会があるのを雑誌で知った。二勝予選通過、本選トーナメントのシステムだった。ところがここでも本選一回戦に関則可氏と当ってしまい、いいところなしで負けてしまった。「やっぱり弱いのかナ」と思いながら帰途についた。その後暫くは運転手稼業が忙しく、あまり将棋に力を入れられなかった。

 その後たまに関さんの経営する立川将棋クラブなどに顔を出していたが、本格的に将棋にノメリ込むようになるのは、昭和五十二年に古沢氏が天狗将棋クラブを改装してからだった。

 この道場は徹夜歓迎で、寝具まで用意してあった。またおにぎりやおでんなどの食べ物もあり、道場に寝泊りして、そのまま一歩も外へ出ないで生活できるようになっていた。当然アマ強豪が集まり、真剣勝負も盛んだった。常連は木村慎治、吉田譲治、久保春男、伊藤秀一氏らで、いずれも錚々たるメンバーだった。また毎月一回賞金大会を開催するかたわら毎日優勝五千円のトーナメントがあり、仲間同士でしのぎを削ってこれを取り合った。当時奨励会員だった武者野勝巳五段や泉正樹五段らもよく出入りし、お互いに切磋琢磨する仲だった。

 経営者の古沢氏は不動産業が本業だったが、相当の将棋キチで道場経営も同氏の道楽のようなものだった。そして日の当らない奨励会員やアマ強豪を可愛がり、よく面倒を見ていた。そんなところから私も古沢氏の知遇を得て、よくあちこち引き回してもらった。

 沼津在住の歯科医、長尾盈先生のところへ吉田譲治氏と共に古沢さんのお伴をして行った時のことである。滝誠一郎六段や鈴木輝彦六段(当時二段)もちょうど来合わせており、良い機会だからと、鈴木さんの胸を借りることになった。私が二勝一敗、吉田さんが一勝で大いに面目を施した。

 吉田さんという人は面白い存在で、木村慎治さんと同じく新潟の出身だった。全国的には全くの無名にもかかわらず、将棋は素晴しく強かった。私とちがって正統派のち密できれいな将棋で、私はひそかに「何というアカ抜けした感覚の持ち主だろう」と内心感服していた。ある日どちらからともなく誘い合って、ひと晩みっちり指したが、どこまでいっても勝敗が片寄らず結局指し分けで終ってしまった。近年消息不明だが、一部には有力な死亡説もある。確認する方法もないままに過ぎているが、同氏の健在を祈るや切である。

 いったん将棋の世界へ打ち込んでしまうとこんなに面白いものはない。この頃、その道の大先輩である木村慎治氏に「真剣師心得」の教えを乞うたことがある。木村さんはたしか「昔のように羽振りのいいスポンサー筋は少なくなった。その代り、大衆化社会で若いサラリーマン諸君でも結構お小遣いを持っているので、焦らずに細く長くやるつもりでいけば、何とかしのいでいける筈だ」と力づけてくれた。

 また大阪から久保チャンこと、快男児の久保春男氏が長逗留しており、同氏ならではの遊びのコツや人生勉強をさせてもらった。天狗クラブと同じビルの中に麻雀「東舟」があり、いつしか将棋に、麻雀に忙しく、仕事どころではなくなってしまった。

 心配した古沢氏の好意で、同氏が経営する不動産会社を手伝うことになったが、なにしろ市川は遠過ぎることもあって、最初は一週間に一度は家に帰っていたのが、段々足が遠のいてしまい、金も不定期にしか入れなくなってしまった。

 将棋サロン「リスボン」という夜の社交場に出入りするようになったのも、この頃のことである。

 経営者の清水輝氏がなかなか出来た人物で、自己顕示欲が強く酒癖の悪い(もちろん私自身を含めての話だが)将棋指しや碁打ちの常連の集団をうまくリードし、何ともいえない解放された伸び伸びとした店のムードを作り出していた。また向う意気が強くて涙もろいママとも何となく気が合い馬鹿っ話に興ずるのが楽しかった。二上九段はじめプロの先生方も多勢あらわれ、その独特の風格は私の憧れをますます強くするのだった。

 異色は碁の上村邦夫八段で、将棋もなかなか強く、将棋好きのプロ棋士(碁)を多勢連れてきた。日本アマチュア将棋連盟が
結成されたのもその頃で、御大の関則可専務理事はじめ柿沼昭治、村山功、村松卓理事、岸本王晴編集長(「将棋ジャーナル」初代)らが大挙してあらわれたりした。また熱烈な将棋ファンのヤマチャンこと山崎武氏が取り巻き連十数人を連れてきては大盤振舞いするのも名物だった。

 いつしか無類の酒好きになっていた私がこのような場に出没しないわけがなかった。それでも昼間は真面目に働いたが、夜ともなると指しては飲み、飲んでは歌うといった有様で、すっかり家庭をかえりみなくなった。

 それでも、まだこの段階ではよかった。家内もある程度理解を示し、時たま元気づけてくれる電話をよこしたりした。

 しかし、私は何という気が多い男か。

 ふとしたことから、新宿のさる会社に勤めていた若い娘に魅かれ、いつのまにか彼女のマンションに泊ったりする深い仲になっていた。それにしても女の直感はすごい、と思う。一言も告白しないし、証拠物件のようなものは何にもなかったと思うのに、たちまち家内に見抜かれてしまった。灯ともし頃ともなると、会社の前にじっと張り込んで私が出てくると、そのまま黙って尾行したりするのである。

 その位はまだそれでも我慢できたが、ある日私がいない留守に家内が会社にあらわれた。それも頭をきれいに丸坊主にした姿で来たという。それを翌日古沢社長から開いたとき、私は穴があったら入りたい心境になった。と同時に、女の怨念のようなものを感じ、自分の勝手さ、無責任さをタナに上げて、もう駄目だ、別れようと思った。

 そうこうしているうちに、いつまでも逃げ切れるものではない。とうとう家内に取っつかまってしまい、一度だけ家に帰った。いろいろ話し合って、これでは二人とも破滅するだけだから、申し訳ないが別れてくれと頭を下げた。しかし結論は出ないままに寝床に入って、ふと目覚めると、家内が一人起きて、ジッとあらぬ方向をニラみながら物思いに触っているではないか。その姿には鬼気迫るものがあり、私は一瞬背筋が寒くなるのだった。

 こうなると、理屈も何もない。恐くなった私はサッと飛び起きると、着替えもそこそこに深夜の町に飛び出していた。その時はただ逃げたい、一心だった。

 その後両親が上京して正式に離婚話をして形をつけてくれた。思えば、男運のない可哀想な女だった。最初の亭主は倒産し、次に私のような生活能力に欠けた、夢見る男をウッカリつかんでしまったばかりに、死にたいほど悩み、苦しんだことであろう。現在の私は、ただ彼女のその後の幸せを祈るばかりである。

 さて、そちらの方が何とか片づいたので、今度は新しい彼女の番だが、こちらは東京都下小平市に実家があり、裕福な地主で、空いた土地に畑を作ったりしていた。長女だったので、私は彼女と正式に結婚すると、彼女の実家へ身を寄せ、ふたたびトラックの運転手をはじめた。将棋の方も暫くはやめ、休みの日には義父の野良仕事を手伝ってジャガ芋を堀ったり、枝豆を市場に運んだりした。名古屋への配送が一ヵ月に必ず二、三回はあり、そのたびに実家へ帰って両親に逢うのを楽しみにしていた。母もいくらか気が弱くなっており、「重坊(シゲボウ)がもっと近くに住んでいたらよかったのになァ」などと時折コボすのが辛かった。

 そのうち、今年六歳になる女の子が生まれた。早死にした子供を除くと、私にははじめての経験だったので、とても可愛く、それこそ目の中に入れても痛くない感じだった。そして、精神的にゆとりができたので、また大会にもチョコチョコ顔を出すようになっていた。

 この頃将棋ジャーナル誌の企画で、全国の強豪と三番勝負をすることになり、調子の方も次第に上昇気運にあった。

 まず東京の中村千尋氏(朝日アマ名人)を皮切りに、大阪の沖元二氏(アマ名人、読売日本一)、北海道の桜井亮治氏(アマ王座)、四国は高知の村井義夫氏(西日本名人)、九州の赤木文造氏(第五回番付横綱)らを次つぎに撃破して行った。うち何番かは、スポンサーがついた勝負であった。うち負けたのは茨城の安嶋正敏氏で、一勝二敗。どうしたわけか、この安嶋さんとは実に相性が悪く、はじめから勝てる気がしない。通算成績でも負け越してしまっている。

 昭和五十五年秋、朝日アマ大会に出場中、一通の電報が会場にもたらされた。「ハハ、シス」の通知だった。折から対局中の私に、主催者の関さんは一瞬ためらい、そして対局がすむまで教えなかった。もののふの志というものだろうと、私は感銘した。

 名古屋へ向かう車中、私は嗚咽のし通しだった。母の容態が悪化した頃、私が子供の写真を送ると、反対にして見ていたりしたそうだ。見たいという気持と、実際の動作が一致しなくなっていたのだろう……想い出すことすべてが涙のタネで、私は今後これほど涙を流すことは二度とあるまい、と思うほど泣きに泣いた。そして「母ちゃん、ありがとう」と小さく呟くのだった。

 それだけが、たったそれだけのことだけが、一生十字架を背負って生きつづけた、悲惨にして偉大な母に対して、不肖の息子がしてあげられる、たった一つのことだった。

(つづく)

* * * * *

真剣師として「新宿の殺し屋」と呼ばれるようになった時代。

16歳年上の奥さんに対してあまりにも冷たすぎないかと思うのだが、男女の間の問題なので、外から論評すべき問題ではないだろう。

苦界にいながら頑張って小池重明少年を育てたお母さんの死は悲しい。