「アマ列伝」カテゴリーアーカイブ

女流棋士対各界将棋天狗

将棋世界1983年8月号、「女流棋士対各界将棋天狗 お手並み拝見」〔山田久美女流初段VS森本レオさん〕。解説:森雞二八段(当時)、記:たつの香太さん。

 森本レオさん―二枚目でもなく、それでいて三枚目でもない。ちょっととぼけた、味のある演技でテレビや映画に大活躍している俳優さんだが、このレオさんが芸能界では一、二を争う将棋の強豪であることは知らない人が多いかもしれない。

 そもそも、昔から芸能界には将棋を指す人は多い。緊張の続く出演の合い間の空き時間などに将棋はかっこうの息抜きになるのがその理由らしい。

 萩本の欽ちゃんに丹波哲郎さん、小松方正さん……みんな立派な有段者である。その他にも新沼の謙ちゃんに牟田悌三さん、吉田拓郎さんに井上陽水さんと、将棋ファンを数えたらきりがない。

 それどころか、伊藤果五段によると(伊藤五段は芸能関係の交際が広く、レオさんの将棋の師でもある)なんと、女優の木内みどりさんや烏丸せつこさんまで将棋を指すのだそうだ。

(中略)

 それはともかく、伊藤五段の話では、現在の芸能界の強豪といえば、荒木一郎さん、森本レオさん、岡田裕介さんといったところがトップクラスで、みなさんアマ四段くらいは指すそうだ。

(中略)

 レオさんは10年ほど前まで、名古屋で深夜放送のDJをやっていた。中部地方だけだったけれど、高校生などにはけっこう人気があったものだ。その後俳優として東京に出てくることになるが、将棋もその時に始めたのだそうだ。

 当時将棋の好きなシナリオライターの友人が、ノイローゼにかかってしまい、その友人と少しでも話をするためにレオさんも将棋を指すようになったのだという。見かけのとおり、やさしい人なのだ。

 そしてレオさんを強くしたのが長門裕之さん、長門さんの麻雀好きは有名だけれど、将棋もアマ三段の腕前。その長門さんがレオさんの将棋好きを知って喜び、毎日のように将棋を教えてくれたのだそうだ。

 ただし「長門さんには3ヵ月でトントンになりました」とレオさん。この間のレオさんのうち込み方はなんとなく想像がつく。

(以下略)

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1999年と2000年に将棋ペンクラブ主催で「文壇将棋名人戦」が開催され、1999年に森本レオさんが優勝している。

フジテレビ系の人気ドラマ「ショムニ」に森本レオさんが出演された翌年のことだった。

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森本レオさんを初めて見たのはTBS系ドラマ「好きすき魔女先生」。

最初は学園ドラマ風だったのが、後半から変身アクションヒロイン系ドラマに変わった作品だった。

私は個人的に主人公の菊容子さんのファンだったのだが、放送の3年後の1975年、菊容子さんは結婚を前提に交際していた俳優に殺されている。まだ24歳の時。当時はかなりショッキングな事件だった。

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荒木一郎さんは昔の人なら誰でも知っている歌手・俳優。

現在は、音楽プロデューサー、実業家、小説家、マジック評論家、カードマジック研究家などとして活躍をしている。

「日本将棋用語事典」をプロデュースしたのも荒木一郎さん。

編集委員、編集強力、監修がそれぞれ超豪華布陣。

日本将棋用語事典

荒木一郎さんが作詞した曲に「負犬の唄(ブルース)」がある。作曲は平尾昌晃さん、編曲は竜崎孝路さんで川谷拓三さんが歌っている。

テレビ朝日系ドラマ『必殺からくり人』、『必殺からくり人・血風編』の主題歌だった。

哀調を帯びた曲調もさることながら、歌詞が泣かせる。

1番も泣けるし2番も泣ける。

https://www.youtube.com/watch?v=vTgJ697HNfs

 

将棋界の大旦那「七條兼三」(最終回)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の最終回。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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先日、詰棋人の集まりに出て、おもしろいエピソードを聞いた。私が本欄に七條の話を書いているのを見たある人が、言って来た。

「あなたは七條のいいところばかり書いているが、私はこんな目に遇っているんだ…」

詰将棋のことで話がこじれたかして、七條がこんなことを言ったそうだ。

「君ね、そんな分からずなことを言っていると、香港から殺し屋を呼んで、始末してもらいますよ」

これを聞いたその人は、新宿の警察に駆け込み、脅迫されたから調べてくれと頼んだところ、本当に警察の人が七條の会社へ事情を聴きに行った。七條はビル業界の関係で消防や防犯面から何度も表彰され、消防警察と関係が深いから警察が来たことには驚かないが冗談が通じない人間がいることには驚いた。

「七條さんも節操がない。人を脅かしておいて、慌てて菓子折りを持って謝りに来たよ」とその人は言った。どちらかというと、将棋連盟に近い人からこういう話を聞く。

棋士でも「七條作品の半分くらいは周りのブレーンが創っているんでしょ」と言う人もいるし、「どんな偉い人か知らんけど、なんであんなに威張っているんだ」とも聞く。

棋士はいまどきの世では珍しく純な人種が多い集団で、その点を敬慕し尊重するファンや旦那が大多数である。七條は実業家ではあるが、自分では商いをしなくていいせいか、純なままの人間だ。棋士より純な面を多分に持っている点、一般社長族とは人種が違う。

囲碁将棋の棋士は子供のときから旦那側として見ている。辛い評価で棋士や連盟を見るし接しもする。当然、連盟側の人間から見ればおもしろくない。悪く言う人が多くなる。

七條からすれば、あんな応援しているのにしようがない野郎どもだという認識になる。

悪童ごっこ

ところで殺し屋の一件…。

これは彼がお気にいりのセリフ。七條小噺で似たようなやつもある。

「香港の殺し屋はね、脅しのときは耳を落とすそうですね。○○なんか耳を取られたら困るだろうね。メガネが落ちてきて…」

こういう話を、広島のテキヤの親分が遊びに来ているときもやる。そうすると親分は、

「恐れ入りました。社長には二度とお手向かい、いたしましぇ~ん」

と言って土下座したりする。

まあ悪童の他愛ないおふざけなんだが…。

私のように好意を持って付き合う人間は、七條を好きになるが、初めから嫌う人もまたかなり多い。照れ屋で露悪的な面があるし、誤解を恐れないというより、面白がる面もあるから、よけい加速度がつくのだろう。かく言う私なども、自分が嫌われたり誤解されるのはそれほど嫌ではない。場合によっては、得意になって噺のタネにしていることもあるから、七條のようなダンディズムに生きる人間には、その気配がより濃厚だったろう。

殺し屋の次はブレーンの代作話にいってみる。七條のブレーンとは、毎年正月に七條邸に集まる面々と見られている。中でも作品制作に関わっていたのが、黒川一郎、門脇芳雄、駒場和男の三人だ。黒川、門脇が検討陣で、駒場は七條のアドバイザー的な立場。

戦後詰棋界の流れとして、構想派山田修司が「新手一生」を旗印に現われ、山田が冬眠に入ってからは、北原義治、巨椋鴻之助が引っ張り、その後、駒場和男、七條兼三、上田吉一、添川公司らがリードした。

駒場和男は難解長編モノを得意とし、煙詰[父帰る][三十六人斬り]など、空前絶後の名作を残す。煙詰が難しいところへ、都詰(5五で詰む)と玉の完全無防備を実現した鬼才だ。

七條が解答王(詰パラで三年連続完全解答を達成)から創作へ転じたころ、七條を長編作家へ導いたのが駒場だ。

(中略)

駒場自身は、寡作であるが、その分すごい作品を創る。将棋の力が強いので、誰も解けないような難解な作品を仕上げる。彼から見ると、やさしい短編をたくさん創り、それで入賞何十回と自慢されると、

「作家というのは数じゃない。後世にどれだけいい作品を残したかではないでしょうか」

などと発言したくなる詰将棋界の硬派だ。作品づくりに関しては、一途である。寝食忘れて打ち込む。これも七條小噺のひとつに…。

「駒場君のカミさんは美人でねぇ。ミス東京なんとかと言ったな。それがね、駒場君が看寿を超すような煙詰を、ろくに仕事もしないで何年もかかって完成したとき、カミさんも煙のように消えちまったんだ。煙詰のカミさんですよ。あれは…」

実情はさだかでないが、一時期の駒場は、家庭などかえりみず、まるで鬼人のごとき形相で創っていたことはたしかだ。

こと詰将棋に関しては絶対譲らないところがあり、はからずも敵もつくった。

「社長はああ見えても繊細なところがあってね、そういうぼくのことを心配してくれたんですよ。代作説ですか。うーん。詰将棋が分からない人の嫉妬でしょうね」

(中略)

「夜私が会社から帰る時間を見計らって社長から電話が来るんです。百手を越す長編の作品について、電話で変化や紛れまでしゃべるんですよ。こんな芸当ができる詰棋作家はそうはいない。若島君とか、ああいうレベルに達していましたよ」

(中略)

「七條社長が誤解を受けるようなことをしたことも確かです。たとえば、小池重明とか都名人が表敬訪問してくると、どういうわけかべろべろに酔って街の将棋道場へ乗り込む。ひどい将棋を指して負ける。あんなにひどい将棋を指すんだから、難しい詰将棋なんか創れないだろうと思われても仕方ない。

それから、詰パラの鶴田主幹が名古屋のういろうを土産に持ってきたとき社長はそれをごみ箱へ捨てた。それを見ていた人が、ひどいことをすると人にしゃべる。実は鶴田主幹は、社長から金貨銀貨をたくさんもらっていながら、もうなくなったからまたくれと言いにきた。聞くと、それをそのまま読者へ賞品として出したというじゃない。社長が苦労してコレクションしている高価なモノで、換金して詰パラ経営の足しにしろと渡したわけで、このバカ野郎という場面ですよ。それを一端だけ見た人がいろいろ言うわけですね」

今の世では、いかに誤解されないかに気を配って生きるのが普通になっているから、こういう生き方は理解されにくい。

ダンディーとは、教条と押し付けを拒み、多数に対して単独を、過剰に対して希少を、利益に対して無償を、富の蓄財に対して豪華さを、心情吐露に対して控えめを、家計よりは羽目をはずすことを対置した…。

晩年七條がどれだけ詰将棋に熱中したか。

「ご存知のように月曜は囲碁将棋のサロンを開き、木曜は詩吟の会、土曜が詰将棋の研究会だった。ところが、実は金曜がぼくとのマンツーマンの特訓日だった。この日は午後一時から四時まで、電話が来ても来客があっても取りつがない。あの酒好きの社長がビールも口にせず真剣に取り組んでいた。ぼくから長編のコツを吸い取るような気迫があった。晩年は囲碁も引退して詰将棋一本だった。残り時間を感じたんでしょうかね…」

鬼才駒場も、昔は拒否していた作品集を来春に出すという。円満な年齢になったのだ。

「いい社長だったよなあ…」

遠くを見るような眼が、よき時代を回想しているようでもあった。

(了)

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確実に言えることは、七條兼三氏のようなタイプの旦那はもう二度と現われないということだ。

また、このような個性的な旦那に惚れられた大山康晴十五世名人もすごいと思う。

大正生まれの人には、昭和生まれの人が持っていないような魅力がある。

将棋界の大旦那「七條兼三」(6)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の6回目。

今日は、七條兼三氏の詰棋人との交わりについて。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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詰棋人との交わり

七條が詰将棋を愛したのは、中年になって目覚めた自らの棋才とともに、詰棋人との交わりが楽しかったからだろう。

毎年正月の二日は、詰棋人しか邸に入れない。会社の人や業界の人、他の趣味の人たちは他の日に廻す。この日ばかりは、気の合った詰棋人との歓談に終始する。黒川一郎、駒場和男、門脇芳雄、森田銀杏、森敏広などが常連であった。

「君のあの作品ね、あれはいいよ。でも穴があるような気がして検討したのですが、残念ながらありませんでした。あははは」

こう言っては、日本酒を旨そうに呑み干すのである。

ほとんどの詰棋人は、十代二十代の若いころから詰将棋の世界に入るが、七條は昭和39年46歳で始めた。将棋雑誌の広告で「詰将棋パラダイス」を見、好奇心で取り寄せた。指し将棋は実力五段あったが、詰将棋を解く才は別で、ずいぶん苦戦した。凝り性の七條、

「よし、それなら解いてやろう」

と本気で詰将棋に取り組んだのである。

毎日毎日取り組んでいるうち、いろいろな手筋があることがわかり、おもしろくなった。そうなると上達は早く、中編も、長編にも挑戦できるようになった。

詰パラを発行している鶴田諸兄とも面識を得たが、硬骨漢で大酒呑みの鶴田を、一発で気に入った。

鶴田は当時タブーとされていた、プロ棋士の詰将棋代筆問題を槍玉に挙げていた男だ。元名古屋警察の公安警部で、数々の有名事件をさばいてきた現代の侍である。しかし武家の商法であるから、詰パラの経営は苦しく、赤字続き。七條は鶴田と知り合ってすぐから、援助を申し出た。一度、鶴田について、苦笑いしながら語ったことがある。

「鶴田君はおもしろい男でね。僕が経営の足しにしてもらうつもりで、明治時代の金貨や銀貨を上げたんです。そうしたら驚くことに読者プレゼントに出してしまった。ただのコインだと思っていたのでしょう。あれでは経営がたいへんなわけです」

七條の日本金貨コレクションは日本一で、夢の完全収集(種類+発行年度)を成し遂げ豪華な原寸写真入りの本まで出している。日銀にもない、世界でも数枚しかない金貨も、手に入れている。

詰将棋の解答を始めた翌年には、自邸で、全国詰将棋大会を開くという進展ぶり。この大会は空前絶後、今も語り草になっている。

まず、大会二日前に鶴田はじめ幹事数名が秋葉原ラジオ会館の社長室を訪れる。大会の進行など打ち合わせがあり、ビールや果実酒を呑む。夕刻になると、行きつけの神田明神下にある料亭へ繰り出す。ここには七條専用の囲碁将棋の盤駒が備えられている。馴染みの芸者が来てまた呑み始める。

翌日は前夜祭だが、真昼間から上野の森の七条邸に集まり、その数三十有余人。七條が手配した美人が三人現れ、皆に酌をして歩く。あたりが暗くなると、将棋、麻雀、座り相撲など、座は大いに高揚し、爆笑歓声が上がる。七條旦那はこの光景を肴に、気持ちよさそうに杯を干してゆく。

さて本番は五月九日(日)。五月晴れ。集まったのは全国の詰棋人が九十人。北は北海道、新潟、長野、西は京都、大阪、神戸から続々と参集。七條邸はこの日のために、大広間の畳替えをし、夜具を仕入れ、放送設備を整え、解説用の大盤を発注、座布団を百枚ほど誂えたという。まるで、朝廷からの勅使を迎える江戸城という騒ぎである。

午後一時大会開始。全国詰将棋連盟の議事や表彰、名物の会員自己紹介、懸賞詰将棋、万歳三唱、記念撮影などの式が終わると、お待ちかねの大懇親会だ。五人編成の楽団が、にぎやかに音楽を流すや、きれいどころ(芸者)が十数人サッと会場に流れこみ、

「さあさ、召し上がれ」

とお酌すれば、お堅い詰棋人たちも相好を崩し、思わずコップ酒を差し出すのであった。

(中略)

この日の提供品の記録が残っている。

銘酒五斗(一升瓶が50本)、麦酒拾打(ビール120本)、金貨、銀貨、盤駒、詰棋本…

(つづく)

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明治時代の金貨や銀貨の値段の例は次のとおり。

旧10円金貨 明治4年 有輪 550,000円

旧1円金貨 明治4年 前期 130,000円

財務省放出 新5円金貨 明治44年 極美品 180,000円

新1円銀貨 明治11年 深彫 110,000円

旭日竜5銭銀貨 明治3年 28,000円

発行年が変わったとしても、1枚最低でも数万円はするのだと思う。

全く、ただのコインではない。

将棋界の大旦那「七條兼三」(5)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の5回目。

今日は、七條兼三氏の幅広い交友について。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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将棋に文化勲章を

将棋を文化としてとらえていたせいだろう、よく話に出たのが、

「歌舞伎の役者がなぜ人間国宝なんかで、囲碁・将棋のような伝統芸がなにもないのはおかしい。文化勲章をもらう人が出なくてはいけません。ぼくは、芸術院院長のAさんを料理屋に招いてご意見を伺いました。どうしたら獲れるかっていうことを。そうしたら、あれは推薦するものだから黙っていたら獲れないそうです。ですからぼくは推薦運動を始めたのですが、囲碁・将棋の人たちはあまり乗ってこないのが不思議です。現時点では、囲碁・将棋界を見渡して、大山さんが適任でしょう」

(中略)

文化勲章をとる前提として、文化功労者というのがあり、そのまた前提に東京都の文化賞というのがある。現実には、大山さんは文化功労賞まで行って、あと一息で文化勲章という射程距離まで行って惜しくも亡くなられた。将棋を文化とは世間が考え付かない時代から運動し、関係者を扇動してきた力が影響したのだろう。東京都文化賞の受賞パーティーでは七條さんの持ち駒(芸人)をフル活用し、自らも詩吟を吟じて会を盛上げた。

ひいきにしたのは、プロ棋士ばかりではない。詰将棋作家や真剣師、やくざの親分まで七條さんを慕ってきた。

通天閣の真剣師・大田学さんを、「きれいな人だね」と誉めたのは、世俗的な欲がない人だったからだろう。

広島のテキヤの親分(中国高木会)、高木達夫さんも、七條さんが可愛がった一人だ。彼の稼業はともかく、将棋に対する純な気持ちをよしとしたのだ。

高木さんはときどき上京してくるが、二人とも六十歳を過ぎた年配者なのに、まるで若者同士のようにじゃれあっていた。

「高木君。君は広島のやくざの親分らしいがオレは上野の親分だ。オレの言うことが聞けないと、香港から呼んだ殺し屋に頼んで、東京湾に浮んでもらうぞ~」

まるで昔の日活無国籍映画みたいなセリフを嬉しそうに言うと、高木親分も心得ていて、

「ははあ、七條先生の言うことには一切逆らいましぇん…」

こういって土下座をしては、また嬉しそうに呑み直すのである。高木さんは若いころは大阪の木見門下生(アマとして)だった腕自慢で、「わしゃ、大山名人と同門じゃけえ」というのが自慢で、大山旅行会にも欠かさず参加していた。広島で全国初の高額賞金大会を開き、連盟支部も造ったほどの熱心家だ。彼のそういう一途なところが気に入られ、七条邸にお出入りが叶ったようだ。この人もメチャメチャ酒が強く酒癖もきついが、七條さんにはかなわない。私も酒が多少強い時期もあったが、まったくの手合い違いだった。

将棋ファンは、知識人から真剣師からテキヤまで、幅広く付き合い可愛がっていたが、いずれも純な人間で、自分の芸に打ち込む生き方を好んでいた。純な生き方といえば、詰将棋作家がことにお気に入りであった。

(つづく)

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この中で出てくる広島の高木達夫さんが、昨年の将棋ペンクラブ大賞優秀賞だった「広島の親分」の主人公。

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「香港の殺し屋」は、七條兼三氏が酔った時のお得意の冗談だった。

それにしても”香港の殺し屋”、なんと雰囲気のある言葉なのだろう。

いかにも只者ではない妖しげな殺し屋のような感じがしてくる。

例えば「ヨハネスブルグの殺し屋」では迫力がないし、「テキサスの殺し屋」ではプロレスラーになってしまう。

「サンクトペテルブルグの殺し屋」「イスラマバードの殺し屋」「ケイマンの殺し屋」もイメージが湧かない。

今ではそういう印象が希薄になったが、当時の香港には、近代都市と魔窟が同居しているというオーラがあった。

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香港の魔窟といえば、今では取り壊された九龍城砦。

過去の歴史的経緯から、1999年までの香港の中では九龍城砦だけが中国領土だった。

当時の香港政庁(英国)も手出しができず、かといって中国政府がメンテナンスをするはずもなく、九龍城砦は難民や犯罪者が逃げ込む格好の無法地帯となった。

このような状況から、「アヘン窟」、「東洋のカスバ」などと呼ばれ、一度中に入ったら生きては戻れない場所とまで言われていた。

後年は九龍城砦内に自治団ができて、そのようなことが起きる環境ではなくなったらしい。

当時の香港の玄関口であった啓徳空港の極めて近所に九龍城砦があった。

1985年頃に九龍城砦に住んだ人のサイトがあり、九龍城砦に興味のある方にはぜひお勧めしたい内容だ。

九龍城砦探検記 

将棋界の大旦那「七條兼三」(4)

湯川博士さんが近代将棋で連載していた「アマ強豪伝」シリーズから、「将棋界の旦那」と言われた故・七條兼三氏の話の4回目。

今日は、七條兼三氏の旦那道について。

(湯川博士さんのご厚意により、「アマ強豪伝 七條兼三」のほとんど全文を掲載させていただきます)

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お金が絡むと…

「七條さんは威張るから嫌いだ」

こういう人もいるし、逆の人もいる。

「私は何十年もお付き合いしているが、とても紳士的な人です。お酒を呑んで酔い潰れることもないし、しつこく絡むこともしない」

私など後者に近いが、威張る(実は振りをしている)七條さんを見たことがある。

この違いはなんだろうと考えた。

実は、人間関係にお金が絡むかどうかではないか。レッスンに来た囲碁・将棋の先生は月謝をもらう立場で、旦那と芸人の仲だ。当然、旦那と芸人の関係でなければならぬ。

若い棋士は、自分のわずかな経験で考えるしかないから当然理解できない。奨励会のときから「先生先生」と言われつけているから、おつものつもりで対応する。

「ここはこう指すのが筋です」

「こうやれば良かったのだが…」

ごく当たり前の会話だが、七條さんにはカチンとくることもある。

(お前みたいな若造になにが分かる…)

これは将棋指しへの怒りではなく、戦後になって変わった価値観に腹が立つのかもしれない。それらが局後の酒席で出ると、

「あの社長、なに威張っているの…」

という反発になる。

七條さんは戦前の芸人と旦那の物差しを持っている。ところが多くの将棋ファンや旦那は戦後の物差しで、むしろ棋士に気を遣う風潮である。それもおもしろくないことで、

(本来、芸人とはこういうもの…)

そのことを示してやろうという気がどこかにある。それもこれも、金を払って雇った芸人という感覚が根底にあるからではないか。

たとえば七条サロンに来る紳士たちは、お金をもらっているわけではない。囲碁・将棋の友人関係であるから、決して七條さんが威張るような場面は出てこないし、酔ってつむじを曲げるようなこともない。だが、同席している棋士(師範)は友人のごときであるが友人ではない。

このこと(旦那と芸人の関係)を踏まえないと、七條さんのような、階級倫理観を持った人を理解できない。

私もお付き合いをする上で、一切の金銭関係が生じないよう心がけてきたし必要以上に甘えないようにした。ただ一度だけ失敗をした。

ある将棋雑誌でアマプロ勝ち抜き戦をやったら、アマがまぐれで四、五、六、七段とプロを勝ち抜いて、次には八段に挑戦という大事件になった。ところがその主催誌はまさか八段まで行くとは思わないから、予算が足りなくなった。そこで寄付集めをすることになり

「七條さんを紹介してほしい」

と私に依頼してきた。いつも原稿を書かせてもらっている義理があるので、気軽な気持ちで担当者を七條サロンに連れて行った。七條さんが寄付の話を聞いているうち表情が曇り、

「…なんでオレが君のところの棋戦に金を出さなきゃいけないのかね」

これを聞いて、(イカン、失敗した)と思った。七條さんが苦虫を噛んだ表情になり、応対が悪いと怒りだすかもしれない。

若い担当者は突然、座敷に手をついて、

「申し訳ありません。七條社長には全然関係ない話を持ち込みまして…。なにぶん貧乏会社でして、なんとかアマを八段と戦わせたいという一心で、失礼なお願いでした…」

と謝った。しばらく苦々しい顔を造っていたが、やがて表情が解けて、

「ところで、いくら出せばいいの?」

金額は覚えていないが、指を一本出したような気もする。そのあとは担当者も一緒に酒を呑んだが、あとで筋の通らない話を持ち込んだ自分を恥じた。たぶん私の顔を立ててくださったのだろうが、二度とこんな思いはしたくないと思った。ふだんの好意に寄り掛かった甘えは、彼がいちばん嫌うことだった。せっかく友人関係にあるのに、金銭をねだった結果になったことが悔やまれた。

(つづく)

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湯川恵子さんから聞いた話。

七條兼三氏の集まりで、将棋会のあと大勢で飲み会になった。

酒が残り少なくなったので湯川恵子さんが冷蔵庫に酒を取りに行こうとすると、七條兼三氏が、

「湯川さん、あなたはお客様なのだから座っていなさい」。

七條兼三氏は同席している指導棋士(師範)に酒を取ってくるよう命じたという。

七條兼三氏は戦前の「芸人と旦那の関係」そのものを実践していた。