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角換わり腰掛け銀盛衰記

近代将棋1992年1月号、武者野勝巳五段(当時)の「プロ棋界最前線」より。

1991年竜王戦第1局、対局翌日の写真。チェンマイ・ドイステープ寺院。将棋マガジン1992年1月号、撮影は弦巻勝さん。
蘇った腰掛け銀

 一度結論が出され指されなくなった将棋の戦法が、最新の技術の光を当てられ蘇ってくるというのがこのところのプロ棋界の流行で、飛車先交換型の相掛かりは「塚田スペシャル」や「中原飛車」という新技法をも生み出した。

 このような温故知新の波は、戦後大流行した後、木村、升田、塚田、大山という超一流をして「後手に最善に構えられると、仕掛けが困難で千日手」と結論づけられた角交換腰掛け銀戦法までもその対象とし、若手棋士を中心とした多くの研究会では「仕掛けが可能」という結論に達しているらしい。

 例によって、最近のプロ棋戦の棋譜すべてが入ったコンピュータを駆使し、蘇った腰掛け銀戦法の実体に近づいてみたい。

 まず、オールドファンなら昔なつかしい1図。

 戦後は「腰掛け銀にあらずんば将棋にあらず」というくらいの大流行で、新聞社の入社試験にも「腰掛け銀とはなにか」という問題が出題されたそうである。将棋をしらぬ受験生には迷惑な話で、「銀行で腰掛けて待つこと」なんていう苦しい解答もあったそうだ。

 この1図から△7三桂と同型に構えた場合、先手が▲4五歩△同歩▲3五歩と仕掛けてよしというのが木村定跡。近代将棋創刊号のメインがこの講座で、当時の第一人者木村義雄名人が、腰掛け銀の最新研究をとその変化を惜しげもなく発表している。これでは近代将棋が売れ、腰掛け銀が大流行するのは当然の結果だったが、その後の研究により1図から△4三金右と厚く構え待たれると仕掛けが困難。千日手では先手として不満ということで、昭和50年代はプロ棋戦に年間10局くらいしか登場しないという斜陽戦法になってしまっていたのだ。

飛車先不突戦法の登場

 千日手との結論が出たと思われていた角換わり腰掛け銀に、新しい息吹を吹き込んだのが谷川竜王である。

 2図がそれで、矢倉で流行し始めていた飛車先不突を応用し、2図から▲2五桂△2四銀▲4五歩という手順をねらって、仕掛けを可能にしたのである。

 この飛車先不突腰掛け銀は、北村昌夫八段による新構想だったように思うが、新構想発表当時は▲2八角を打たず、単に▲2五桂△2四銀▲4五歩という仕掛けだったので、後手に△3七角と反撃され数局の実戦結果は思わしくなかったようだ。2図の▲2八角が谷川新手で、これにより北村構想を新定跡へと格上げしたのである。

 飛車先を保留することは、▲2五桂の攻めを可能にするばかりでなく、受けにも手段の広がりを見せた。

 3図がそれで、腰掛け銀の大敵だった棒銀による攻めを、右玉によって軽くいなしている。

 飛車先の1手の省略が▲2九飛を間に合わして、左翼の受けに役立っているのである。右玉にした場合、2筋の歩は2六の位置の方がよいことも多く、その意味でも適誼の策と言えるだろう。

 棒銀は銀香交換の駒損ながら、敵玉付近を直撃するから効果があるのだが、これではとても△9五歩の端攻めを決行する気にはならないだろう。

 当然と思われた飛車先を一つ保留するだけで、千日手の結論のもとに凍結されていた角換わり腰掛け銀が蘇ったのである。

 こうなるとさらなる工夫を要求されるのが後手側で、当代屈指の研究家・佐藤康光五段は、「敵が飛車先を突いてこないなら、後手側から先攻してしまえばいいんでしょう」とばかり、4図の局面を問題提起した。

 先手が遅ればせで▲2五歩と突けば、△6五歩▲同歩△7五歩と攻めてしまうのである。ここに至る手順中△4二銀と上がっているのが工夫で、△2二銀のカベ銀では先攻するなど考えられぬことだし、△3三銀と姿を直していると、例の▲2五桂からの攻めを先手に許していけない。

 この新構想は後手から先攻してしまおうという飛躍的な発想で、従来からあった角換わり腰掛銀の後手は千日手覚悟で受けに徹する―という常識に大きな一石を投じたものだった。

 4図からの攻防は、前期の王位戦七番勝負で、谷川が▲2五歩△6五歩▲同歩△7五歩▲2四歩△同歩▲2五歩△同歩▲7五歩…という反撃含みの受けを披露して勝ちを収め、「この攻防はやや先手よしらしい」という結論が出たのだが、むしろこの一局が刺激剤となって、大量の同型局が誕生している。

 それは5図で、先ほどの4図から▲2五歩△3三銀の2手を加えただけの局面なのである。

 5図から▲8八玉と△2二玉と進行し、▲4五歩△同歩▲3五歩と仕掛ければ木村定跡となる。繰り返すがこれは先手よしの結論が知られるところである。なのに、5図の玉型では先後の優劣を断じることができないというのだから、将棋はなんと深く、道を究めることはなんと遠いのだろう。私見では、この玉型は露出しているので飛車切りなどの強い戦いができず、攻めにはマイナス。一方敵の攻め駒からは一路遠ざかっているので、受けるにはプラスの効果があると思われる。

 仕掛けたい先手にとっては、木村定跡と比べて二重のハンデがあるわけで、仕掛けがそんなに苦しいなら▲8八玉と囲えば…というと、実は受けに適さない8八玉のため、後手に△6五歩と仕掛けられる不安が常につきまとうのだ。

 そこで必然的に、先手は5図から▲4五歩△同歩▲3五歩と仕掛けることになるのだが、情報化社会の昨今、攻防はそれこそ半日毎に進歩しており、プロ棋士の義務とはいえ、それらを復調する私にとっては目の回るような思いである。大きな流れから察するところ、関東の若手代表の森下六段は5図からの仕掛けはやや無理と判断しているらしく、その挑戦を受ける谷川竜王は関西を代表して、指せるとの立場にいるようだ。

「仕掛けて十分」の立場と「仕掛けは無理」の判断なら、5図が竜王戦七番勝負に登場するのは当然のことで、タイでの第1局が持将棋無勝負となったのは、なにやら象徴的でもある。このようなことを承知で、プロ棋戦に頻発する角換わり腰掛け銀の5図を見れたら、読者も一層興味深いだろうと思い筆を執ったが、どうやら今月の紙数も尽きてしまったようだ。5図からの代表的な攻防を以下に例示して、今月は終わりとする。

(以下略)

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角換わり腰掛け銀の木村定跡以降の歴史。

逆に回り回って5図は、手順は異なるものの、昭和20年代初期にも課題となった局面で、昭和23年に、5図から、▲4五歩△同歩▲7五歩△同歩▲3五歩△6三角▲2四歩△同歩▲3四歩△同銀▲2四飛△2三金▲2八飛△2四歩▲6五歩△4六歩▲6四歩△7四角▲6三歩成△同角▲6四角△6二金▲4四歩△3六歩▲4五桂△同銀右▲3五歩(B図)の升田幸三八段(当時)による定跡が誕生した。

この変化は、1960年代に書かれた定跡書にも載っている。

この升田定跡(角換わり腰掛け銀での升田定跡は他にもいろいろ存在する)に対抗するために考え出されたのが、△4三金右の守勢型。

その後、先手▲4八金型、後手△4二金寄の待機策、後手△7三桂の攻め合い、後手△6二金△8一飛の攻勢型なども出たが、とにかく角換わり腰掛銀の流行は終結する。

そして、20年以上の歳月の後に開発されたのが、2図の谷川流。

そこから、また5図が課題局面となる。歴史は巡る。

平成になってから、B図に至る升田定跡の手順中、△6三角のところで△3五同歩という手が発見され、先手有利とも言い難くなってくる。

更にこの武者野勝巳五段(当時)の文章が書かれた後、丸山流、堀口流、富岡流などが出現することになる。

この辺りの詳細は、NHK将棋フォーカスの中村太地七段「太地隊長の角換わりツアー」で解説されている。

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戻って、この武者野五段の記事、このような歴史に踏み込んだ解説が行われたのは、バンコクで行われた竜王戦第1局〔谷川浩司竜王-森下卓六段戦〕で5図の局面が出たため。

谷川-森下戦では、5図以下、▲4五歩△同歩▲3五歩△4四銀▲7五歩△同歩▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛△6三金▲6一角△3五歩▲3四角成△4三銀▲2五馬△5四角(A図)と進み、最後は持将棋となっている。

「仕掛けて十分」の立場の谷川竜王と「仕掛けは無理」の判断の森下六段の、矛と盾のような戦い。

武者野五段の「タイでの第1局が持将棋無勝負となったのは、なにやら象徴的でもある」という見解は、本当にそう感じる。

 

真部流「大河戦法」

将棋マガジン1991年12月号、鈴木輝彦七段(当時)の「つれづれ随想録」より。

真部一男八段(当時)。将棋マガジン同じ号より。

「何を考えているのか判らなくて思わず長考してしまいました」と局後に言うと、

「考えても判らないと思うよ、何も考えていないのだから」と真部さんに言われたことがある。

 A図は真部さんが得意にしていた陣立て。最近は指していないようだが、この理由も判らない。

 A図から、

  1. ▲3八飛~▲4八玉~▲3九玉の袖飛車にする。これは四間飛車からの袖飛車の変化を考えると一手得の意味がある。
  2. 普通の居飛車
  3. 2を嫌って△8五歩▲7七角を決めれば▲8八飛の向かい飛車の変化。

 他にも変幻自在の指し回しがあるそうで、名付けて「大河戦法」と言うたしい。

 もっとも、居飛車穴熊対策に指していたのも「悠々大河の流れ、大河作戦」と言っていたような気がする。

 A図は別名を「女心戦法」とも言うそうだ。

 女心で苦労し抜いた末に出来た独自の戦法らしい。若手でマネをする人が現れないのが判る気がする。

「女心と秋の空」(正しくは「男心と秋の空」と言うらしいが)と俗にも言うように、女心は読みづらい。

 日本でも有数の財界人が或る女優さんと付き合って「女優は金がかからなくていい」と言ったそうだ。

 楽しい時はいいが冷静になって、無心されると自分が本当に好きなのか、お金が目当てなのか悩む事になるのだろう。

 シェークスピアも「貧乏人の唯一の特権は、それが真実の愛と判る事である」と言っているくらいだ。

「これが、いくら考えても判らないんだね。女性自身が本当の愛かお金が目当てなのか判らないんだから」が真部さんの結論らしい。

 相手がどう思っているのか判らないのに、考えても判る道理がない。

 A図に苦しんでいたのは、恋愛に苦しんでいる男のようなものかもしれない。

 もとより、女性が優柔不断で思慮が浅いという意味ではない。むしろ、現実に生きる強さとロマンの融合がなせる業だという気がする。

(以下略)

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A図の「大河戦法」、たしかにいろいろな方策が取れそうだし、現代ならツノ銀雁木にもすることができる。

相撲用語でいえば、まさしく「なまくら四つ」。

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「これが、いくら考えても判らないんだね。女性自身が本当の愛かお金が目当てなのか判らないんだから」

そうではない女性もたくさんいると思うが、このようなケースもあったということだろう。

シェークスピアの「貧乏人の唯一の特権は、それが真実の愛と判る事である」は初めて聞いたが、なるほどと思わせられる台詞だ。

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「考えても判らないと思うよ、何も考えていないのだから」

相手が何も考えていない時に、真剣になって相手の真意を探る。

結果として、相手が何も考えていないことがわかればまだ救いはあるが、そうではなく、真面目に考え続けた場合は、本当に時間の浪費、何もせずに寝ていたほうがマシだった、ということになってしまう。

ところが、将棋の場合はそうもいかない。意味がわからない手を指されても、相手が何も考えないで指していたとしても、真面目に応手を考えなければいけない。

こちらが何も考えずに指した手を、相手が長考してくれるという逆のケースもある。

もちろん、何も考えずに指した手は、幸運をもたらせてくれないことが多いが。

 

阪田流向かい飛車のルーツ

近年、糸谷哲郎八段などにより指されている阪田流向かい飛車。

今日は、その阪田流向かい飛車のルーツについて。

将棋マガジン1990年2月号、東公平さんの「明治大正棋界散策」より。

 さて、本題の「阪田流」について、私の結論を先に出しておく。まず、「阪田三吉創案」説はひどい誤りである。話がすっかり江戸時代にさかのぼってしまうけれど、天明年間に活躍した六段・金親盤治が書き残し、没後に発見された薄っぺらな定跡書があった。

 この中に、阪田流のルーツと思われる指し方が出ているのだ。

 参考棋譜その1である。

参考棋譜その1
『金親駒組集』平手向飛車(天明年間)
▲7六歩△3四歩▲7八金△8四歩▲2二角成△同銀▲7七金△8五歩▲8八飛△3三銀▲6八銀△6二銀▲8六歩(1図)

△同歩▲同金△7四歩▲8五金△7三銀▲8四歩△7二金▲7七桂△4二玉▲5八金△3二玉▲5六角△4四角▲8九飛△4二金▲4六歩△5四歩▲4五歩△5五角▲7四金△同銀▲同角(2図)にて先手よし。

 盤治は、いろんな刊本に棋譜を残しているけれど、この作戦は見当たらない。

(中略)

 記憶によれば木見先生の”阪田流”は2局か3局ある。また、小菅剣之助名誉名人もこの戦法を得意とし、実戦譜が残っているし、△3三角に対し相手が嫌って角交換をせず、▲4八銀と指して別な戦型になった譜も数局ある。明治21年、六段のころである。

 というわけで、もし今、改称が許されるとすれば、「金親流」は適切ではないが「小林流」または「小菅流」が適当と思う。しかし、故・建部和歌夫八段も昭和28年の「将棋世界」に書かれておられるが、大正8年の阪田対土居は、棋界注目の争い将棋であって、関根金次郎の次の名人を誰にするかという問題がからんでいたのである。

 さらにこの将棋は、中盤で阪田が角の丸損をしながら、猛烈な攻めで奇勝を博したというおまけつきだった。そういう大勝負に現れた手ということで、「阪田流」と名付けたのであれば、このままでいいと思う。

 当事者、土居市太郎(故・名誉名人)の感想は次のようになっている。

「△3三角は古人の法なれど先手より角を換わられ△同金にて姿悪しく……」

 すこしも驚いていない。阪田流に驚いたのは、関西風の将棋を知らぬ、東京のプロ低段者やアマチュアだけであろう。明治、大正は、将棋に限らず、今の人には想像もつかぬほど情報のすくない時代であった。

(中略)

 8図(土居市太郎八段-阪田三吉八段戦途中図)を見るたびに思い出すことがあるので付記したい。

 羽生善治の師匠、二上達也九段(会長)の五、六段時代に、阪田流が流行したことがあった。新鋭二上は、8図から▲7五歩と突き、△6四歩に▲7六角と打つ”阪田流破りの新手”を創案して連戦連勝であった。その斬られ役は、当時の一線級、板谷四郎九段や故・京須行男八段(森内俊之の祖父)、故・金高清吉八段あたりだったと記憶している。▲5五歩の狙いがムチャクチャに厳しかった。この二上新手のために、阪田流から△3二金と引く指し方は廃れてしまった。

(以下略)

参考棋譜その2は、『秘巻留』両者十番指第一局、文久2年(1862年)の渡瀬荘次郎四段-小林東四郎四段戦、その3は大正2年(1913年)の矢野逸郎五段-木見金治郎五段戦、その4は大正8年(1919年)の土居市太郎八段-阪田三吉八段戦。

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阪田流向かい飛車というと、1図~2図のような飛車先逆襲が一番イメージ通りだし、こうあってほしいという姿だ。

しかし、阪田流向かい飛車の名の発端となった大正8年(1919年)の土居市太郎八段-阪田三吉八段戦は、阪田八段が3三の金を3二に引いており、飛車先逆襲ではなく、非常に渋い戦いとなっている。

阪田流向飛車

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二上達也九段の”阪田流破りの新手”で、阪田流から△3二金と引く指し方は廃れてしまった。

かといって、飛車先逆襲(棒金)もズバッと決まるわけではない。

升田幸三実力制第四代名人をもってしても、第一弾の攻撃は成功したものの、捌くのに苦心した様子がある。

升田の阪田流向飛車

この対局の相手も二上達也九段。

二上達也九段は、阪田流向かい飛車と不思議な縁がありそうだ。

 

ひねり飛車の歴史

近代将棋1983年3月号、小林勝さんの「棋界パトロール ひねり飛車」より。

振り飛車党の変身

 15年ほど前から、第三の主流戦法として息づいてきたヒネリ飛車戦法だが、それが、ここ最近、特に多く見られるようになってきた。その理由はと考えてみるに、どうやらこれは振り飛車に対する居飛車穴熊の猛威のためらしい。『イビ穴はごめんこうむりたいが、さりとて相居飛車を指すのではメゲル』と思っている振り飛車党が、先番になった時のみ、ヒネリ飛車党に変身している。これなら振り飛車の味も残せるし、相手も穴熊にはしずらい、というわけである。

 ヒネリ飛車戦法の一大特長は、駒のスベリ具合が大変に良いということである。振り飛車の理想形の一つとされている石田流に簡単に組めるし、なおかつ持歩まであるのである。

 中原十段の師匠で、理論家の高柳敏夫八段をして、「将来先手必勝定跡ができるとしたら、この戦法からであろう」と言わしめた話」は有名である。

 少し前置きが長くなった。いよいよ次から、ヒネリ飛車の誕生と、その成長過程を追っていくことにしよう。

原型ヒネリ飛車

 まずは第1図をごらん下さい。

 図を見て、「何だこりゃ、相掛かり戦(相腰掛け銀など)の序盤戦じゃないか。さては大誤植か」と思われた方は正常の感覚の持主。「なるほど、これがヒネリ飛車か」と納得できた方は、大天才かよほどの異常感覚である。

 1図の△5二金が甘い一手。先手は早速そのスキを衝くべく策動する。

 1図以下、▲7五歩△6三銀▲4五歩△5四銀▲2二角成△同銀▲7七桂△8二飛(この手をおこたると▲8六飛で飛交換必至となり後手まずい)▲8六歩△4五銀▲8五歩△4二玉▲8六飛△8三歩▲9五歩△同歩▲9二歩(2図)まで先手必勝。

 以上の動きが、現在のヒネリ飛車の発生源となった角田流の駒捌きである。非常に斬新なこの指し方は、将棋史の中で不滅の光彩を放っている。

丸田流9七角型

 この後、多くの棋士らが工夫をくわえ、それまでどちらかというと奇襲作戦と言われていたヒネリ飛車を、堂々たる主流戦法にまで押し上げていった。その立役者は、丸田九段創案の丸田流▲9七角戦法(3図)である。

 今となっては、この▲9七角を見ても驚く人はいないが、この新工夫により、持歩2を手中にしたヒネリ飛車側は以下▲8六飛△8四歩▲6六歩△6三銀▲6五歩△同歩▲6四歩というように軽快に攻勢がかけられるようになった。まさに、小太刀の名手の異名をとる丸田九段らしい攻めの構図である。

タコ金戦法

 一つの戦法が改良を加えられてよりよい戦法に育つと、必ず、これに対抗する戦法が生まれる。猛威をふるう丸田流に決然と立ったのが升田九段のタコ戦法である。タコ金戦法とは、常識では玉の守りにつく3三の金を、強く4四、5四(あるいは5五)と繰り出して、ヒネリ飛車側の攻めを封じるというもので、角のヒモで金が出ていくことからこの名がついたものである。

ヒネリ飛車5六金型

 が、ヒネリ飛車側もさるもの、▲5六金型(4図)を編み出して、タコ金に対抗した。▲5六金型の優秀性は、4筋の位を保てるということである。(この戦型は4五の位が急所)▲5六金でなく、これが銀だと▲4六歩とは突きにくいのだ、無理に▲4六歩として位を保とうとすると、▲4六歩に△1三角▲4七銀上△4五歩▲同歩△5七角成の手段がある。4図以下は、先手は一番いい時に▲6五歩と決戦する権利を有し、後手は玉がうすいので中央方面でよほど得をしないと勝つことが難しい。というわけで、タコ金戦法は徐々に指されなくなっていった。

山田流

 その後、ヒネリ飛車側の歩越しの金に歩を並べて対抗する型が生まれた。発案者は故・山田九段であり、現在でも加藤名人らが使っているなど、一時流行した指し方である。

 しかし、本戦法はヒネリ飛車側にうまく玉頭に転戦されると苦戦となる。

 5図は、中原対米長戦より、今、先手中原が▲6五歩~▲4五歩と仕掛けたところ。

 これを△同歩と取りにくいのでは後手泣きであろう。『歩を突かれて、それを△同歩と取れないくらいでなぜ泣くのか?そんなことはへでもないではないか』と思われた方は、すぐにその感覚を改めよう。歩を突かれたら同歩と取るのが受けの基本なのである。5図で△同歩は、以下、▲6四歩△同銀左▲6五金△同銀▲同桂△6四歩▲8八角と一気に玉頭方面をネラわれてしまう。このように金銀3枚をもってしても仕掛けの歩を取れないのでは、この形にする意味がないと、現在はややスタレ気味である。

模様を重視

 その他、早めに右金を△7二~△8三~△8四と繰り出して、△9五歩の攻めをネラう指し方も一時期よく見られた。しかし、それとても、ヒネリ飛車に対して十分な戦果を上げていたのではないのに、まずいことに、優秀な頭脳がヒネリ飛車側についてしまった。

 6図が、内藤王位発案の陣形である。

 相手が必死に頑張ろうとする6筋には全く関せず。悠々とした柔らかみのある指し方である。この後は玉側に金銀を集結し、あくまで模様を大事にコリ形の敵の金銀を横目に駒組みを進める。もし、後手が、△8三金から9筋方面で動いてきた時は玉形の差を利してカウンターをネラう、というもので、これこれこういう手順で良しというのではないので、真似しにくい意味があるのだが、本戦法の勝率は総じて抜群であった。

 ここらあたりまでは、ヒネリ飛車側の形勢がよしであった。しかし、ここ1年ばかり、どうもヒネリ飛車側の勝率が落ちてきているようなのである。

 ヒネリ飛車の将棋が多く見られるようになったことと、その勝率が下がってきたということは、一見矛盾するかのようだが、それがそうでもない。

 一つには、それまでタテ歩取りの実戦経験がほとんどない振り飛車党の移住によって、局数は増えても勝数があまり伸びないということがあげられるが、それにもまして、対ヒネリ飛車側の新工夫によって、有力な対抗策が次々と出現しているという事実があり、これがヒネリ飛車側の快走に待ったをかけたと考えられるのである。

 次に、それらの戦法をご紹介しよう。

新しいヒネリ飛車対策

その1

 居飛車穴熊にされるのがイヤでヒネリ飛車を指すというのなら、こちらも意地でなんとか居飛車穴熊に囲ってやろうじゃないか。という発送でヒネリ飛車に立ち向かったのが、誰あろう田中(寅)六段である。相手は、新人王・森(信)四段だ。

 図から、田中は△7四歩▲同歩△7二飛と行動を起こし、以下、▲8四歩△同歩▲同飛△7四飛▲8一飛成△7六飛▲7八歩△7一飛まで、駒得のうえ玉の固さもあり、早くも優勢となった。この一局の他に、公式棋戦で5局ほど、ヒネリ飛車対イビ穴の対戦を見たが、いずれも穴熊側が勝っている。途中、玉を囲うまでに急戦を仕掛けられると不安が残るものの、対ヒネリ飛車新対策として有力な戦法の一つであることに間違いはない。

 なお、穴熊側の玉の動きは、4二~3三~2二~1一である

その2

 8図は、佐藤義則六段対谷川浩司八段戦より。この将棋は昨年の8月に指されたもので、プロ棋士の間で注目を集めた。谷川の玉型はなんと銀冠(左ミノから変化)の堅陣である。

 これまで、対ヒネリ飛車側は、▲7四歩の交換をさけるために△6四歩~△6三銀型を作っていた。そのため、この出っ張った所をつかれて、▲6五歩△同歩▲6四歩などと、いつでも急戦に持込まれてしまうことを覚悟せねばならなかった。これは玉を囲うまで、戦いを起こしたくない谷川としては好まざる事実である。

 △6四歩を突かず、しかも▲7四歩の交換をさせないために谷川は二つの工夫をした。

工夫A

 △6一金のままで△9四歩と突き、▲7四歩△同歩▲同飛には△9五歩を用意する。

工夫B

 金が移動する(6一の金が5一~4一)前提手段として、△4二角と引いておく。こうしておくことにより、▲7四歩には、△8六歩や、△9七角成~△9八角、また、△9七角成~△8六歩などの手段を見せる。というもので、さすがに緻密な駒組みである。

 8図ではすでに後手作戦勝ちだが、谷川八段は△8六歩と強気に仕掛け、以下、▲同角△7四歩▲8五歩△7五歩▲6六飛(▲7五同角は△7二飛でシビレル)に、自然に△7三銀と活用、郵政を確保した。

 8図の局面までくると、普通の居、振り飛車の対抗型に近く、仕掛けの権利は対ヒネリ飛車側にのみあるのだから、本戦法の優秀性もお分りいただけると思う。ただ、これも前出のイビ穴と同じく、「ここに組み上げるまでの手順が非常に難しい」(谷川)ということは言える。

 なお、左ミノ戦法の発案者は、玉を固めるのが上手な最近の若手棋士研究グループである。なんでも、関東・関西とも、ほとんど時を同じくして偶然同じ手順を発見していたとの情報がある。

その3

 対ヒネリ飛車作戦のきわめつけが9図である。

 なんと、居飛車・振り飛車対抗そのままに、ヒネリ飛車の面影などどこにも見当たらない。

 この玉頭位取り戦法は、公式棋戦において2局ほど散見されている。

 振り飛車対玉頭位取りは、玉頭位取り側がわずかではあるが有利であるというのが、現在の通り相場である。図のように組み上げてしまえば良いのだが、やはり、この戦法も、ここに組み上げるまでの途中の手順に苦心がいる。

 以上、3題。最近出現した目新しい対ヒネリ飛車対策は、組み上げるまでが大変とはいえプロ間ではかなりの勝率を誇っている。

 これに対し、ヒネリ飛車側が、どのような新手・新構想を打ち出して巻き返しを計るか、また、逆に、第3の主流戦法にまで育ったヒネリ飛車が、その新対策にのみこまれ、衰微していってしまうのか、興味深い命題といえよう。

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ひねり飛車は、タテ歩取りという戦法名で棋書に紹介されていた時代もあった。

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解説では省略されているが、「丸田流9七角型」の▲9七角のところ、▲8五歩とする形も多く指されていた。

丸田流を選ぶか▲8五歩型を選ぶかは、好みの問題。

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升田幸三実力制第四代名人の升田流ひねり飛車も存在する。

1970年代初頭に指されて高い勝率をあげていた。時期的には、升田九段が升田式石田流の次に編み出した戦法。

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ひねり飛車は1990年代半ばまで指されていたが、特にひねり飛車退治決定版が出たわけではないものの(後手が角道をなかなか開けないようにして、△3三金と立つ必要のない指し方などは現れているが)、それまでに比べて勝率が落ちたのか、1990年代半ば以降はあまり指されなくなっている。

江戸時代以来、一度もメジャー戦法になったことがないと言っても過言ではない雁木が見直されている時代、かつてのメジャー戦法だったひねり飛車が見直される可能性だって皆無とは言えないと思う。

振り飛車をめぐる戦法の変遷(1976年~1981年:居飛車穴熊登場以降)

近代将棋1982年7月号、小林勝さんの「棋界パトロール 振り飛車をめぐる戦法の変遷」より。

居飛車穴熊登場

 せっかくの位取りも相手にクマられてはあまり効果がないと判断した居飛車陣営。ついに、目には目をの居飛車穴熊をひっさげての挑戦となる。敵さんが頭を低くして玉をガチガチに囲うんならこっちだってやってやろうじゃないかの心である。この、玉の固さで勝負の思想は左美濃作戦と全く同種のものだが

2日目は左美農作戦と全く同種のものだが、現在の流行度と実績、また、考えの極により近づいているの意味で、本項では左美濃にはふれず、居飛車穴熊中心で話を進めて行く。

 次に示すは、昭和51年から現在までの振り飛車対居飛車穴熊の戦績である。

居飛車穴熊戦績(対振り飛車)
1976年度 5勝6敗(0.445)
1977年度 67勝42敗(0.615)
1978年度 50勝44敗(0.532)
1979年度 92勝65敗(0.586)
1980年度 73勝52敗(0.584)
1981年度 47勝19敗(0.721)
総計   334勝228敗(0.594)

 なお、先後別に見ると居穴先手勝率5割8分1厘。居穴後手勝率6割1分5厘となる。

 居飛車穴熊全体の勝率もさることながら、後手番での勝率の良さも注目に値しよう。これは先に述べた急戦策のように、先番ならまだしも後手番では一手の差が、その作戦自体に大きな影響を与えたことを考えると、居飛車側にとって実にたのもしい限りである。

居飛車穴熊の優秀性

 数字の上でなく、具体的かつ理論的にイビアナの優秀性を述べてみよう。

 5図は、昭和51年枻誌指定局面戦=谷川浩
司四段対田中寅彦四段戦(便宜上先後逆)。

 別にどうと言うこともない局面と映るが、ことプロの眼にかかると次のようなことになる。

  1. イビアナ側は、8五まで歩が伸びていることにより、この筋に関して一方的な開戦の権利をもっている。
  2. 前線に出ている銀の位置を比べると、振り飛車側の銀よりイビアナのそれの方が王様に近い。
  3. 振り飛車側の角は固定されているが、イビアナ側は角銀の進退に融通性があり、攻撃性に富んでいる。

 以上、玉の固さなど、他の点は互角なのだから、これらの差が必然的に勝率に現われるわけである。

 5図以下、田中四段は△2四角~△3五銀以下、先手の4六歩を目標にすることで、2,3の利を用い勝利を得ている。

真部流

 イビアナの出現により、振り飛車側は、これに立ち向うべく、さまざまな指し方を試みることになった。

 6図は、昭和55年昇降級リーグ2組=真部一男六段対北村昌男八段戦。

 図で注目すべきは振り飛車側の左銀の活用法である。4六の銀は元の7九よりナナメ一線に上がってここまで来た。序盤において▲6八銀~▲6七銀と普通に運んではこうはいかない。6図以下実戦の経過は△8六歩▲同歩△5五歩▲8八飛△7三桂▲5四歩△6五桂▲5五角△8六飛▲同飛△同角▲8五飛と進み先手優勢となる。

 真部流は、左銀を攻防にフルに使おうとの戦い方であり、対イビアナの有力な戦法と見られた。が、逆にイビアナ側から見れば、6図では自陣は一つの理想型であり、ここまで組み上げれば不満はないという見方もまた成り立つ。味方も十分だが、敵もまた十分ということで、本戦法も、有力対策と言うにはどうもイマイチという感じである。

急戦法

 7図は、今年のNHK杯戦より山口千嶺七段対田中寅彦六段戦(便宜上先後述)。

 イビアナを目指す後手に対し、振り飛車側が▲6五歩と挑発的態度に出た場面である。これは、イビアナが完成する前に決戦にもち込んでしまおうというもので、以前の居飛車対振り飛車戦で、居飛車側が急攻しようとしたことの全くのウラ返しである。

7図以下の指し手
△4四歩▲6七銀△1一玉▲6六銀△2二銀▲7五銀△4二角▲5八金左△3一金▲4六歩△5二金▲3六歩△8五歩▲3七桂△7四歩▲△(7-1図)

 以上の指し手は、手っとり早く言えば、振り飛車側の急戦策は不発に終った、ということを示している。△2二銀はともかく、△3一金と締まる余裕を与えては急戦の意味がないといえる。

 無論、本型でも振り飛車側としては改良の余地もあろうが、現段階ではどうも、うまくないの観が深い。

固さと広さ

 8図は、昭和56年第22期王位リーグ=土佐浩司四段対脇謙二四段戦。

 後手陣はいわずと知れたイビアナだが、先手の玉型は何と呼べばいいのだろう。まったく人を喰ったような囲い?である。一体、土佐の頭はどうなっているのだといぶかるむきもあろうが、どうかご心配なく。8図は大胆な発想の転換の産物である。土佐の意図はこうだ。

―居飛車穴熊は確かに固く、攻撃力も相当なものがある。尋常に固め合っての勝負に分がないとすれば、もう王様を固め合うことはよしにして、守備力の大部分を玉側でなく攻められそうな所に結集・配置して押さえ込みを計り、全局的な戦いを目指してはどうだろう―。

 玉の固さでなく、玉の広さを武器に戦おうとするこの態度は、まさにプロならではの頭の切り替えである。

 さて、この戦いの結果がどうなったか?というと………

 投了図をごらん下さい。

 広さというもののもつ恐ろしさを知っていただければ幸いである。

 大海を泳ぐ先手玉に対し、金銀4枚に囲ったイビアナは何の威力もない。姿焼き一丁上がりの図である。

風車戦法

 玉の広さと全局的守備力を武器に戦うということで忘れてならないのが、伊藤果五段用いる「風車戦法」である。

 9図(昭和54年王将戦予選=伊藤果四段対鈴木輝彦四段戦・先後逆)が、風車戦法の基本形であり、紹介順が前後したが、前述の土佐流と思想は全く同じである。伊藤は本戦法で対イビアナ勝率7割の好成績をあげている。

 投了図▲7八玉まで。広さの威力を十二分に発揮した勝ち方が本戦法の真骨頂である。

 土佐・伊藤流の難を言えば、玉が薄いため、受けを一歩誤ればたちまちにして奈落の底に転落、ということと、開戦の機をつかむことが大変難しい、の二点にあるのであるが、勝率や成功率から見ると、今のところ、本戦法がイビアナに対し一番善戦しているようである。

歴史は繰り返すか

 思い起こせば、戦後まもなくの頃、5五の位は天王山と言われ、広さを重視する思想が支配的であった。それが、升田幸三九段の出現によりスピード重視の流れとなり、現在は次第に玉の固さで勝負の風潮が高まりつつある。

 現代将棋の申し子ともいえるイビアナに、もし、土佐・伊藤流が有力な戦法であるとすれば、広さ→速度→固さ→広さという流れに興味深い符合を見るような気がする。

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田中寅彦九段の居飛車穴熊が登場してから、振り飛車対居飛車の構図が全てが変わってしまった。

居飛車穴熊の威力は物凄く、振り飛車がなかなか勝てなくなり、振り飛車党から居飛車党に転向する棋士も多く出たほど。

居飛車穴熊の登場以降、振り飛車の冬の時代が長く続く。

この状況を打破したのが1990年代後半の藤井システムの登場。

それほど藤井システムは革命的だった。