角換わり腰掛け銀盛衰記

近代将棋1992年1月号、武者野勝巳五段(当時)の「プロ棋界最前線」より。

1991年竜王戦第1局、対局翌日の写真。チェンマイ・ドイステープ寺院。将棋マガジン1992年1月号、撮影は弦巻勝さん。

蘇った腰掛け銀

 一度結論が出され指されなくなった将棋の戦法が、最新の技術の光を当てられ蘇ってくるというのがこのところのプロ棋界の流行で、飛車先交換型の相掛かりは「塚田スペシャル」や「中原飛車」という新技法をも生み出した。

 このような温故知新の波は、戦後大流行した後、木村、升田、塚田、大山という超一流をして「後手に最善に構えられると、仕掛けが困難で千日手」と結論づけられた角交換腰掛け銀戦法までもその対象とし、若手棋士を中心とした多くの研究会では「仕掛けが可能」という結論に達しているらしい。

 例によって、最近のプロ棋戦の棋譜すべてが入ったコンピュータを駆使し、蘇った腰掛け銀戦法の実体に近づいてみたい。

 まず、オールドファンなら昔なつかしい1図。

 戦後は「腰掛け銀にあらずんば将棋にあらず」というくらいの大流行で、新聞社の入社試験にも「腰掛け銀とはなにか」という問題が出題されたそうである。将棋をしらぬ受験生には迷惑な話で、「銀行で腰掛けて待つこと」なんていう苦しい解答もあったそうだ。

 この1図から△7三桂と同型に構えた場合、先手が▲4五歩△同歩▲3五歩と仕掛けてよしというのが木村定跡。近代将棋創刊号のメインがこの講座で、当時の第一人者木村義雄名人が、腰掛け銀の最新研究をとその変化を惜しげもなく発表している。これでは近代将棋が売れ、腰掛け銀が大流行するのは当然の結果だったが、その後の研究により1図から△4三金右と厚く構え待たれると仕掛けが困難。千日手では先手として不満ということで、昭和50年代はプロ棋戦に年間10局くらいしか登場しないという斜陽戦法になってしまっていたのだ。

飛車先不突戦法の登場

 千日手との結論が出たと思われていた角換わり腰掛け銀に、新しい息吹を吹き込んだのが谷川竜王である。

 2図がそれで、矢倉で流行し始めていた飛車先不突を応用し、2図から▲2五桂△2四銀▲4五歩という手順をねらって、仕掛けを可能にしたのである。

 この飛車先不突腰掛け銀は、北村昌夫八段による新構想だったように思うが、新構想発表当時は▲2八角を打たず、単に▲2五桂△2四銀▲4五歩という仕掛けだったので、後手に△3七角と反撃され数局の実戦結果は思わしくなかったようだ。2図の▲2八角が谷川新手で、これにより北村構想を新定跡へと格上げしたのである。

 飛車先を保留することは、▲2五桂の攻めを可能にするばかりでなく、受けにも手段の広がりを見せた。

 3図がそれで、腰掛け銀の大敵だった棒銀による攻めを、右玉によって軽くいなしている。

 飛車先の1手の省略が▲2九飛を間に合わして、左翼の受けに役立っているのである。右玉にした場合、2筋の歩は2六の位置の方がよいことも多く、その意味でも適誼の策と言えるだろう。

 棒銀は銀香交換の駒損ながら、敵玉付近を直撃するから効果があるのだが、これではとても△9五歩の端攻めを決行する気にはならないだろう。

 当然と思われた飛車先を一つ保留するだけで、千日手の結論のもとに凍結されていた角換わり腰掛け銀が蘇ったのである。

 こうなるとさらなる工夫を要求されるのが後手側で、当代屈指の研究家・佐藤康光五段は、「敵が飛車先を突いてこないなら、後手側から先攻してしまえばいいんでしょう」とばかり、4図の局面を問題提起した。

 先手が遅ればせで▲2五歩と突けば、△6五歩▲同歩△7五歩と攻めてしまうのである。ここに至る手順中△4二銀と上がっているのが工夫で、△2二銀のカベ銀では先攻するなど考えられぬことだし、△3三銀と姿を直していると、例の▲2五桂からの攻めを先手に許していけない。

 この新構想は後手から先攻してしまおうという飛躍的な発想で、従来からあった角換わり腰掛銀の後手は千日手覚悟で受けに徹する―という常識に大きな一石を投じたものだった。

 4図からの攻防は、前期の王位戦七番勝負で、谷川が▲2五歩△6五歩▲同歩△7五歩▲2四歩△同歩▲2五歩△同歩▲7五歩…という反撃含みの受けを披露して勝ちを収め、「この攻防はやや先手よしらしい」という結論が出たのだが、むしろこの一局が刺激剤となって、大量の同型局が誕生している。

 それは5図で、先ほどの4図から▲2五歩△3三銀の2手を加えただけの局面なのである。

 5図から▲8八玉と△2二玉と進行し、▲4五歩△同歩▲3五歩と仕掛ければ木村定跡となる。繰り返すがこれは先手よしの結論が知られるところである。なのに、5図の玉型では先後の優劣を断じることができないというのだから、将棋はなんと深く、道を究めることはなんと遠いのだろう。私見では、この玉型は露出しているので飛車切りなどの強い戦いができず、攻めにはマイナス。一方敵の攻め駒からは一路遠ざかっているので、受けるにはプラスの効果があると思われる。

 仕掛けたい先手にとっては、木村定跡と比べて二重のハンデがあるわけで、仕掛けがそんなに苦しいなら▲8八玉と囲えば…というと、実は受けに適さない8八玉のため、後手に△6五歩と仕掛けられる不安が常につきまとうのだ。

 そこで必然的に、先手は5図から▲4五歩△同歩▲3五歩と仕掛けることになるのだが、情報化社会の昨今、攻防はそれこそ半日毎に進歩しており、プロ棋士の義務とはいえ、それらを復調する私にとっては目の回るような思いである。大きな流れから察するところ、関東の若手代表の森下六段は5図からの仕掛けはやや無理と判断しているらしく、その挑戦を受ける谷川竜王は関西を代表して、指せるとの立場にいるようだ。

「仕掛けて十分」の立場と「仕掛けは無理」の判断なら、5図が竜王戦七番勝負に登場するのは当然のことで、タイでの第1局が持将棋無勝負となったのは、なにやら象徴的でもある。このようなことを承知で、プロ棋戦に頻発する角換わり腰掛け銀の5図を見れたら、読者も一層興味深いだろうと思い筆を執ったが、どうやら今月の紙数も尽きてしまったようだ。5図からの代表的な攻防を以下に例示して、今月は終わりとする。

(以下略)

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角換わり腰掛け銀の木村定跡以降の歴史。

逆に回り回って5図は、手順は異なるものの、昭和20年代初期にも課題となった局面で、昭和23年に、5図から、▲4五歩△同歩▲7五歩△同歩▲3五歩△6三角▲2四歩△同歩▲3四歩△同銀▲2四飛△2三金▲2八飛△2四歩▲6五歩△4六歩▲6四歩△7四角▲6三歩成△同角▲6四角△6二金▲4四歩△3六歩▲4五桂△同銀右▲3五歩(B図)の升田幸三八段(当時)による定跡が誕生した。

この変化は、1960年代に書かれた定跡書にも載っている。

この升田定跡(角換わり腰掛け銀での升田定跡は他にもいろいろ存在する)に対抗するために考え出されたのが、△4三金右の守勢型。

その後、先手▲4八金型、後手△4二金寄の待機策、後手△7三桂の攻め合い、後手△6二金△8一飛の攻勢型なども出たが、とにかく角換わり腰掛銀の流行は終結する。

そして、20年以上の歳月の後に開発されたのが、2図の谷川流。

そこから、また5図が課題局面となる。歴史は巡る。

平成になってから、B図に至る升田定跡の手順中、△6三角のところで△3五同歩という手が発見され、先手有利とも言い難くなってくる。

更にこの武者野勝巳五段(当時)の文章が書かれた後、丸山流、堀口流、富岡流などが出現することになる。

この辺りの詳細は、NHK将棋フォーカスの中村太地七段「太地隊長の角換わりツアー」で解説されている。

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戻って、この武者野五段の記事、このような歴史に踏み込んだ解説が行われたのは、バンコクで行われた竜王戦第1局〔谷川浩司竜王-森下卓六段戦〕で5図の局面が出たため。

谷川-森下戦では、5図以下、▲4五歩△同歩▲3五歩△4四銀▲7五歩△同歩▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛△6三金▲6一角△3五歩▲3四角成△4三銀▲2五馬△5四角(A図)と進み、最後は持将棋となっている。

「仕掛けて十分」の立場の谷川竜王と「仕掛けは無理」の判断の森下六段の、矛と盾のような戦い。

武者野五段の「タイでの第1局が持将棋無勝負となったのは、なにやら象徴的でもある」という見解は、本当にそう感じる。