「振飛車党の古き良き時代」カテゴリーアーカイブ

大山流振り飛車の絶妙の捌き

次のA図とB図、特に後手陣を見比べていただきたい。

中原大山5

中原大山4

A図から十数手進んでB図になったように一瞬見えるが、実はB図から20手後の局面がA図。

大山-中原戦は実に奥が深い。

昨日の記事にあったように大山康晴名人の▲9五銀という、全く大山名人らしくない手が敗因となった第18期棋聖戦第2局に続く第3局で現れたのがB図とA図。

この一局では、大山名人の振り飛車史上に残る絶妙な捌きが繰り出される。

将棋世界1971年9月号、S記者の第18期棋聖戦〔中原誠棋聖-大山康晴名人〕第3局「大山・カド番を勝つ」より。

 銚子における第2戦に、大山名人らしからぬ大ポカを出して好局を失った。2連敗。ここから棋界雀は、中原のツキを見て、ストレートでおわるのではないかとさえ言うものが出てきた。

 しかし、こうなってからの大山名人の強さがある。普通残り三番を全部勝たなければならないと思っただけでシンドクなるのを”一番勝負だと思って、一番一番指す”という。これが大山名人のネバリ腰の要因らしい。

 こうして注目の第3局は7月22日、東京渋谷の羽沢ガーデンで行われた。

(中略)

中原大山1

 名人は十八番の四間飛車から三間飛車に転じ、さらに最近流行している石田流を目指したが、一手の遅れで4一金が離れている。そこを衝いた▲4五歩は、持久戦に移行中でもスキがあれば攻める中原流らしい機敏な挑戦。

1図以下の指し手
△3三桂▲4四歩△同飛▲5四歩(2図)

大山名人「△3三桂では△3三角も考えたが、△3三角では▲4六飛△4二金▲4四歩△同飛▲4五銀△7四飛で、せっかく石田流にした意味がなくなる。いいわるいではなく”いってやれ”の気合いで△3三桂とした。最近は読みよりも流れで指すことが多くなった」という。

中原大山2

2図以下の指し手
△3四飛▲5五銀△4四歩▲5三歩成△同角▲5四歩△7一角(3図)

 2図での△3四飛で、△5四同飛は、▲4四歩から△同銀▲2四歩△4五銀▲2三歩成で先手指しやすくなる。

 しかし、△4四歩と受けた形でも、石田流が生きていない。控え室では中原有利の声多し。だが、このあと、中原は急流を避け、長い浅瀬を渡ろうとした。いや、中原棋聖は急流を避けたのではなく、中原流で十分と見たのであるが、第三者の眼には、勝負を避けたと映ったわけである。

 局後、中原棋聖も「3図では▲9七角が本当でしたね。△5二歩▲7五角の推移でしょうが……」

大山「△5二歩とせず△5二金右とするかもしれない」、というが、実戦ではなかなか△5二金右の悪形は容易に指せないのではないか。

 もちろん△5二歩で悪ければ形などにはかまっていられないが……。

中原大山3

3図以下の指し手
▲6六角△6四歩▲5六飛△6三銀▲7五角△5二金左▲7七桂△5三歩▲6四銀△同銀▲同角△5四銀▲6六飛△6三歩▲8六角△4五歩▲2六飛△7二玉▲7五角(4図)

 ▲5六飛と転じる前に、一本▲2四歩と突き捨てておく手も中原棋聖は考えたという。すなわち▲2四歩△同歩▲5六飛は、これで銀交換になれば▲2三銀を見せて牽制するのである。が、△2五歩と突かれて△2四飛から△2六歩の順を与えると指しすぎになるのを懸念したのだと……。

 それにしても▲6六角の緩みを衝いての△6四歩から△6三銀の駒繰りは大山名人独特のさばきだった。

中原大山6

 (中略)

——–

冒頭のA図が4図、B図が3図ということになる。

大山流の駒繰りによって、4図の後手陣は、3図から10数手戻ったような形になっている。

△7二玉とわざわざ中央側に寄ったのは7一角の活用のため。

4図以下、

△8二角▲6六角△5五銀打▲5七角△4六歩▲5六歩△同銀▲6六角△7四歩▲2四歩△5五銀▲2三歩成△6六銀▲同歩△4五桂▲3三と△同飛▲4八歩(5図)と進む。

中原大山7

角銀交換で後手の駒得だが、玉形は後手の方が薄く、先手の飛車が成れることも確定的。後手が劣勢に見えてしまうところ。

ところが、ここからが大山名人の絶妙な手順。

5図以下の指し手
△2五歩▲同飛△5七桂成(6図)

 

中原大山8

△2五歩を▲同飛とさせてからの△5七桂成。

▲同銀△同銀成▲同金のように指すと、△3四角の王手飛車取りがあるので、先手は5七の成桂を取ることができない。

6図以下の指し手
▲2二飛成△5八成桂▲同金△1四角(7図)

中原大山9

そして、▲2二飛成の飛車取りを放置しての△5八成桂~△1四角が絶妙。△5八角成とされては先手は勝てない。

7図以下の指し手
▲2五歩△2三飛▲1一竜△2一金(8図)

中原大山10

先手は▲2五歩と受けるが、△2三飛と手順に飛車交換を迫るのが△1四角の狙い。▲同飛は△同角で後手の角が先手玉を直射するので、先手は飛車交換をするわけにはいかない。

△1四角~△2三飛は、複数の本で紹介されている有名な捌き。

そして、▲1一竜に△2一金(8図)。

▲2四歩と突いて竜を助けたくなるが、それは△5八角成とされて先手敗勢。

5図の先手の2六飛が死ぬ運命にあったなどと、誰も想像できなかっただろう。

▲1一竜ではなく▲3一竜としていれば竜は助かるが、中原棋聖はあえて▲1一竜として、自陣を守るための香と金を手に入れたと考えられる。(この後、先手陣に金、香、銀が埋め込まれる)

8図以下の指し手
▲同竜△同飛▲3四銀△3九飛▲5九香△2五飛▲同銀△同角  ▲6九銀△2九飛成▲7九金(9図)

中原大山11

中原棋聖の必死の粘り。しかし、ここから先手陣は崩壊してしまう。

9図以下の指し手
△1九竜▲8六桂△4七歩成▲同歩△3七角成▲5四歩△6四馬▲5三歩成△同馬▲5七歩△4五銀▲9五歩△4三角▲9四歩△7六角▲7三歩△同桂▲8八金△8六馬▲同歩△7五桂(10図) まで、122手で大山名人の勝ち

中原大山12

将棋世界1971年9月号の「大山・カド番を勝つ」は、次のように結んでいる。

 原田八段は「よっぱらいの角で中原君は負けたね」と表現して笑わせたが、中原棋聖は笑うどころではない。

 これからあとはどう研究しても、中原棋聖に勝ち筋はなかった。

 それにしても大山名人の△2一金はイヤらしい。”さあ、どうだ”といった形で、普通の人なら、もう投げていただろう。しかし、中原棋聖は時間いっぱい粘った。しまいには大山名人も少々もてあまし気味のようにみうけた。

丸田「△1九竜では△8四桂と打てば早くおわっていたろう」

 22日午後8時27分、中原棋聖の不出来な苦しい将棋が終わった。あとがなくなってから本当に大山名人は強い。カド番をハネ返して1-2と差を縮めた。

 第4局は8月3日、東京四谷の「富田」で行われる。

大野流▲4六金戦法退治

1月30日に行われた岡田美術館杯女流名人戦〔里見香奈女流名人-清水市代女流六段〕第3局で、里見女流名人の中飛車に対し清水女流六段が△6四金戦法(先手なら▲4六金戦法)を採用した。

女流名人戦第3局中継

▲4六金戦法は、中飛車に対して用いられる居飛車急戦で、加藤治郎名誉九段が創案した戦法。私の記憶が確かならば、香落ち下手番用に編み出されたものだと思う。

1972年の名人戦第7局、中原誠十六世名人が初めて名人を獲得した一局が、中原挑戦者の中飛車に対する大山康晴十五世名人の▲4六金戦法という戦型だった。

——–

今日は、▲4六金戦法の狙い(魅力)を十二分に引き出した加藤一二三八段(当時)と、▲4六金戦法を真っ向から迎撃した振り飛車名人・大野源一八段(当時)の一戦を見てみたい。

1961年の九段戦、加藤一二三八段-大野源一八段戦。

〔初手からの指し手〕
▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲2五歩△3三角▲4八銀△4二銀▲5六歩△5四歩▲6八玉△5二飛▲7八玉△6二玉▲3六歩△7二玉▲5八金右△8二玉▲5七金(1図)

大野加藤1

▲5七金が▲4六金戦法の出だし。

〔1図以下の指し手〕
△4三銀▲4六金△7二銀▲3五歩(2図)

大野加藤2

加藤一二三八段は▲3五歩から早速の開戦。

振り飛車側はもちろん△同歩とは取らない。△同歩▲同金△3四歩に▲2四歩とされてもイヤだし、▲3六金とじっくり引かれても超つまらない。銀と違って金なので重厚感が違う。

〔2図以下の指し手〕
△3二飛▲5五歩(3図)

大野加藤3

▲3五歩から▲5五歩と行く。銀で攻めると△4五歩からの反発が気になるところだが、金なので心配がいらない。

〔3図以下の指し手〕
△同歩▲同金△5二金左(4図)

大野加藤4

△5二金左のところ、△3五歩だと▲3四歩が厳しい。

△3四同銀は▲4四金で後手が壊滅状態になるので△2二角か△4二角しかないが、△2二角は▲2四歩、△4二角は▲4四金で先手が快調。

そういうわけで、後手からは△3五歩と取りたくない。

〔4図以下の指し手〕
▲2四歩△同歩▲9六歩△5四歩(5図)

大野加藤5

それならばと、先手は▲2四歩から飛先を軽くしておいて、▲9六歩と手待ち。場合によっては▲9七角と出る味も含んでいる。

ハラハラするような場面なのだが、後手に動いてもらった方が先手の攻めの効果がもっと出るし、後手も先手に動いてもらった方がより強く反発できるので、一瞬の静寂。

後手は△5四歩から先手の攻めを催促する。

〔5図以下の指し手〕
▲3四歩△2二角▲2三歩(6図)

大野加藤6

ここから局面が大きく動き始める。

▲2三歩まで、先手の攻めが決まったかに見えるが、むしろ、後手が先手の攻めを呼び込んでいるような展開。

ジャイアント馬場がフリッツ・フォン・エリックのアイアンクローを真っ向から受けているような展開か。

〔6図以下の指し手〕
△3一角▲4四金△同銀▲同角(7図)

大野加藤7

居飛車側がうまく攻めてきたが、ここから振り飛車側のターンとなる。

〔7図以下の指し手〕
△3四飛▲1一角成△6四角▲3七歩△3六歩▲5五歩△3三桂(8図)

大野加藤8

△3四飛が気持ちの良い手。あっという間に後手は石田流風の布陣になった。

▲1一角成の時に、ついつい△3八金のような筋悪の手を考えてしまうが、▲3七香あるいは▲3五歩のような手があって幸せにはなれないのだろう。

ましてや神業の捌きの大野八段がそのような手を指すはずもない。

〔8図以下の指し手〕
▲3六歩△5五角▲4六銀△9九角成▲3五歩(9図)

大野加藤9

▲3五歩で後手は絶体絶命に見えるが、ここからの数手が大野八段の真骨頂。振り飛車党にとっては鳥肌が立つような感動の手順が続く。

▲3五歩のところ、▲3五銀、▲3五香、▲8八銀も考えられるが、これはこれで一局なのかもしれない。

〔9図以下の指し手〕
△2五香▲2六香△同香▲同飛△4四馬(10図)

大野加藤10

言葉も出ないほど。本当に神の領域だと思う。

〔10図以下の指し手〕
▲3六飛△2五金▲3九飛△3五金▲同銀△同飛(11図)

大野加藤11

とにかく飛車交換は居飛車側が不利。△2五金から一気に捌けた。

振り飛車の醍醐味が凝縮されている。

〔11図以下の指し手〕
▲3七銀△6四香▲6八金△5六銀▲5八金打△4六歩▲同歩△4七歩▲3六銀△6五飛(12図)

大野加藤12

先手玉のコビンの6筋に後手は戦力を集中する。

〔12図以下の指し手〕
▲6九香△3二歩▲2二歩成△6七銀成▲同金直△同飛成▲同香△同香成▲同金△6四香(13図)

大野加藤13

飛車損の攻めだが、△4八歩成が約束されているので攻めが繋がる。

この後も見応えのある応酬が続き、146手で大野八段が勝っている。

振り飛車党にとってはたまらない一局だ。

 

 

升田流変則向かい飛車

昨日行われた棋王戦挑戦者決定トーナメント、佐藤天彦八段-佐藤康光九段戦で、佐藤康光九段が非常にユニークな変則向かい飛車を採用した。(A図)

佐藤1

角換わりの出だしからの突如の向かい飛車。

この後、持久戦となり、後手は銀冠模様から△8四銀と出て玉頭攻めを展開した。(佐藤康光九段の勝ち)

△8四歩と突いてからの陽動振り飛車は多くの例があるが、△8五歩まで突いてからの振り飛車はなかなか見ることができない。

佐藤康光九段らしい奔放な指し回しだ。

この将棋の出だしを見て思い出したのが、昔の升田幸三九段-塚田正夫九段戦。

将棋世界1972年4月号、升田幸三九段のA級順位戦〔対 塚田正夫九段〕自戦記「三十年来の好敵手」より。

 塚田さんとの初手合わせは、昭和12年だったと憶えている。当時、私は五段、塚田さんは六段だった。

 その頃は東西の交流がほとんどなかったため初手合わせも遅れたわけだが、思えば三分の一世紀も昔のことである。

 それ以来、酒を共にし、盤をはさんできたが、資料室の調べによると、本局が60番目に当たるということだ。

 私の39勝、塚田さん20勝となっているが、最も多く顔を合わせたのは、戦後10年くらいの間ではなかったかと思う。

 近年はA級順位戦で、年に一度顔を合わせるくらいとなったが、それも来期は不能となった。本局のあと塚田さんが中原君に敗れ、A級の座を失うことになったからだ。

 また、私自身もA級順位戦で負け越したら引退する覚悟を決めているので、今後再び塚田さんと盤をはさむ機会に恵まれるかどうかも計りがたい。

▲2六歩△3四歩▲7六歩△8四歩▲6六歩△8五歩▲7七角△6二銀▲7八銀△5四歩▲6七銀△3二銀▲8八飛(1図)

変則振り飛車

 十数年前までは、塚田さんとほぼ互角の対戦成績だったが、その後、塚田さんに乱れが出たため私の勝率が高くなった。

 はっきりいうと将棋連盟が中野から千駄ヶ谷に移ってから、私は殆んど塚田さんに負けていないのではないかと思う。

 もちろん本局も私は必勝を期して盤に向かった。というのはこの時点で私は3勝3敗。個人対局数が8局なので、4勝を挙げておかないと負け越しになるおそれがあったからだ。

 塚田さんの3四歩、8四歩の出だしは、横歩取りを想定した指し口だが、私はふと気が変わり6六歩と角道を止めて、敵の注文をはずしてみた。このあと矢倉に変化する順も私の方にあったが、変わった型の将棋の方がどういうわけか、塚田さんには得という気持ちが無意識のうちにあったようだ。

 私の6七銀から8八飛回りは変則振り飛車で、多くはないが実戦例もある。

升田塚田1

1図以下の指し手
△4四角▲2五歩(途中図)△3三銀▲4八玉△3五歩▲3八銀△3四銀▲4六歩△2五銀▲5八金左△3四銀▲3九玉△3二金(2図)

二つの策

 塚田さんの4四角は私の2六歩を只で喰おうの策。ここで私には二つの策があった。本譜の2五歩と5六銀である。

 5六銀に2六角、4五銀(A図)の進展となるが、この順も歩を取り戻せるし、敵角を攻撃目標に出来るので相当有望。そのうち一度試してみたいと思っている。

升田塚田3

 本譜の2五歩(途中図)は味わるくこの歩を取らせようの策で、その間急戦に持ち込むのが私のネラいだ。

升田塚田2

 ただしここで注意しなければならないのは、うかつに8六歩、同歩、同角などと後手の飛車の素抜きをネラってはならないということだ。

升田塚田4

 B図は先手3八銀で、8六歩、同歩、同角とした局面だが、ここで後手にうまい順がある。8七歩(好手)、同飛、5三角がそれで、ハメようと思った先手が逆にハメられてしまう結果になるからだ。

 塚田さんは予定通り、私の歩を只で喰い3四銀と引いた。その間、私が玉を固めたのも予定の行動だ。

升田塚田5

2図以下の指し手
▲5六銀△2四歩▲4五銀△同銀▲同歩△2二角▲2八玉△7四歩▲5六歩△2五歩▲6七金(3図)

敗因に近い悪手

 私の5六銀はあらかた玉の囲いが整ったので急戦に出ようの策。

 これに対し塚田さんは2四歩と突いたが、私の4五銀のぶっつけを消す3三桂ハネもあった。局後、彼は3三桂だと2一にスキができ、8六歩、同歩、同飛とさばかれるのがいやだった、という感想があったが、形としては3三桂ハネではなかったか。

 もっとも3三桂以下、8六歩、同歩、同飛、8五歩(飛の交換は2一飛打ちがあるので私のほうが有利)、8八飛、2四歩、6五歩(C図)といった形になり、相当むずかしいことはむずかしいが―。

升田塚田6 

 塚田さんとしてはなんとか持久戦にし、2四歩から2五歩~2六歩と伸ばし、歩得を生かしてこなければならない局面だが、それがなかなかむずかしいのだ。

 4五での銀交換から私の2八玉までは読み筋だったが、ここで塚田さんは構想を誤った大悪手を指した。

 7四歩がそれで敗因に近い一手だった。この手では5三銀(D図)が正着で、飛車の横利きを通しておくことは、将来、先手に歩が渡ったとき2三歩、同金、3二銀と打たれるような手を消しているし、5三銀のつぎ4四歩とか、とにかく私の玉頭にネラいをつけるべきだったと思う。

升田塚田7

 塚田さんは「5三銀だと升田君に8六歩以下荒っぽくやって来られそうな気がした」といわれたが、D図以下8六歩は同歩、同角、6四歩、6七金、8七歩で私の方がわるい。

 逆にやって来ようというのが塚田さんの7四歩だったが、この手と私のつぎの5六歩とは、比較にならないくらい価値が違った。

 塚田さんの構想は7四歩以下7五歩だが、私には6七金、6八角(E図)の用意がある。

升田塚田8

 この形となっては、つぎの私の4六角のノゾキがきびしすぎて策のほどこしようがなくなる。

 私に5六歩と突かれ、塚田さんも”しまった”と思われたに違いない。しかし、3五歩と突きこし、2四歩が入っている形で、7筋もというのは慾張りすぎではなかったか。

升田塚田9

3図以下の指し手
△3四銀▲8六歩△同歩▲同角△8五歩▲6八角△3三角▲7七桂△4一玉▲4六角△5五歩(4図)

会心のさばき

 悪手は悪手を呼ぶというが、塚田さんの3四銀打ちは大疑問手で、ここへ銀を手放してもらえば私の玉頭の脅威は消え、安心して戦える形になった。銀を持たれていると、うかつに8六歩とは突けなかったのだ。なお、3四へ銀を打つくらいなら7四歩の手で打ち持久戦をめざすべきだったと思う。

 塚田さんの7四歩、私の5六歩で棋勢は私に好転したが、さらにそれに拍車をかけたのが塚田さんの3四銀打ちといっていいだろう。

 私の8六歩は会心のさばき、塚田さんは8五歩とおさえたが、この手で6四歩なら私は7七桂とさばき、以下7三桂なら8五歩打ちあるいは6五歩(同桂なら6三歩)で十分と見ていた。

 塚田さんの8五歩に、私は手順に6八の好位置に角を引き、7七桂ハネが回ってからはもうどう変化しても負けはないと思った。

升田塚田10

4図以下の指し手
▲同歩△4五銀▲3五角△8六歩▲8四歩△同飛▲8五歩△8二飛▲8六飛△4二角▲8八飛△8七歩(5図)

 私の4六角のノゾキに対し、塚田さんの5五歩はこの一手。7三桂ハネなら7五歩、8四歩、9五銀がある。

 私の5五同歩に塚田さんは4五銀と角に当て、私の3五角までは必然。ここで塚田さんは8六歩と勝負に来られたが、さすがにこのへんは昔とった杵柄と感心した。この手で3四銀引のような順なら6二角成、同金、7一銀、7二飛、6二銀成、同飛、8五飛で私の方がいいが、8筋の歩を伸ばされていると、7一銀のとき8七歩成(F図)と勝負され、飛の取り合いは、塚田さんの方は5筋に歩が立つので存外確りしている。またF図以下4八飛は7七とと暴れられてむずかしい。

升田塚田11

 私の8四歩から8五歩、8六飛は危険を避けたものだが、ここでまた塚田さんは悪手を出した。8七歩の叩きがそれで、8六とたらされる方がいやだった。

升田塚田12

5図以下の指し手
▲4八飛△3四銀▲4六角△2六歩▲5四歩△6四歩▲6五歩△8三飛▲5五角△3三角▲6四角△6六歩▲5七金△5六歩▲同金△6七歩成(6図)

緩手と悪手

 私の4八飛は幸便の転換。8六歩とタラされていても機をみて4八飛と回りたいくらいだったのだから―。

 塚田さんの2六歩はつくろいが効かないと見た勝負手で、私の方にはいろいろな有効手がある。2二歩の叩き、5四歩の突き出し、6五桂ハネ、5六金の活用などだ。2六歩でしつこく4五銀と角に当てる手などでは、角を引かれて後手引きになり、これらの順を防ぎ切れないと考えられたに違いない。

 私の5四歩の突き出しから6五歩はネライ筋だが、つぎの5五角出は緩かった。

 一本2二歩と叩き、同金、5五角が正着で、以下3三角、6四角(G図)となれば、敵の4筋が薄くなっているので、本譜よりさらに有効だったのである。

升田塚田13

 塚田さんは6六歩で反撃のチャンスをつかんだ。私の5七金寄りは悪手で6八金引きが正着。以下8八歩成、8四歩、6三飛、9一角成で必勝。8八へと金を作らせまいとしすぎのがわるかった。結果はさらにいやな位置へと金を作られる羽目となったが、5六同金で5八金引きは、6七歩成、同金、5七歩成、同金、7七角成と桂を取られ、馬を作られてしまうので、こう指すほかはなかったのだ。

升田塚田14

6図以下の指し手
▲9一角成△7七角成▲3六香△4二桂▲9二馬△7三飛▲8一馬△6六と▲8二馬△5六と▲7三馬△同銀▲9一飛△7一金打▲5三桂(7図)

 私の9一角成も緩手で8四歩が本手。同飛なら5三歩成があるし、6三飛なら9一角成で十分だった。

 このため手が遅れ、塚田さんの6六とと引かれる順を与え勝負形になってきた。私の3六香に塚田さんの4二桂は、3五に桂を受ける方が迫力があったのではなかったか。

 それにしても前に2二歩の叩きを逸したのは大きな手で、2二金の形にしておけば、寄せの速度に大差があったのだ。

 しかし、8二馬引きでハッキリ私は手勝ちを読み切った。飛馬交換から9一飛と打ち込み、塚田さんの7一金打ち(この一手)を強要、5三桂とかけたのが7図だが、ここではもう私の勝ちは動かない。

升田塚田15

7図以下の指し手
△3一玉▲6一桂成△8二銀▲5三歩成△9一銀▲4三と△5四角▲4二と△同金▲3四香△3三歩▲2二金△同玉▲4二飛成△3二金▲2三歩(最終図) 107手にて升田の勝ち

 塚田さんの8二銀引きまでは当然。私は読み筋通り5三歩成から4三とと迫った。4三同金でも同銀でも同飛成で必勝。私の3六香がニラミを利かせている。

 塚田さんの5四角は形づくり。私の4二とから3四香の走りに対し、塚田さんは3三歩と受けたが、3二歩なら詰みはなかった。しかし、2三桂、2二玉、4二竜と金を取られて全く楽しみのない将棋となる。

 本譜は詰みで2二金に対し4一玉は5三桂、5二玉、4一銀、6三玉、6四銀、7二玉、4二飛成、8三玉、8四金(H図)まで。

升田塚田16

 最終図以下は2三同玉、1五桂、1四玉、2五銀、同玉、1六銀、3六玉、2五金打ちまで。

 終了は午後3時10分。近年、私も時間を費わなくなったが、塚田さんも早指しだ。やはり年齢と体力に関係があるのだろう。自分のことをタナに上げて申し訳ないが、塚田さんに粘り強さがなくなったのが気にかかる。

——–

▲2五歩は時差を持たせて突いたものだが、2六歩あるいは2五歩を狙わせている間に囲いに入り、急戦を狙う戦略。

変化に出てくる手順も魅力的なものばかり。

必要な部分だけを抜粋しようとして取りかかったのだが、本局は序盤から終盤まで一本の線が引かれているような升田将棋。打ち終わってみると削れる部分がなかった。

リアルタイムで中学生の頃にこの自戦記を読んだ時は、(升田九段にしては地味な振り飛車だな)と思ってあまりワクワクしなかったのだが、今読んでみると、升田流の思想が非常によく理解できる。

——–

湯川博士さんの著書「振り飛車党列伝」より。

 日本は戦争に負けたが、将棋好きはすぐに立ち上がり、順位戦、名人戦が復活した。戦地へ行っていた棋士も徐々に戻ってきた。

 中でも南洋の死地から生還した升田は、尖った頬骨、鋭い眼光、飢えた野獣のような容貌が異様な光を放っていた。

 A級順位戦で当たった兄弟子の大野源一八段は、序盤早くも升田にやられたとぼやく。

 27図、先手が▲7八玉と寄ったのに対し、後手がつい飛車先の歩を伸ばしたところ。

「升田君の気合に一パイ食わされたよ」

升田塚田17

〔図から、▲7七角△5三銀▲6八角△2二飛…〕

 升田はわざと頭の薄い玉を相手の飛車道に寄せ△8五歩を誘い、次に引き角で△2二飛を強要し大野を翻弄したのである。むろん、大野が飛車を振り回すのが好きというのも織り込み済みである。

(以下略)

升田塚田18

——–

これは、升田幸三八段(当時)が、変則向かい飛車を相手に無理やりやらせているケース。

変則向かい飛車、あまりにも奥が深い。

 

振り飛車の神様

将棋世界2004年4月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 その久保が、憧れた棋士の一人が大野源一九段だったと何かで読んだ覚えがある。飛車使いの名人と呼ばれ、三間飛車5三銀型からの鮮やかな捌きぶりは、それまでのゆっくりとした、どちらかといえば受身がちの振り飛車の概念を一変させてしまった。

 その華麗な駒の舞いは居飛車党をも魅了し、真似てみたくなるほどだった。

 大山名人でさえ影響を受け、振り飛車を多用するようになったとの説もある。

 私も奨励会時代に大いに触発され、5三銀型を真似したものだが、級位者のうちはうまくいったのだが、相手が有段者となると受けの力も強いのでなかなか思うようにはゆかなくなってしまった。

 大野の才能は格別なものであったようだ。五段の頃から天才と呼ばれ、才能では升田以上ともいわれていたが、現実にはその升田を大の苦手としていた。

 大野を若い頃から良く知っている将棋評論家の樋口金信氏によれば、彼に升田の闘志と大山の周到さがあれば、素晴らしい戦績を挙げるであろうに、とその才を惜しんだ。

 大野のそそっかしさはつとに知られていて、A級順位戦の対塚田正夫九段戦では、自玉の王手を放っておいて相手に王手をかけてしまい、塚田に「悪いけど僕も苦しいからこれもらっておくよ」と王将を取られてしまったのは有名な話。

 苦しいから云々は塚田にとってこの一番、降級がかかっていたからだ。

 そんな自分を知っていたからかどうか大野は列車の発車時刻には慎重をきわめ1時間前にはホームで待っていたという。

 才能は欠落、欠損から生まれるという説がある。

 脳のどこかが欠けていると他の部分がそこを補い、されにその部分が本来持っている働きが増強され常人には思いもよらない能力を発揮するという。

 アインシュタインや、エジソンが少年時代劣等生だったことはよく知られている。ミスター長嶋の「サバという字は魚ヘンにブルーですね」と云ったりする独特の言語感覚と動物的ともいわれる抜群の野球センスも無関係ではないだろう。

 視覚に障害のある方々の優れた聴覚や触覚は健常人の常識を遥かに凌ぐ。

 大野の場合、将棋そのものはそそっかしいどころか寧ろ緻密なのだが、それ以外の面で多少おっちょこちょいと思われる部分があったようだ。

 それを補う脳の働きが、もしかすると将棋にプラスとなる脳の部分を刺激して誰も思いつかないような独創的棋才を伸ばしたのかもしれなかった。

 先生との思い出話をひとつ。

 四、五段の頃、大阪に遠征して対局中での出来事。

 局面は既に終盤に差しかかっていて残り時間も乏しくなっていた。

 そんな時、ふいと大野先生が現れ私の横にペタンと坐る。先生は次郎長噺に登場する小政の異名があり、小柄だったからどっかと坐る感じではない。

 眼をぎょろぎょろさせて私に話かけてくる。「お前東京から来たんか」こちらは局面に必死だからそれどころではない。

 次に「名前は何ていうんや」大先輩を無視するのは心苦しいが、この場面では許されると思い無言で盤面とニラメッコしていた。

 すると「何や生意気なやっちゃな」こう仰言るとふいと席を立ってどこかへ行ってしまわれた。先生の真意が奈辺にあったかは分からない。ただこういったアケスケな先生だったと伝えたいだけだ。

 電車の踏切を渡ろうとして思わぬ事故で逝ってしまわれた天才大野との、たったひとつの思い出である。

軽快、強引、細心

昭和32年5月28日
第7期王将戦
▲七段 佐瀬勇次
△八段 大野源一

▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△3二飛

(中略)

 佐瀬七段(名誉九段)はいわずと知れた佐瀬一門の総帥で、米長邦雄、高橋道雄、丸山忠久といったタイトル者の師匠であり、西村一義、田丸昇、等々数多の俊秀を育てた名伯楽である。

 西村門には藤井猛、三浦弘行と並び、棋界の一大勢力を築いた功労者である。

 大野は振り飛車の中でも三間飛車を愛用して十八番としていた。

(中略)

大野佐瀬1

2図以下の指し手
▲9五歩△6四銀▲5七銀右△4二飛▲3七桂△6五銀▲7五歩△7六銀▲4七金△6四歩▲6六歩△6三金(3図)

 ▲9五歩では▲4五歩の仕掛けが目に映る。これに対しては△4二飛と迎え撃つのが常形だが、捌きが身上の大野は▲4五歩には△5五歩とし、以下▲同角ならは△5四銀▲4四角△4二飛と軽く指したような気がする。この振り飛車の指法は後年大山-山田戦に現れた。

 実際、振り飛車から仕掛けてゆくのは難しいのだが、大野は独特の感覚で手を造り出してゆくのだから大したものだ。

 ▲7五歩は79分の大長考。▲7七銀が自然だが、大野のことだから以下△5五歩▲同歩△3五歩▲同歩△4五歩▲同桂△5五角と激しく動いてくるかもしれずそれを警戒したものか。

大野佐瀬2

3図以下の指し手
▲6七銀△同銀成▲同玉△3二飛▲4三銀△3一飛▲3四銀成△1五角▲4四成銀△4一飛▲1六歩△3七角成(4図)

 ▲6七銀では▲1六歩または▲5八金が穏やかだが、それには後手△4一飛としてから(▲3五歩△同歩▲3四歩を消す意味)△7四歩▲同歩△8五銀▲6七銀△7四銀の好形を目指すだろう。

 だがこの玉形はいかにも不安定で、大野には恰好の好餌に見えたのだろう。

 △3二飛と八方破れに飛車を寄る。

 大野の飛車はよく動く、達人の指し手には凝滞がない。

 だが4三の地点に隙があるではないか、佐瀬はそこに銀を打ち込み自信があったと局後述べている。

 ここから天下一品の大野捌き、大野ワールドが展開される。その華麗な動きを堪能いただきたい。

 まず端に角を飛び出し飛車で成銀に当て、かわす成銀をさらに△4一飛と追いかける。そこで▲4五成銀には△3三桂▲3四成銀と利かせて△2六銀と打つ。▲4八銀に△4六飛が豪快な只捨てで、▲同金の一手に△3七銀不成▲1六歩△2八銀成▲1五歩△4九飛▲5九金△1九飛成として次の△3八成銀がキビしく後手が指せる。そこで、本譜は▲1六歩と突き△3七角成と切って落とした。

 

大野佐瀬3

 

4図以下の指し手
▲3七同金△4四飛▲2二角△3四飛▲1一角成△3三桂▲4七金△2五桂▲2一馬△4二歩▲4八銀△2四飛(5図)

 △4四飛で角と銀桂の二枚換えとなったが、直後に▲2二角から▲1一角成と香を取った局面は先手が十分に見える。

 だが、そこで△3三桂が何とも云えない筋の良い一手で「いよっ日本一!」と声を掛けたくなるほどの佳着であった。

 すぐ見える▲3五香には△2五桂が用意されていて、▲同飛は△2四飛だし、▲3四香は△3七桂成で負かされる。

 そこで▲4七金だが△2五桂とさらに跳躍して、大野得意の場面であったろう。

 ▲2一馬に一点渋く△4二歩で馬の活用をぴたり押さえた。

大野佐瀬4

5図以下の指し手
▲2六歩△1七銀▲2七飛△2六銀成▲同飛△3四桂▲2八飛△3七銀▲同銀△同桂成▲2五歩△2八成桂(6図)

 △1七銀は見えるが、次の△2六銀成には驚いた。何とも強引、無理矢理といった手に見えるからだ。だがこの手で△3八銀は▲2五歩△2七銀不成▲2四歩で2枚の銀がアクビする。

 さらに△3四桂から△3七銀とカチ込み、遂に手にしてしまう大野の豪腕には恐れいる。▲2五歩は正しく、ここ▲2四飛は△同歩▲3七金△3九飛ではっきり後手が良い。

 本譜成桂がソッポへゆき、まだまだに見えるのだが…。

大野佐瀬5

6図以下の指し手
▲2四歩△2七飛▲5七金△4八銀▲6八銀△1九成桂▲5八金上△5七銀成▲同金△4六桂▲4七銀△4三香(7図)

 △2七飛に▲4八銀は△3八成桂、▲5八銀は△4六桂がぴったり。

 ▲5七金は薄いようだが仕方ない。▲6八銀と使わせて悠々△1九成桂と香と補充する。

 △5七銀成から△4六桂と遂にあの桂まで働いてきた。△4三香も実に底力のある一手だ。

大野佐瀬6

7図以下の指し手
▲1二飛△3八桂成▲同銀△2八飛成▲4二飛成△5二金打▲3三竜△3八竜▲4四歩△7六銀▲同玉△6八竜(8図)

 ▲1二飛はもう開き直りの一手。

 そこで普通の感覚は△4八金だが、△3八桂成の軽妙さが何ともニクイ。

 ▲同銀に△2八飛成となってみると、香の利きが素晴らしく、銀取りを受ける手に窮しているのだ。▲4二飛成に△5二金打が当然とはいえ鉄壁の守り、銀の入手が約束されているから指し切る心配はない。

 ここで▲3三竜と後手を踏んではいかにもつらく、さすがの千葉の猛牛もここでは観念したのではないだろうか。

 もう後手玉は何の憂いもなくなった。

 △7六銀からひたひたと迫る。▲同玉で▲7八玉は△8七銀不成▲同玉△6八竜で、本譜と大同小異。

大野佐瀬7

8図以下の指し手
▲7七銀△5七竜▲6八銀打△4七竜▲4三歩成△6二金寄▲4四と△8四歩▲8六歩△7八銀▲6七桂△7四歩(9図)

 前譜で△5二金打と竜をハジかれた時、佐瀬は「そう堅くこられては弱ったな」 大野「そんなに弱ったなら、ええ知恵かそか」といったやり取りがあったそうな。いかにも両雄の人柄が現れている。

 金を只取りしては▲4三歩成に△6二金寄と締める余裕もあろうというもの。

 後手玉は金城湯池、▲4四とは、もう好きにしてくれといっている。

 △8四歩と詰めろに突いて、ここから仕上げに入る。▲8六歩で▲8六玉は黙って△9四歩と突かれて身動きがとれない。▲8六歩にも△7八銀と退路を断ち後手は必勝形を作り上げた。

 △7四歩に▲同歩は、△6七竜▲同銀△7五歩以下即詰。

大野佐瀬8

8図以下の指し手
▲8五歩△6七銀不成▲同銀△7五歩▲同玉△7四金打▲8六玉△8五金▲9七玉△6七竜▲8七香△9六銀▲9八玉△7五桂(最終図)

 △7四金打からの寄せ方は間違っても負けない指し方で、これではいくら大野がそそっかしくても逆転のしようがない。

 最終図は説明の要もないだろう。

大野佐瀬9

 この将棋に見られるように、大野の捌きは凡人に真似のできないものがあるが、それゆえ常に指し切りの危険と紙一重の戦い方であった。その棋質ゆえ負ける時は大概がっちり受け止められて切らされるケースが多かった。

だが、そのスレスレの所に斬り込んでゆく大野流にプロ、アマ問わず魅了されたのである。

(棋譜提供・東公平氏)

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真部一男八段(当時)の棋譜解説が素晴らしい。

当時の振り飛車は「飛車交換をすれば振り飛車よし」だったので、5図からの飛車交換を狙った強引な攻めが成り立つ。ましてや飛車使いの名人とも称された大野源一九段。

私もそうだが、飛車が大好きな方から見ると、とても嬉しくなるような手順。

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私は中学の頃に伝説の名著「大野の振飛車」を読んで大野源一八段(当時)の振り飛車に心酔し、棋譜を何度も並べたりしていた。

そういうこともあり、15年ほど前までは大野流5三銀型三間飛車が私にとっての主力戦法だった。

しかし、指し続けてみて痛感したことは、当然といえば当然だが、大野八段の指し回しの真似は絶対にできないということ。

升田式石田流のような戦法は中盤の入り口まで升田幸三実力制第四代名人になったようなつもりで指すことができるが(途中までは誰でも真似ができるので升田式石田流はアマチュアに人気が出た)、大野流は2図以降真似はできなくなる。

今思えば、大野八段の実戦集である「大野の振り飛車」は、私のレベルからすると、将棋を強くなるための本というよりも大野流振り飛車の神業の捌きを鑑賞するための本だったような感じがする。

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振飛車名人 大野源一九段

大野の三間飛車(1)前編

大野の三間飛車(1)後編

大野の三間飛車(2)

大野の三間飛車(3)

大野の中飛車(1)

大野の中飛車(2)

大野・升田・大山兄弟弟子(前編)

大野・升田・大山兄弟弟子(後編)

 

 

捌く居飛車

将棋世界2004年3月号、内藤國雄九段の特別エッセイ「気になっていたこと 名人の背中」より。

 作家で大の愛棋家藤沢桓夫さんが懐かしむような口調でこう言った。「えらいもんや、木村(義雄)さんは名人の背中になっとったなあ…」 「名人の背中って、どんな背中ですか?」と私が聞くより早く、振り飛車名人の大野(源一)さんが応えた「しかし将棋はたいしたことなかった」

 それは漫才のような絶妙の間合いだったがその表情は冗談を言っている顔でなかった。

 対局が終わった後、藤沢さんと大野さん、そして私の三人で連盟近くの寿司屋で呑むことがよくあった。藤沢桓夫先生(当時、関西の全棋士が先生と呼んでいたのでこれに習う)は大阪、北畠阪南町の旧将棋連盟関西本部の近くに住んでおられたが、この関西本部(借地契約)も藤沢先生のお世話によるものだった。

 先生のお宅にも棋士の出入りがあり、楽でなかった棋士を稽古料で援助。また当時マスコミに取り上げられることの少なかった将棋界の広報的な役割を果たされるなど、真にありがたい愛棋家であった。気さくな方で、棋士とは誰とも友達付き合いという感じだったが、最も仲の良かったのが大野さんで、大野さんが対局の日は必ず連盟に来られていた。私は一度も先生のお宅に伺ったことはないが、若年のころから何かと声をかけて頂いていた(これは升田さんが「内藤は将来性がある」とボクに言ったからなんや、と先生は後に打ち明けられた)。

 私が七段になったころから「一緒に呑まないか」と誘われるようになったのである。

 先生は棋士に対してはすべて”さん”づけ(時に君づけ)だったが、大野さんに対してだけは稀に大野先生と呼ぶことがあり、そこには特別のニュアンスがあった。誰も真似できない流麗な大野流5三銀型三間飛車はアマプロ問わず多くの人を魅了したが、先生はなかんずくその心酔者で大野さんの棋譜だけは全て取り寄せていた。「大野先生」と言うとき、そこにちらと大野さんに対する敬愛の念が覗くことを私は感じとった。

 一方、大野さんはいつも「藤沢センセ」と呼んでいた。この”センセ”にも、感謝と親しみと敬意が入りまじっていて、私は寿司屋で「先生」「センセ」と呼び合う会話を聞くと、いつも気持ちが温まり頬がゆるみそうになるのだった。

 この日も一献交わしながら、藤沢先生はかつての木村名人の強さについて語っていた。

 名人の背中という言葉が出たとき、私は一体それはどういう意味なんだろうと強く興味を持った。

 俳優の勝新太郎さんと会ったとき、将棋の話になって私が「背筋が伸びている若者が強くなります」と言ったら、勝さんは「俳優は背中が伸びているのは大根が多い。名優の背中は丸いんですよ」と語った。私は意外に思ったが、映画「波止場」のマーロンブランドの背中が丸かったことを思い出した。そして無法松や王将の阪妻。座頭市の勝さんなどが思い浮かび、なるほどと納得した。では名人の背中とは?私が聞こうとしたとき突然大野さんが異議を唱えたのである。私は驚いたが先生はもっと驚かれたに違いない。「いやあ強かったで。強かったやないか!」という先生に「そんなことないって、ただ辛抱がよかっただけなんや」と大野さんは一歩も引かず、私の聞きたいことはけし飛んでしまったのである。

 「古きを温ねて新しきを知る」孔子さんの滋味あふれる言葉の一つである。私は新しい棋譜より古い棋譜を並べることが多い。往時を偲びながら宗歩とか阪田三吉の棋譜を一人並べる時、棋士になった幸せをしみじみ感じる。

 生活の面でも、パソコンとか携帯電話は敬遠している。それでも不便を感じないで生きていける。将棋も同様、最新式を追わなくても棋士としてやっていける。それだけ奥のある競技だからで、非常にありがたいことだと将棋に感謝している。

 第4期名人戦(昭和18~19年)は戦時中の大変な時期であった。棋士が徴用で歯抜け状態になるなか、臨時の処置がとられた。選手を4チームに分け、それぞれの優勝者と木村名人とが香、平、平の三番勝負を戦い、勝ち越せば挑戦権を得るというものである。

 この奇妙としか思えないやり方は、木村名人が強すぎたということと、大スター木村の名を少しでも多く登場させようという主催者側の思惑があったからだと解釈できる。

 結果的にはチーム優勝者4名、荻原淳、大野源一、花田長太郎、坂口允彦各八段の全員が敗れ、挑戦者なしとなってしまう。

 この中の木村名人対大野八段の将棋を私はまだ並べていなかったことに気がついた。(続く)

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将棋世界2004年4月号、内藤國雄九段の特別エッセイ「気になっていたこと 名人の背中 (下)」より。

 大野源一九段は嘘を言う人ではなかったから藤沢桓夫先生に「木村さんは強くなかった。辛抱がええだけや」と最後まで譲らなかったことが私の心の底に強く残った。

 木村名人は角聖双葉山と並び称された大棋士である。最盛期には殆どの八段を香落ちに指し込み、駒落(昇り坂の五段、六段に何と角落も)を含めて勝率9割という驚異的な強さを誇っている。しかし大野さんの言葉は名人と直接戦った人の実感である。頭から否定するわけにはいかない。いつかこの疑問を解きたいと思っていた。今回、第4期名人戦、予備選の木村、大野三番勝負の棋譜を並べて見て、その謎が氷解した。なるほどそう言いたくなるのも無理はないと分かったのである。最初の香落戦は、大野さんが手合い違いのような勝ち方をしている。そして次の平手戦。これも完勝になるところであった。「前局よりまだ出来が悪い。終わりまで君の勝ちだよ」と名人がこぼす程だったが疑問手を続け、寄せを誤って九仞の功をいっきにかく結果に終わる。そして3局目は千日手指し直しの末敗れたのだった。

 ここでは名人を文字通り翻弄しながら敗れた2局目の内容を見て頂くことにしよう。

大野木村1

1図以下の指し手

▲2四歩△同銀▲5四歩△同歩▲7四歩△同銀▲6四角△4二金左▲2二歩△3三桂▲5四飛△5三歩▲3四飛(2図)

大野木村2

 この頃の大野さんはまだ振り飛車を指していなかったが、振り飛車のような軽快な捌きで優位を拡大している。手順中▲2二歩を利かしたのが大きく名人は△同玉と取れない(▲5四飛△5三歩▲5五角で銀を素抜かれる)。

 △5三歩に▲3四飛は味のいい手だが、ここは▲7三角成△5四歩▲7四飛の方が、次に▲5三歩や▲7二銀や▲4六桂があって勝ちが分かりやすかった。以下指し手を30手ほど進めて3図。大野さんが小ミスを出したためかなり挽回されているがまだ優勢である。

大野木村3

3図以下の指し手

▲4七桂△7六歩▲3五桂△7七歩成▲同桂△3四銀▲5五飛△同歩▲5四桂△7五角▲4二桂成△同角(4図)

▲4七桂では▲5五同飛△同歩▲5四桂△4一金▲5三銀△7五角▲4二金△2二玉▲4三金と平凡に攻めて手勝ち。また▲3五桂では▲7六同銀右△2九角▲5五飛△同歩▲3五桂△5六角成▲6七銀△4五馬▲2四桂がよく、さらに▲5五飛では▲7二銀△4一飛▲7四金と安全に指すべしと。

 こういう解説を見ていると悪い手ばかり指しているようだが実はそうではなく、敗因は4図での▲5二銀。これからでも大変にむずかしいが、銀でなく▲5二金としてれば勝っていただろう。

大野木村4

 昭和18年8月、このときの年齢は木村名人40歳、大野八段33歳。名人は軍隊慰問、講演、大成会(今の将棋連盟)会長、町内会会長等々で多忙を極めていたという一面もあった。が、それにしても大名人の将棋とは思えない不出来の一戦である。「才能は大野君が一番」と名人は語っている。升田幸三九段もぽつりと「大野さんは強かった」と私に洩らされたことがある。

 この名人挑戦の予備選は、当時最強の八段4名と香平平三番勝負で行われたが全成績は名人の8勝1敗1引き分け。1敗1分けは大野八段とのもので他は香落を含め全勝した。結果としては名人が強すぎて、名人に寄る試験に誰も合格しなかったことになる。藤沢先生の主張は正しいのだが、大野さんの名人が強いとは思っていない、という言葉にも頷けるのである。

 昔の棋士は対局中によくしゃべった。とくに大野さんは「歯に衣着せぬ」式の言い方を好まれ、サービス精神旺盛でまわりを笑わせることが好きだった。この対局中にも、威張っている大道詰将棋を征伐したという武勇伝を披露。すると沈思黙考していた名人が、カッと目を開くと見るや「君!詰まらぬことをするなッ」と鋭く一喝を食わせたというのである。「大野八段の面は忽ち紅潮する」と観戦記にある。当時は、将棋の手以外で面白いことがよく書かれていた。こういう出来事は将棋という自問自答の世界では意外に大きな影響をもたらす。一喝したほうは精神的に高揚し相手を威圧する。やられたほうは萎縮して冷静に先が読めなくなる。圧倒的に優位な形勢を続けながら勝ちきれなかったのも、こういう所に一因があったのかも知れない。

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振り飛車名人と称された故・大野源一九段が5三銀型三間飛車をはじめとする振り飛車を本格的に指し始めたのは、順位戦が創設された1947年からのこと。

それ以前は持ち時間が10時間以上の将棋だったのが、順位戦は1日指し切り制の持ち時間7時間に短縮されたことから、大野八段(当時)は駒組みにあまり長考をする必要のない振り飛車を用いだすようになった。

逆に言うと、相掛かりや矢倉などを中心とする居飛車だけで戦前の八段(1935年に八段昇段)になったわけで、本当に凄いことだと思う。

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今回の棋譜も、相居飛車でありながら、大野八段の指し回しはまるで振り飛車を思わせるような絶妙の捌き。本当に手作りが天才的だ。

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作家の 故・藤沢桓夫氏は、ことのほか大野源一九段を可愛がっていた。

先日、アカシヤ書店で、1979年に出版された「将棋童子」を手に入れることができたのだが、表題作の「将棋童子」は事実に基づいた実名小説で主人公は大野源一九段。

大野九段の強烈な個性が浮き彫りになっていて、本当に大野九段と会って話を聞いたような気持ちになれる作品だ。

そして、全編に溢れる藤沢桓夫氏の棋士に対する愛情にも感動してしまう。

私が昔から大野源一九段ファンだったということもあるが、私にとってはとても印象的な小説で、そのじわじわと感激した思いが、お正月に大野源一九段を取り上げてみようと思った動機でもある。