升田幸三九段「あのとき、すぐ追っ掛けて内藤君を随分探したよ」

将棋世界1994年11月号、内藤國雄九段のエッセイ「酒飲みの恨み節」より。

 実際、酒は百薬の長と言われるように良い面がいっぱいある。祭りや祝い事には欠かすことはできないし、人との付き合いも、酒がなければたいていの場合通りいっぺんの付き合いに終わってしまう。気の合う人と盃を交わすことほど楽しいことはない。

(中略)

「お酒は飲まない人より、少し飲む人の方が長生きする」という、その筋の発表ももっともだという気がする。酒は人を開放的にし勇気づけ、ストレスを鎮める。

 一方、酒と並んで同じ嗜好品の横綱である煙草のほうは今や四面楚歌で、非難は高まるばかりである。「タバコも吸わない人より少し吸う人の方がストレスがたまらず長生きしますよ」と主張する学者がいてもいいと思うのだが、こちらにはそういうありがたい援軍は現れない。

 両方とも親しく付き合ってきた当方としては、公平を欠く感じがしてならない。というのは、酒の及ぼす害は、ある意味ではタバコより遥かに強いものがあるからである。

  酒は頭脳の働きを確実に低下させる。「酒の勢い」は腕力の喧嘩には効くかもしれないが、頭脳の喧嘩には向かない。私は若い頃から酒を飲みながら詰将棋を作るのを趣味としてきたが、やはり酔ってしまってはだめで、せいぜい半酔いの状態までである。酔いとともに自分でも惚れ惚れするような妙想が浮かんでくるが、そのメモ書きは翌朝屑籠へ直行ということが多い。飲んだ帰りのタクシーの中で完成させた自信作が、桂を5枚使っていて、あきれてしまったこともある。

 酒は頭脳から緻密さを奪う。酩酊すれば、本人が気がつかないだけで大駒1枚からときには2枚も弱くなる。

 ”酒飲み”は一般的にお人好しなところがあり、サービス精神が旺盛である。

「○○さん(飲み友達)が観戦記のときは、どうしても勝ちを急いじゃうねぇ」と言ったのは、よく飲んでおられた頃の二上さん。

 東京の連盟で、私の将棋が早く終わったことがある。すると、となりで山田(道美)さん相手に戦っておられた升田さんが急にそわそわしはじめた。相手が指すと待っていたようにノータイム、それも1秒か2秒で応じるのである。将棋は升田さんの必勝形だが、腰が浮いては勝てない。

 私は気をきかせ(たつもりで)、感想戦は早めに切り上げ連盟を後にした。

 後日、升田さんから「あのとき、すぐ追っ掛けて内藤君を随分探したよ」と言われた。

 案の定、将棋は逆転負けを喫していた―。

(中略)

 よく、飲めない人が「飲める人が羨ましい」と言ってくれるが、私にはどうしても本心とは思えない。酒飲みに対する外交辞令としか受け取れないのである。

 私は、飲めない(飲まない)という人が羨ましくてならない。酒は、時間とカネと体力、ついでに神経の甚だしい浪費である。酒のせいで健康を損ない、数え切れない程の失敗と愚行を繰り返してきた。

 私が酒で過ごした朦朧として、あるかなきかも定かでない莫大な時間を、「飲めない人」はずっと正気で、頭脳明晰で通してきたと思うと、その差のあまりの大きさに呻きたくなる。

 アルコール依存症はガンにならない、と聞いた。これはいいと思ったらなんのことはない、そういう人はガン年齢に達するまで体がもたないからだという。

 酒飲みが亡くなると、惜しい年齢ですが、まあ「太く短く」でよかったではないですか、と慰められる。

 しかし短い方は当たっているが、太くの方は当たっていない。太く見えても中はカスカスである。

(以下略)

升田幸三九段。将棋世界1971年5月号より。

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「『○○さん(飲み友達)が観戦記のときは、どうしても勝ちを急いじゃうねぇ』と言ったのは、よく飲んでおられた頃の二上さん」

昔は、今よりも持ち時間の長い棋戦が多く、終局も終電がなくなる頃であることが珍しくなかった。

その時代は、一次会向きの店は早々と閉店になり、二次会向きの店も、銀座は23:45、新宿や六本木でも2:00までしかやっていなかったのではないかと思われる。

勝ちを急ぎたくなる気持ちは、ものすごくよくわかる。

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「東京の連盟で、私の将棋が早く終わったことがある。すると、となりで山田(道美)さん相手に戦っておられた升田さんが急にそわそわしはじめた」

勉強しに来た棋士や対局が終わった棋士が、対局中の将棋を検討する部屋のなかった頃の話。

そのような部屋があれば、連盟で時間をつぶすことも可能だが、そうでなければなかなか苦しい。

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「私は気をきかせ(たつもりで)、感想戦は早めに切り上げ連盟を後にした」

この場合は、「最初から並べ直しましょうか」と、腰を落ち着けて感想戦に臨む様子を見せていれば、升田幸三九段のためになっていたのかもしれない。

とはいえ、この辺の間合いのとり方は、とても難しいに違いない。

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「酒は、時間とカネと体力、ついでに神経の甚だしい浪費である。酒のせいで健康を損ない、数え切れない程の失敗と愚行を繰り返してきた」

この文が書かれた時の内藤國雄九段は、酒に対していろいろと思うところがあった時期だったのだろう。

このような気分になっていても、すぐに立ち直ることができるのも酒飲みの特徴。

酒を飲んでいなかったら、自分にとっては、もっとストレスがたまって、もっと健康が損なわれ、違う方面でもっと失敗をしていた、とも考えることができる。

酒は人生において、プラス面は3億、マイナス面は2億5000万、ネットでプラス5000万だったのかなというのが、現在のところの個人的な感想だ。

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