歌舞伎町祭りの出来事

東京都心の夏の風物詩、麻布十番納涼祭りが8月21日(金)から23日(日)まで開催されていた。

この祭りは、麻布十番という土地柄、商店街の様々な屋台をはじめとして、インターナショナルバザールや各国料理の屋台などバラエティに富んだ出し物が多く、毎年多くの人が訪れる。

夜などは、六本木の高級クラブに勤務する女性ばかりが浴衣を着て集まっているのではないかと思ってしまうくらい、華やかな雰囲気になる。

私もかなり若い頃は、女性と一緒に何度か麻布十番祭りへ遊びに行ったものだ。

昔は、「お化け屋敷」や「ミス麻布十番祭り水着コンテスト」などもあった。ミス麻布十番祭りを選ぶのに、なぜ水着なのかという疑問はあったが、審査員には、その当時麻布十番に住んでいた、志村けん、芸能評論家の故・加東康一氏が加わっていた。

その時は、ミス麻布十番祭りに選ばれた女性よりも、志村けん特別賞に選ばれた女性のほうが個人的には好みなのになと思ったりしながら見ていた。

それはさておき、今日は歌舞伎町祭りにかかわる話。

将棋世界2002年2月号の故・真部一男九段「将棋論考」より。

私が四段になりたての頃(1973年)、新宿は歌舞伎町で地元の町会の有志が提案して『歌舞伎町祭り』というのが開かれた。地域の振興を考えた催しで、今風にいえば町おこしのようなもの。その一環として将棋大会が加わった。音頭を取ったのは当地で将棋道場も経営している実業家のF氏

F氏の道場の正師範が芹沢博文八段、副師範が真部一男四段であったことから、将棋大会の審判長は真部一男四段が任命された。

コマ劇場の前の広い通りに盤が20面ほど並べられ、通行人の誰でもが参加できる会。

私の役割は中央に置かれた事務用のイスに腰かけて、何となく全体を見わたしていればいいといったのんきなもので、手持ちぶさたで眠気を払うのが苦労といえば苦労だった」

ところが、しばらくすると…

「そんな、のんびりムードが一変する。少し前から何者かの視線が額に突き刺さるようだ。

ただならぬ気配に頭を上げて辺りをうかがうと、2時の方角に男が立ち、背を丸めるようにしてこちらをにらんでいる。

ひと目見てそのスジのお兄さんだと感じさせる雰囲気だ。

からまれる理由はありはしないのだが、反射的に目をそらし、会の世話役の人たちを見つけようとしたのだが、彼らは緊急避難をしてしまったようで、見当たらぬ」

1973年は、「仁義なき戦い」が封切られ大きな反響のあった年でもあった。

男は近づいてくる。

「逃げ出すわけにもいかないから腹をくくった。

なるようになれだ。

私から、3mほどの距離を置いて男は立ち止まり、声をかけてきた。

『あんた、どこの組の者だい』

きた!と思った。

その日、私は黒の三つ揃いのスーツを着ており、エラそうに座っていたのだろう。見知らぬ同業者と思われたのかもしれない。

何か答えなければならぬ。

とっさに『日本将棋連盟です』、男はみけんにシワを寄せ、首をやや傾げムムッといった表情。

やや間があり今度は『組長は誰だ』。

私は迷わず自信を持って言い切った。

『会長は塚田正夫です』

男は一瞬たじろいだように見えた。

何が何だか理解しかねるといった様子で、口の中で聞き取れないような声で何やらぶつぶつとつぶやいていたが、もうそれ以上は聞かず、やがて踵を返し去っていった。

思うに、組よりは連盟の方がデカそうだし、組長よりは会長の方がエラそうな響きがある。

そんなこんなで、男もそれ以上の因縁をつけるのをやめたのかもしれない」

漢字で書くと「日本将棋連盟」だが、話し言葉では「にほんしょうぎれんめい」。「日本彰義連盟」と当て字をしたりすると、とたんにそれらしくなってしまう。

それにしても、現代の麻布十番祭りで、棋士や女流棋士による指導対局や、大サービス大道詰将棋、販売コーナーなどがあっても面白いかもしれない。

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