広島の親分(2章-4)

[大同団結…「完結編」] 

市民までを巻き込んだ抗争に、市民やマスコミの怒りは爆発した。

中国新聞では反暴力キャンペーンを紙面で展開した。 

山村組の服部武(小林旭)は、この頃勢力を回復していた村上組(組長は高木さん)、打越組と反目し山村組系に転じた山口(英)組と三派連合を作ることに奔走していた。

服部は、山村組若頭になった頃から村上組の懐柔を心がけ、将来最もアゲインストな動きをしそうな獄中の村上正明(昭和39年出所)にも、わざわざ千葉刑務所まで面会に行って説得した。

その結果、昭和39年5月20日に政治結社「共政会」(天政会)が誕生した。

広島県警捜査二課の調べによると、山村組(山口(英)組含む)250人、村上組140人、徳山の浜部組40人、準構成員を含めると約700人の組織だった。

政治結社とすることで、世間からの反発を少しでも減らしたいという狙いがあったのだろう。

山村辰雄会長(金子信雄)、村上正明副会長(宍戸錠)、服部武理事長、山口英弘幹事長(織本順吉)の布陣。

高木さんは相談役である。

昭和40年には山村辰雄が引退し、会長は服部武になる。(打越組とは昭和42年に手打ちをし、打越組は解散した) 

しかし、政治結社としてみたものの、警察からの締め付けは変わらなかったので、昭和42年に政治結社の看板は降ろした。

昭和42年、服部武は第二次広島抗争当時の山口組組長宅爆破事件の被疑者として逮捕されたため、以後、山田久(北大路欣也)が二代目共政会会長代行として会の運営にあたった。  

その後の昭和44年10月、共政会内での勢力争いから内紛が生じ、村上正明の子分が山田久をけん銃で襲撃、これに端を発し、第三次広島抗争が発生し、村上正明などが逮捕された。 

山田久は、昭和45年11月、服部武から三代目共政会会長の座を譲り受けて三代目共政会会長に就任した。

現在は五代目共政会。 

なお、高木さんは、共政会発足後、昭和40年にテキヤ中国高木会を興し村上組から独立している。

このときに、それまで手がけていたボクシング興業からも身を引いた。

中国高木会は共政会には所属していないが、高木さん個人はその後も共政会の相談役や顧問、最高顧問の役職を継続した。

共政会から完全に離れることにより共政会とのアツレキができて、せっかく下火になった抗争が再燃することを懸念したうえでの継続である。

そして引退。

中国高木会の跡目を、昔からの右腕Kさんに譲った。

高木さんは大正10年生まれ。

父親は呉の海軍将校だったが高木さんが2歳のときに亡くなった。

高木さんは高等小学校を出たあと菓子問屋へ奉公に出ることになる。 

昼夜忙しく、辛いことのある毎日だったが、高木さんの楽しみは、少ない小遣いをはたいて買った将棋の本を読むこと。擦り切れるほど読んだ。 

奉公があけて、高木さんは大阪のビアホールに就職した。

この店には大阪毎日の将棋担当記者樋口金信が、棋士を連れてよく来ていた。

当時ビールは配給制で、飲める本数に制限があったのだが、高木さんは棋士たちには無制限でビールを出し喜ばれた。

このような縁で高木さんは、木見八段道場のアマチュア門下生となる。 

終戦後、呉に戻った高木さんは、知人から大道詰将棋をやってみないかと持ちかけられる。これがこの世界に入るきっかけともなったのだが、その大道詰将棋は詰まないインチキ作品だった。

高木さんは常々「将棋には嘘がない」を信念にしてきているので、このような将棋を冒涜するようなことは許せなかった。

以降、村上組、中国高木会を通して、大道詰将棋を商売とすることは組員に対して強く禁じてきた。

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