深浦康市九段が初めてタイトル戦の挑戦者になった時の第1局。
大勢の人がビックリした。
NHK将棋講座テキスト1996年9月号、鈴木宏彦さんの「将棋マンスリー 東京」より。
7月11、12日。第37期王位戦7番勝負の第1局が三重県四日市市の四日市市文化会館で行われた。タイトルホルダーはもちろん羽生王位。対する挑戦者は深浦五段である。筆者はこの将棋の観戦記担当だった。
深浦がタイトル戦に挑戦するのはこれが初めて。全日本プロの決勝5番勝負で米長九段や谷川九段と対戦した経験があるとはいえ、タイトル戦の勝負は一般棋戦の決勝とは一味違った雰囲気がある。しかも、相手はあの羽生七冠王。向こうが新婚ならこちらは婚約中。これで力が入らないはずがない。
(中略)
立会人や大勢の報道陣が見守る中、深浦はその初手で周囲のどぎもを抜いたのだ。
▲9六歩!
カメラのシャッター音がパシャパシャと鳴り響く中、深浦が何度も端歩を突き出すシーンはちょっとした見ものだった。みんな目を丸くしてその▲9六歩を見ている。対局室に冷たい緊張感が漂う。羽生七冠王は平然とした顔をしていたが、もちろん胸の内はわからない。
「深浦君は初めてのタイトル戦でしょう。普通みんなの目が気になって、そういう手は指せないもんやけどね」
そう言ったのは副立会人の浦野真彦七段。
もっとも、初手▲9六歩はかなり珍しい手ではあっても、それだけで奇襲といえる作戦ではない。振り飛車党の棋士が相手にわざと先手を渡すような意味で▲9六歩や▲1六歩を突くのはたまにあることだ。だが、深浦の作戦はそんなケチなものではなかった。
▲9六歩以下、△3四歩▲5六歩△8四歩▲5八飛△6二銀▲5五歩△5二金右▲9七角。
最初は冷静だった羽生七冠王も、2図までの進行には驚いたという。
「これ、『5五の竜中飛車』じゃないの。漫画のとおりだ」。やはり浦野七段が言う。
ちょっと古い将棋ファンなら、今から20年前ほど前に人気漫画家のつのだじろう氏が描いた将棋漫画『5五の竜』をご存知だろう。5五の竜は奨励会に入ってプロ棋士を目指す少年を主人公にした漫画。大の将棋ファンでもあるつのだ氏が現実の将棋界を詳しく題材に織り込んで描いたため、当時の棋士や奨励会員にもかなりの人気があった作品だが、その漫画の中で主人公の駒形少年が本局の深浦とそっくり同じ作戦を使って活躍するシーンがあったのだ。
「深浦君、漫画を読んで研究してきたのかな」
「漫画を知っていたら逆に指せないんじゃないの」
控室のやりとり。もちろん、この疑問はあとで本人に確かめた。
深浦「漫画は知りませんでしたが、実は初手▲9六歩の実戦ばかり調べてきたんです。普通は▲9六歩のあとで角道を開けるんですが、1局だけ、林葉さん(直子元女流名人)が角道を開けずに指した将棋があった。これが意外と面白そうだったので…」
意外なところで元女流名人の名前が出てきた。それにしても、奇襲を得意にしてきた林葉さんと深浦では棋風も性格も百八十度違うイメージがある。だからこそ、みんな(おそらく羽生王位も)余計に驚いたのだ。
深浦の奇襲に対し羽生は慎重に駒組みを進めた。
1日目は羽生王位が中央に厚みを築いて優勢になるが、2日目、深浦五段が猛烈な巻き返しに転じて形勢不明となる。
しかし、最後は受けに回った羽生王位がリードを広げ押し切った。
先の名人戦で挑戦者になった森内八段もそうだったが、羽生に挑む挑戦者はあらゆる手段を使って(もちろん、悪い意味ではない)羽生を負かそうと必死に知恵を絞ってくる。かつて、羽生が先輩との対局で与えたプレッシャーを、今度は受ける立場になっているのだ。
「今は好きな女の子のことを考えるように、毎日、羽生さんのことばかり考えています」
新聞に載った深浦の挑戦談話の中の一節だ。それだけ考えて出た結論の一つが▲9六歩だったのだ。
(以下略)
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「今は好きな女の子のことを考えるように、毎日、羽生さんのことばかり考えています」は、なかなかの名言だと思う。
この時期、深浦五段は婚約中。
同じ年のNHK将棋講座5月号の湯川恵子さんの観戦記には次のように書かれている。
今年1月、深浦五段は結納のため婚約者と帰郷したそうだ。彼女は、風邪をひいて通った病院でたまたま注射してくれた看護婦さん。たまたま同郷の人だったという縁。一目惚れでもなかったが、寄せに入ってからはめっぽう速く、初デートから2か月後にプロポーズしたとか。風邪はひいてみるもんですね。
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つのだじろうさんの「5五の竜」の棋譜の監修やアドバイスをしていたのが四段時代の田中寅彦九段。
「5五の竜中飛車」は、田中寅彦四段によるアイデアだったもの思える。
5五の竜 (1) (中公文庫―コミック版) 価格:¥ 612(税込) 発売日:1995-11 |
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歌手のつのだ☆ひろさんは、つのだじろうさんの弟。
メリージェーンは超名曲。