近代将棋1997年6月号付録、初めての棋戦優勝シリーズ 羽生善治四段初優勝編」より。
鈴木宏彦さんの1987年の第10回若獅子戦「羽生善治四段-中田功四段戦」の観戦記。
天才少年・羽生と将来の大器と目される中田の対決。十六歳対十九歳。第10回若獅子戦の開幕ロードを飾るにふさわしい一番だ。
(中略)
ガラッとふすまを開けて入ってきた中田、下座に座った羽生を見て「羽生君、あっちに行きなよ」愛想のない声を出す。
羽生・中田。奨励会に入ったのは中田が二年早いが、棋士になったのは羽生が四ヶ月先。羽生が遠慮していると、中田さっさと上座へ。どうやら中田の羽生に対するライバル意識は相当のものらしい。
ところでこの日、対局室の中で羽生にライバル意識を燃やしていたのは中田だけではなかった。
本局の記録を取ったのは米長門下の先崎学二段、十六歳。小学校三、四年の頃の羽生はいろんな子供将棋大会に出たが、この先崎には一番も勝てなかった。天才と呼ばれたのも奨励会に入ったのも、先崎の方がずっと先。
この日、先崎は羽生に対して「羽生先生」でも「羽生さん」でも「羽生君」でもなかった。羽生の持ち時間が切れた時も「これより一分将棋でお願いします」と愛想のない声を出したのみ。
(以下略)
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1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」より。
忘れもしない。五年前の「将棋マガジン」に一葉の写真が載った。羽生善治新四段と先崎学初段が並んで立っているだけの小さな写真だった。写真には副題がついていた。
<左は元天才?の先崎初段>
クエスチョンマークがなければ、僕は将棋をやめていただろう。
四段と初段というのは普遍的にみても大きな差があるが、羽生と僕の場合は、まがりなりにも両名並び称された時期があっただけに、鬱屈たる思い出この一行を味わった。
彼はスターだった。僕にとって羽生善治という名前はスクリーンの向こうの名前だった。この写真が載る少し前から一緒に研究会をやるようになったが、まるで勝てず、盤を挟むと、スターに対する憧憬と嫉妬心から心臓が波打ち、顔を上げることすらできなかった。彼は”羽生睨み”の全盛期で一手指すたびにジロジロ睨まれた。蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。僕は完全無欠な負け犬だった。新人王投手とバッティングピッチャー。芥川賞作家と文学ゴロ青年。栄光と悲惨。太陽とモグラ。モグラが太陽を直視できないように、僕は羽生を直視できなかった。
そのくせ挫折につきものの痛痒や焦りはなく、そのかわり目標も希望もないのほほんとしたフフーテン生活を送っていた。十三で麻雀を覚えて雀荘に入りびたり、十五でパチンコを覚え、パチンコの余り玉を煙草に換えることで煙草を覚えた。
(中略)
そのころ僕のまわりにいた人間で今四段になっているのは中田(功四段)だけである。
中田とは飽きるほど長い時間一緒にいて、麻雀の話、パチスロの出目の話、音楽の話、人生の話、しばらくすると女の子の話などさまざましたが、不思議にほとんど将棋の話だけはしなかった。お互いに避けているような雰囲気があった。二人で将棋を指したことも一度もない。のべつまくなし麻雀ばかり打っていた。
(中略)
目が醒めてみると、同世代の仲間にことごとく抜かれている現実に気づいた。羽生、森内、佐藤康光・・・・・・そして親友の郷田にさえも・・・・・・。僕は意識的に彼らと顔を合わせないことにした。口をきけば卑屈になる自分に気づいてしまったからだ。自分が勝てないことや、四段になれないことは仕方がないとしても、彼らだけ四段になることには耐えられなかった。というよりも、彼らと一生対等に口をきけないで終わるということだけは耐えられなかった。
四段になるまで、羽生とは話したこともなかった。相当に仲が悪かったのだろうか、たんにこちらが鬱屈していただけなのだろうか。
小遣いほしさにあれだけやっていた記録係も、二段に上ったころからほとんどやらなくなった。理由は二つ。羽生の記録を採らされて「羽生先生」と呼ぶのは嫌だったことと、ほかに収入を得る道ができたからだ。
ほかの道とはパチスロのことだ。
(以下略)
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先崎少年は、この写真と様々な出来事がきっかけとなって、向上心が芽生えてくる。
この辺の機微について、先崎五段は51ページにわたって書いている。
抜き身の日本刀のような少年時代だ。
あるいは、誰でも少年時代は抜き身の日本刀のような部分を持っているものなのかもしれない。
何度も感じることだが、勝負の世界は本当に厳しいと思う。